068 東北統一
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068 東北統一
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大永四年一二月二五日。(一五二〇年)
今年もあとわずか。
和暦と西暦では暦がズレているが、クリスマスか。
こっちに転生してから、クリスマスなんてしたことない。
ヨーロッパでは、この時代でも盛大に祝っているのかな? どうでもいいことだな。
先月のことだが、子供が生まれた。ははは、やっぱ信虎は子だくさんだ。
上杉殿の三人目の子で、女の子だ。名前は藤子と名づけた。
これで六男三女をもうけている。子供たちのためにも、もっと家に居てあげたいのだが、そうもいかない。
さて、今年は関東を統一した。来年は奥州と羽州を手に入れるつもりだ。そのための段取りもほぼ終わっている。
武藤に続いて浅利が内紛でごたごたしている間に、戸沢と南部が浅利を飲み込んだ。
それから蠣崎が降伏した。武田の艦隊を見て、震え上がったそうだ。これも予定通り。
雪解けを待ち、残った敵対勢力を叩き潰す。
陸中の斯波、和賀、稗貫。羽後の小野寺、由利十二頭、安東。
由利十二頭の五家はこちらにつくことを密約。七家くらいはこちらにつくと思っていたが、思ったより少なかった。だが、あまり多くても困るので、五家であれば文句のない数だ。
それから、浪岡具永が一族を引き連れて小田原にやってきた。
浪岡具永には叔父信賢の手伝いをさせようと思い、外交方に配属した。
家族を小田原に置いて、単身赴任で美濃の稲葉山城に向かっているところだ。
あと考えないといけないのが、一番頭の痛いこと。
東北を平定した時に、誰を東北に入れるか。そして、どこに入れるかだ。
豊かな土地は磐城、岩代、陸前。あとは羽前と羽後もそこそこいい。開発すれば津軽(陸奥)もそれなりの石高になる。
岩代はほぼ武田の領地。磐城は南側半分くらいが武田の領地。陸奥、陸中、陸前、羽前、羽後に武田の領地はほとんどないが、武藤の領地を接収している。
面倒なのは伊達だ。伊達は岩代、磐城、陸前、羽前に勢力を持っている。他に南部は陸奥と陸中に勢力を持ち、最上も羽前に確固たる地盤があり、安東も羽後の多くを治めている。
この四家が東北では大きな勢力になる。これをなんとかしたい。
安東を滅ぼしたら、そこに最上を移すか。さらに、伊達を羽前に移して、相馬を浅利の代わりに羽後に入れて、斯波、和賀、稗貫の跡地に葛西を入れる。
そうすれば、陸前のほとんどと岩代、磐城が空くので武田のものにできる。磐城には佐竹が少し入っているが、それは大したことではない。
あとは、武田の誰を入れるかだが、甘利宗信を陸前に入れるか。宗信であれば、東北勢力にしっかりと目を光らせてくれるだろう。
あとは磐城と岩代だが、岩代に叔父縄信を移封しよう。で、空いた下総には弟の次郎を入れる。磐城には譜代家臣たちの他に、関東の国人たちを移そう。移封された国人たちが不満に思わないように、石高を増やす栄転だな。
と考えを巡らせるが、こういうのを取らぬ狸の皮算用と人は言うらしい。だが、これは目標だ。これを実現するために策を巡らせ、時には軍を動かすのである。
それから、東北のことが片づいたら、天下盗りだ。
義稙をどうするかだが、あいつに残された寿命はそこまで長くなかったはず。史実の話になるが、あと一、二年で死ぬはずだ。ただし、その通りに死ぬとは限らないんだが……逆に言えば、もっと早く死ぬことだってあるだろう。
あいつが、京の都を離れることがあれば、朝廷には将軍職を解任してもらおう。その後は義晴を将軍にしないように働きかければいい。
あとはなし崩し的に、武田が天下を盗る。将軍不在なのだから、誰かが天下を治めなければならない。それが武田だ。
▽▽▽
大永五年三月二日。(一五二一年)
なんとまあ、高国のアホが澄元を撃破したらしい。
俺が送った銭で兵馬を揃えた高国は、六角を主力とした軍を仕立てて澄元を攻めた。
奇襲だったそうで、三好之長は軍を揃えることができずに、敗退したらしい。
澄元は阿波に逃げたそうだが、三好之長は知恩寺に逃げ込んだ。この時、知恩寺は三好之長の命を助けることを条件に引き渡したらしいが、高国はその約束を破って三好之長を斬首にしたそうだ。
まあ、細川家の家臣である三好が、澄元を擁立して自分を窮地に陥らせたのだから、細川家当主である高国としては、面白くないわな。
とは言っても、高国の前の細川家の当主は澄元だ。三好からすれば、澄元を擁立してもおかしくはない。お互いに主張があるのは当然だが、勝てば官軍である。
さて、両細川の乱が終結した。これによって、高国は管領として幕府の中で再び重きをなすだろう。同時にそれは将軍義稙にとって我慢できないことのはず。義稙がどうするのか、注視する必要がある。
できれば史実のように追放か出奔してくれると、ありがたい。それこそが俺の望む足利潰しだ。
あと、近江の今浜に築いていた城が完成した。名前はそのまま今浜城にした。今浜城には伊勢長綱を入れ、大垣城には穴山信風を入れた。
これで、長野憲業の普請方は、利根川東遷事業に力を集中できる。尾張の城はゆっくりで構わない。
来月になったら、東北に第一軍団と第三軍団を動かす。
俺も五月に軍を率いて東北に入る予定だ。
この遠征で東北統一を決めるつもりでいる。もちろん、戦というのは何があるか分からない。伊達や最上が反旗を翻すかもしれない。
だから、気を引き締めて油断しないようにするつもりだ。
▽▽▽
大永五年三月七日。(一五二一年)
「虎寿丸、よく参った」
この子供のことを知っている人物は少ないかもしれない。しかし、この子供の息子たちのことを知っている人物は、かなり多いのではないだろうか。
将来の名は島津貴久。あの島津義久、義弘、歳久、家久四兄弟の父親である。
何? 島津四兄弟を知らないだと? 戦国時代の歴史を齧ってないな。
まあいい。島津貴久の長子の義久は九州をほぼ統一したが、豊臣秀吉に降伏した。次男の義弘は鬼島津と言われたほどの人物で、豊臣軍と徹底抗戦を主張したり、関ヶ原の戦いに参戦して壮絶な撤退戦を行った人物だぞ。
「お世話になりまする」
まさか生きているとは思っていなかったが、伊賀者が隠れている虎寿丸を発見し、小田原に連れてきた。
虎寿丸は島津の分家である伊作家だったことで、宗家と違って肝付に執拗に狙われなかったそうだ。このことから、肝付兼続は転生者ではない可能性が出てきた。
もし肝付兼続が転生者であれば、この虎寿丸を放置するわけがない。成長した虎寿丸は貴久と名を改め薩摩を統一し、さらには肝付が治める大隈にも手を伸ばす。その後、息子の義久が大隈どころか、九州統一の一歩手前までいくのだ。
俺が肝付兼続なら、虎寿丸を殺すか監視下に置く。それをしなかった肝付兼続が転生者だとは思えない。ただし、歴史を全く知らない転生者という可能性は残るが。
史実とは違った歴史を紡いでいるこの世界なので、虎寿丸が生きているからと言って、島津四兄弟が生まれるかは分からない。
だが、もしもだ、もしも島津四兄弟が生まれたら、武田の家臣として育ててみたい。きっと武田にとって役に立つと思う。
それと、島津は摂関家の近衛家の被官。要は、近衛家の家臣筋である。だから、近衛家と縁のある当家が手を差し伸べたという名目が成り立つ。
俺に近衛殿が輿入れしていると聞いた虎寿丸が、俺のところにやってくる決心をしたと伊賀者から聞いている。それほど島津には近衛という家は影響があるのだ。
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