第166話 イケナイ誘惑
「誰もいないけどただいまぁ~」
学校から帰り、紗百合は額の汗を拭った。
早く帰れるのは嬉しいのだが、日の高いうちに外を歩くのはやはりつらいものがある。
彼女は今日も仕事だったのだ。
夏休みだからといって教師が暇をしているかといえばそうではない。生徒たちがいない今にしかできないこと、やるべきことはたくさんあるのだ。
2学期の授業や行事の準備に研修会への参加、そこに部活の指導が加わる教師もいる。幸いにして、紗百合の受け持つ話術部は夏休み中の活動がないため幾分マシだが。
「それでも疲れるものは疲れるのよねぇ~」
彼女はまだ教師になって2年目。経験の少なさを補うには人並み以上に働かなければならなかった。そのうえ部活の顧問まで行うというのでは荷が重い。
そう、なにも紗百合は話術部の活動をサボりたくてサボっているわけではないのだ。むしろ、仕事をサボるために話術部に顔を出したがっているとすら言える。
彼女が採用された背景には縁故によるところが多分にあったが、しかしそれは彼女の優秀さを否定するものではない。ただ、進学校で教鞭をとるには自己研鑽による高いレベルの授業が要求され、必然的に精神がすり減るのは避けられなかった。
「今日もレトルトでいっか」
もしこれが実家であるなら、母親が労いの言葉と共に温かいご飯を用意してくれるだろう。
しかし、この家には自分のほかに誰もいない。すべてを自分で為さなければならないのだ。
このときばかりは、周囲への見栄から高級マンションでの一人暮らしを選択してしまった過去の自分を呪うしかない。
簡単な夕食を済ませると、服を脱ぎ散らかして浴室に向かう。真夏なので長風呂はせずサッと出て髪を乾かすと、リビングのソファに体を沈めた。やっとゆっくり休める。
「さて、と――」
テレビでも見ようかな、とリモコンに手を伸ばしたところで、ふと、部屋の隅に目が留まる。
そこにあるのは堆く積まれた本の山だった。
本、といっても通常の書店で売っているようなものではない。それは御言に言われて買ってきた同人誌――いわゆる薄い本である。
数日前、その界隈に詳しい大学時代の友人に同行してコミケで買ってきた戦利品であった。
炎天下のなか何時間も歩いて、並んで、歩いて、並んで――を繰り返してようやっと獲得した品々。正直、あの場にいた彼ら彼女らがどうしてそれほどまでの情熱を傾けてこの本を欲したのかはわからない。ただ、苦労して手に入れたからか、興味のない紗百合の目にもそれは宝物のように映った。
「でも18禁なのよねぇ~」
お願いを聞いてここまで揃えたとはいえ、まだ高校1年生の御言にこれを渡すのはどうなのだろうか。
教師としての立場というより、親しい仲として純粋に心配になる。
「これに感化されて実際にやってみようと思ったり――まぁこういうのは無理だけど」
まるで汚らわしいものであるかのように触手姦本を摘まんで戻す。
「責任ある大人として、中身がどんなものか確認しておく必要があるわね」
御言ほどではないにしても紗百合も良家の生まれである。蝶よ花よと大切に、時には厳しく育てられ、性的な知識から遠ざけられてきたのだ。
見聞を広めるためにも、息抜きとしても、ちょっと中身を覗いてみるのも悪くない。
「どれどれ――あ、これなんか表紙可愛いわ。……裸だけど」
さすが購入者の列ができていただけあって、絵のレベルはプロと遜色がない。どころか、本職の漫画家が同人誌を書くこともあるのだ。中身にも期待が持てる。
緊張から僅かに強張る指でページをめくる。導入部は意外とあっさりしており、数ページ進んだだけでもう行為に発展していた。
「うわ。けっこう過激――ってこれ、女の子同士じゃない!」
表紙の絵から、凛々しい男性キャラとヒロインのカップルだと思っていたのだ。
「まったく肩透かしを喰らったわ――へぇ、女の子同士だとそういうプレイもあるのね」
なんだかんだ言いつつ読破してしまった。
「ふぅ……まぁまぁよかったわね。それじゃあお次は――っと」
ノリノリで本の山を物色する。
「お、これは普通そう。やっぱり初心者はノーマルなのからじゃないとねぇ~」
『ノーマルなのから』と言うあたり、いずれはアブノーマルなものも読もうという意気込みが窺える。
「ふんふん、学園青春ものね――ってこれ男の子同士じゃない!」
表紙の絵は平らな胸の少女の裸だと思ったのだ。まさか少年の裸だったとは。
「これ、あの子が薦めてきたのよね……」
一緒に行った友人の顔を浮かべる。いままで知らなかったが、まさかこういう趣味もあったなんて。
「腐女子って言ったかしら、こういうのを読む人のこと。人の趣味にとやかく口出しするつもりはないけど、やっぱりこういうのは――嘘でしょ!? そうやって擦り合わせるのぉ~!?」
紙面に広がる薔薇色の世界は、いままで触れたことのない未知のものだった。
ページをめくるたびに上がる声はほとんど悲鳴だったが、それでも瞬く間に読了してしまう。
「こ、これはイケナイわ……っ。こんな本ばっかり読んだら御言ちゃんがおかしくなっちゃうっ。やっぱり全部確認しておかないと……!」
いつの間にか疲れも忘れ、紗百合はぎらついた目で同人誌を読み漁ってしまうのだった。