009 人材
「父上、ただ今戻りました」
「うむ、ご苦労だった。道中に変わりはなかったか」
俺が戻った挨拶をすると、信縄おやじ殿はにこやかに迎えてくれた。
「はい、この通りでございます」
信縄おやじ殿はうんうんと何度も頷く。
「父上、これを」
俺が差し出したのは信縄おやじ殿への従四位上左近衛中将と武蔵守の任命書だ。
「書状では読んだが、本当にわしが従四位上とはな……」
相当嬉しいのか、任命書を持つ手が震えている。
「信直も従五位下甲斐守に任じられたし、今年は甲斐武田宗家にとって誠によき年である!」
信縄おやじ殿は浮かれまくって、大々的に祝いの席を設けた。
当然のことながら、その場には俺の祖父武田信昌と叔父油川信恵(次男)、叔父岩手縄美(三男)、叔父松尾信賢(四男)、叔父帰雲軒宗存(五男)も呼んだ。
この中で、俺が家督を継いだ時に叔父信恵が起こした謀反につくのは、同母兄弟である三男の縄美だ。他にも小山田弥太郎と栗原昌種も謀反に加担して死ぬことになる。
今挙げた二人の叔父の母は小山田家の出身で、信縄おやじ殿の母は穴山家の出身だ。小山田家は武田家の家老衆に名を連ねる家で、穴山家は武田の支流になり、共に甲斐では大きな勢力を持っているので権力争いもそれなりにある。
こういった背景が叔父信恵に甲斐武田宗家を望ませるのかもしれないな。
「皆、よくきてくれた! 今回、朝廷よりこの信縄が従四位上左近衛中将と武蔵守を賜り、息子信直も甲斐守を賜った」
信縄おやじ殿はまだ酒も入っていないのに酔っているようだ。
「また、関白九条尚経様のご息女である経子姫と信直の婚約も決まった」
経子姫との話をすると、信縄おやじ殿はもろ手を上げて喜んだ。もう喜びすぎだと思うほどに喜んだ。
そして、すぐに九条尚経様に婚約をお受けする旨の書状を出した。
「誠にめでたいではないか! 信直! そなたも一言言え」
急に振られても困る。だけど、ここでアピールしておけば、信恵叔父たちが考え直してくれるかもしれない。
「この度、従五位下甲斐守を賜り、九条経子姫と婚約が決まりました。官位官職と婚約者に恥じぬよう、また、甲斐武田宗家の嫡男としてこれからも精進してまいります」
信昌爺さんはかなり難しい顔をし、叔父信恵は奥歯を噛みしめて、叔父縄美は目を閉じて黙して語らず、叔父信賢は素直に祝ってくれた感じで、叔父帰雲軒宗存も祝ってくれた。
祝いの席では騒ぎは起きなかった。だが、今回の祝いの席で俺は狙いどころが分かった気がした。
叔父の岩手縄美は俺に悪感情を持っているわけではない。だからと言ってよい感情もない。だからこそ説得ができると思う。あと、同じく叔父の松尾信賢は取り込みやすいと見た。
この二人を俺の味方につけるのが、信恵の反乱を有利に勝つためには必要だ。
数日後、俺は叔父岩手縄美を訪ねて山梨郡岩手郷を訪ねた。
「……先日ぶりだな。何をしにきたのだ」
叔父縄美はぶっきらぼうにそう言った。
「某は甲斐の将来を憂いているのです」
「……甲斐の将来」
叔父縄美は背がやや高く五尺六寸ほどあり、逞しい体つきをしている。その叔父縄美が俺をギロリと睨んでくると、さすがに気おくれしそうになる。
「信恵叔父上はいまだに父上を認めておいでではないと、某は見ております」
「………」
このことは当然のことだが、叔父縄美にだって分かっていることだ。
「長子相続は名門甲斐武田宗家の血統の根本でございます。これを否定することは家に混乱をもたらすだけでなく、甲斐武田宗家が滅ぶ危機でもあります」
俺は膝を動かし叔父縄美との距離を縮めた。
「縄美叔父上もそのことは分かっておいでではございませんか?」
「何が言いたいのだ」
殺気のようなプレッシャーが俺を襲う。今、叔父縄美の脇差しで斬りつけられたら俺は間違いなく死ぬだろう。
「信恵叔父上が何を言おうと、乗ってはなりません」
「………」
「もし、縄美叔父上が信恵叔父上の話に乗れば、武田家の混乱が広がり武田家は弱体化するでしょう」
「そのようなことはやってみなければ、分からぬではないか」
叔父縄美が顔をグイっと近づけてきた。迫力のある顔だ。
「甲斐には今井、大井、穴山がいます。外には小笠原、村上、諏訪、今川、伊勢、両上杉がおり、武田家が混乱して弱体したと見たら、必ずやそういった者たちが動きます」
「ぐ……」
少しは俺の話に耳を傾ける気になったか。
「本来であれば、信恵叔父上に野心を捨てていただきたいのですが、それは叶いそうにありません」
叔父縄美のところにくる前に、当然のことだが叔父信恵のところにもいった。だが、まったく取り付く島もなく追いだされてしまった。
「俺が信縄兄者につけば、武田家が弱体化することはないと言うのか」
「一時的な弱体はあるでしょうが、傷口が少なく済みます。それ即ち敵に見せる隙が少なく済むことになります」
叔父縄美は目を閉じて考えだした。
五分ほどそのまま考え込んだ叔父縄美は、徐に目を開けた。
「いいだろう。信恵兄者が信縄兄者に反目すると決めても、俺はその話に乗らぬ。これでいいのだな」
「ありがとうございます。これで武田家の未来が少しは明るくなりました」
俺が叔父縄美に笑顔を向ると、叔父縄美はその太い腕を伸ばしてきて俺の頭に置いた。
「まさか信直に諭されるとはな。信直は本当に八歳か?」
苦笑いしか出ない。前世を合わせれば俺のほうが年上なんだから。
「その八歳の甥から縄美叔父上にお願いがあります」
「なんだ?」
俺は佇まいを正した。
「もし、信恵叔父上から誘われたら、その誘いに乗ってください」
「……俺に信恵兄者を騙せというのか」
「はい。これも傷口を小さくするための方策でございます」
「分かった。信縄兄者につくと決めたのだ。弟の俺が泥を被ろう」
「申しわけなく……」
俺は深々と頭を下げて叔父縄美に謝意を伝えた。
その足で今度は叔父の松尾信賢を訪ねた。
「よくきたね」
叔父縄美とはまるでタイプが違う細面の人物で、体のほうも線が細い。
「今日伺ったのは、信賢叔父上にお願いがあるからです」
「うん、分かっているよ」
叔父信賢は俺が言う前に分かっていると言ったが、本当に分かっているのだろうか? どうも飄々としていて掴みどころのない叔父である。
「不思議そうな顔をしているね。ほほほ」
お公家さんのような笑い方をする。
「私は常に信縄兄上の家臣だよ。そして信直殿が家督を継げば、信直殿の家臣になる。だから安心してほしい」
この人の情報はあまりない。前世でも今世でもこの人は目立った活躍がないからだ。
だけど、今の言葉を聞く限りとても頭がよい人物だと思う。これほどの人物が有名ではないのは、なぜだろうか?
「それと信直殿に一つお願いがあるんだ」
お願いと言われると、なんだか身構えてしまう。
「大したことではないよ。私を京へやってほしいんだ」
「京へ……?」
「そう、京で私が公家の相手をしようと思うんだ。その援助を信直殿にしてもらいたい」
つまり、甲斐を出て京で公家の窓口をしようというのか?
ふっ、面白いことを考える人だ。
「分かりました。父上に諮らなければなりませんが、できる限りのことはしましょう」
「うん、お願いするよ」
なんだか逆に丸め込まれてしまったようだが、これで叔父信恵と小山田、栗原に注力できる。
ただし、二人の叔父が裏切らないとも限らないので、そこはしっかりと見極めないといけないな。
▽▽▽
四月になると、叔父信賢は京へ旅立った。
九条家の姫を嫁にもらうために京で活動してくれる人物が必要だと説得したら、信縄おやじ殿も了承してくれた。
あと半年もすると、祖父の信昌が他界する。そうなると叔父信恵のタガが外れるだろうから、文官タイプの叔父信賢は京にいっているほうがいいだろう。
「若、例のものが完成しましたぞ」
信方が部屋に駆け込んできた。
俺の家臣は礼儀がなっていない奴が多い。その最たる者が十郎兵衛だ。
十郎兵衛は俺の部屋の隅で昼寝をしている。こいつは俺の護衛を気取っているのだ。
「できたか。さっそく見にいくぞ!」
「はっ!」
信方が頭を下げるのを見た俺は、視線を動かした。
「十郎兵衛、起きろ!」
「はい、なんですかね」
「出かけるぞ、ついてこい」
「はいはい」
十郎兵衛は涎を拭き、立ち上がった。
感想で安芸武田が武田の嫡流という意見をいただきました。
作者は、甲斐武田から安芸武田へ分派しているという認識の下、本作品を執筆しています。
若狭武田はその安芸武田より分派であり、本作品では分家の分家という位置で書かれています。
私の認識が間違っているかもしれませんが、本作品は甲斐武田が武田の嫡流として書いていきます。




