第99話 詩乃とエスプレッソ⑥
「そういえば縫谷さんはどうしてこっち来てたの?」
詩乃と詞幸は同じ街に住んでいるとはいえ、家は線路を挟んで反対側にある。生活圏は別々で、知らず道ですれ違うこともあったのかもしれないが、話術部で一緒になるまで面識はなかったのだ。
「別に、ちょっとした買い物。日焼け止めとか化粧水とか、こっちの店の方が品揃えがいいから来ただけ」
なんとなしに詞幸の顔から視線を落とすと、彼のかき氷の器がいつの間にか空になっていた。
壁に掛けられた濃い木目の振り子時計を確認する。詞幸との会話が存外に楽しくて時間が経つのを忘れてしまっていたが、もう小一時間経っていたようだ。
「俺はマンガ買いに来たんだ。コンビニだと人気作の単行本しか置いてないから」
それぞれの目的を確認するこの会話の流れは、もうお開きにしようという意思表示だろう。
元々、彼とは偶然出くわしただけだ。会う約束をしていたわけでもないし、買い物自体は大した用でなくとも、この後も予定があるのかもしれない。
手元に視線を移す。氷はもうすっかり溶けていて、ガラスの器の中でオレンジ色が揺れていた。
スプーンで掬って口に運ぶ。甘くて、ほんのり酸っぱい。
――カランカラン。
入り口のドアベルが鳴り、親子連れが来店した。母親と、10才前後と思しき女の子だ。
と、向かいの少年がその様子に目を奪われているのに気づいた。
「ねぇ、詞幸ってやっぱロリコンでしょ」
「ち、違うよっ。やめてよそういうこと言うのっ」
「でもいまあの子のことガン見してたじゃん」
「それは…………なんとなく愛音さんに似てるなあ、って思ったから……」
確かに愛音の身長は高校生にしては異様に低く、140㎝もない。小学校3,4年生の女子児童と同程度の背丈だ。髪型も同じツーサイドアップのため、特徴的には一致している。
「ちょっと似てるだけでも目で追っちゃうとか、ナッシーのことホント好きだねぇ~アンタ」
「茶化さないでよ。進展してないしあんま手応えもないけど、これでも本気なんだから」
詞幸は力なく唇を尖らせた。
「あ、そういやさっき聞きはぐってた。詞幸はナッシーのどういうトコが好きなの?」
「うっ…………うまく誤魔化せたと思ってたのに…………。恥ずかしいから言いたくないんだけど……」
「言わなきゃダーメ。告るときも『恥ずかしいから』って言って誤魔化すつもり? 気持ちはちゃんと言葉にしなきゃ伝わんないよ? 本人相手にカッコ悪い告白するより、言葉にするのに慣れてた方がいいと思うけど」
「……確かに一理ある、ような気がする」
「大丈夫、ほかに言いふらしたりしないから。ほら、言ってみ?」
「うーん、じゃあ――俺が愛音さんを好きなのは、まあ一言で言っちゃうと可愛いからなんだけど……いやいや可愛いのは見た目だけじゃないからね? さっきも言ったけど大事なのは中身だから。もちろん顔も可愛いけど、仕草がまた可愛いんだ、これが。大好物のから揚げを前にしたときのあのルンルンと弾むような笑顔! 見てるこっちまで幸せになっちゃうよねえ。あとぶっきらぼうな喋り方もいいんだよなあ。言いたいことはハッキリ言うってのも見てて気持ちがいいし……まあたまに酷いこと言われるけど。――そう考えると、喜怒哀楽で色んな表情を見せてくれるところが好きなのかなぁ……。いや、裏表のない性格が好き? うう~ん……好きな理由なんて改めて考えてみても上手く纏まんないもんだねえ。心が『好きだー』って言ってるから好きになるんであって、理由なんて後付けみたいなもんだし。一緒にいて楽しいってのも理由だけどキッカケじゃあないし……。あっ、そういえばこの前さ――」
時折恥じらいを見せながらも熱っぽく語る詞幸を見つめ、詩乃は相槌を打つ。
その表情はまさにいま恋をしている人特有のもので、とても眩しく、直視できないほどだった。
話に耳を傾けながら、詩乃はソーサーに載ったカップを手に取った。
温かな湯気が立ち上るエスプレッソを口にする。
舌の上に残っていた甘酸っぱさのカケラが流れ、代わりにコーヒーの濃い風味とまろやかな甘みが口いっぱいに広がった。遅れて苦みがやってくる。
甘くて、苦い。
甘いだけでなく、しっかりと苦みもある。
(ああ、なんか久しぶりだなぁ、こういうの……)
もう忘れてしまっていた感覚に身を委ねる。
彼女は目を閉じて、その意味を味わった。