06
「イザベル、起きて。イザベル……」
「ん……その声は、リリア……。ごめんなさい、私まだ疲れが取れなくて」
耳元で直接語りかける鈴を転がしたような可愛らしい声は、おそらく小妖精リリアのものだ。しかし、イザベルが知る現代の精霊界では、既にリリアはその羽根をララベルに託し、儚い命を散らしたはず。
「もうっ。そんなことじゃ、精霊候補生としてまだまだだよ。今日は地上に降りて、イザベルのお父様にお告げをするんでしょう? 準備もあるし、そろそろ起きないと」
「えっ……お父様にお告げ……?」
だが、声から察するにリリアはイザベルよりもずっと元気な様子だ。しかも、逆行転生の儀式を優先したため先送りとなったお告げの仕事を今日行うと言う。まるで、過去の世界への逆行転生も、聖女ミーアスにより腐敗しかけた精霊界の悪夢も、無かった出来事かのようだ。
ゆっくりと瞼を開けてベッドから身体を起こすと、精霊界修道院の清廉な部屋が広がっておりその場にいるのはイザベルとリリアだけ。
同室の鉱石精霊ミンファは、既に起床済みのよう。サイドテーブルに残されたメモによると『おはようございます、イザベルさん。早く目が覚めてしまったので、先にお兄ちゃんとお祈りにいってます。ミンファ』とのことで先にお祈りに行ったらしい。
「ふふっ……お帰りなさい、イザベル。逆行転生お疲れ様でした。他の精霊達からは、逆行転生の儀式の記憶自体消えちゃったみたいだけど。私は小妖精の羽根でララベルと一緒に過去へと飛んだから、何となく記憶が残っているの」
「他の人々からは記憶が消えている? つまり、あの水鏡の儀式を行ったこと自体、消し去られたと言うこと?」
聖女ミーアスによる支配、及び精霊界をも揺るがす世界線が、そのまま継続していたと仮定すれば……。今目の前にいる小妖精リリアはもちろん、婚約者である精霊官吏ティエールをはじめ、多くの命が存在しない設定になるはずだった。
「うん……重複した世界線のうちの片方は消滅している。けど、逆行転生が実行された事実は記憶が消えても、この羽根に現象として記録されているの。だから実際に逆行転生は、正真正銘イザベルとララベルにとっては現実の出来事だわ」
「私にとっては、現実の出来事だと言うことよね。でも、他の精霊達にとっては……」
「自覚があるかどうか、分からないわ。ただ操られていたとはいえ精霊神官長みたいに我を失くした精霊に配慮して、報告は妖精界と精霊界の上層部のみにする。イザベルもあんまり儀式について、触れない方がいいかも」
イザベルはリリアの助言に無言で頷き、これ以上逆行転生の話題を触れないように心がける。片方の世界線が消滅したとはいえ、イザベルにとってはつい先程まで、過去から現代にかけての時空を超えた脅威の真っ只中だった。
それに、聖女ミーアスを操る悪魔の手の者は、人間や精霊のみならず小さな虫などまで多種多様。どこに密偵が隠れているとも知れぬ状況で、長話は危険を伴うだろう。
「さあ、気持ちを切り替えて頑張らなきゃ。お父様へのお告げの内容は、聖堂で御神託を受ければ良いのよね」
「うん。身支度を済ませたら、朝食の前に聖堂に寄ろう。お告げをもらう聖堂の案内図を貰ってあるから、そこに行こう」
* * *
自室を出て長い廊下を渡ると、水鏡の儀式を行ったはずの部屋への通路が立ち入り禁止区域に変更されていた。そして、封印の如く通路の前に大きくアリアクロスの紋章が。
(逆行転生以前は、アリアクロスの紋章を精霊界で見ることなんて無かった。あの日の星の奇跡が、現代精霊界にも少なからず影響を与えている。やっぱり私が過去に戻って体験した出来事は、幻なんかじゃないのね)
思いもよらない展開に二人で顔を見合わせるが、他の精霊達も行き交う場所で逆行転生の話題に触れるわけにもいかず。
「ここは行き止まりだね。私達の持ってる案内図はちょっと古いのかも。イザベル、他の通路にしよう」
「えぇ……あっ……」
ガクンッ!
逆行転生の後遺症が今になって魂を襲うのか、イザベルは踵を返すつもりが立ちくらみでしゃがみ込む。
「しっかり! やっぱりいろいろ心労があるだろうし、プレッシャーなのかも。お告げは本来、資格のある精霊のお仕事。候補生にとっては大変な任務だけど、イザベルなら大丈夫だよ」
「ありがとう、リリア。すぐに治るわ。ううん……治さなきゃ」
「イザベル……」
自然治癒力に任せては時間がかかるため、回復魔法を用いて自らの立ちくらみを治癒する。すると反対側の通路から人影が……聖堂になかなか来ないイザベルを心配したのか、ティエールが迎えに来てくれたようだ。
(ティエール、良かった無事だったのね。あぁ……ララベル、レイチェル、アルベルト……ご先祖様達の想いを継承するためにも、子孫の私が勇気を出して前に進まなきゃ)
安堵とこれからへの葛藤が綯い交ぜになりながらも、全ての想いを背にイザベルは再び立ち上がった。そして、過去の恩人に届くようにアリアクロスの紋章に向けて、声を振り絞る。
「行ってきます……ご先祖様」
この日を境に、イザベルの心からは自らが人間から精霊になることへの迷いが完全に消えたのだった。




