060 帰還
大永三年一二月一四日。(一五一九年)
早朝、訃報が飛び込んできた。
「そうか……道悦が逝ったか」
飯富道悦。武田が大きくなるのを、共に歩んできた功臣の一人だ。
片目を失い片足が不自由になってからも、相談役として俺を支えてくれた。
武一辺倒で豪快な性格だったが、体が不自由になってからは文にも傾倒し、相談役としてよく働いてくれた。
「まだ武田の天下は成っていないぞ、道悦」
布団の中で上半身だけを起こして、天井を見上げた。
悲しみよりも寂しさが先にくる。俺は酒は嗜む程度だが、道悦とはよく飲んだ。
武田の当主である俺は、立場上家臣に弱みを見せることはできない。そんな俺が酒を酌み交わし、愚痴を言えるのが道悦だった。道悦は俺の愚痴をただ黙って聞くだけで、何も言わなかった。だからこそ、愚痴を言えたのだ。
「虎昌が初陣を飾るというのに」
来年の奥州攻めでは道悦の嫡子虎昌が初陣する予定だ。昔の道悦に似てなかなかの槍の使い手だと聞いている。将来は武辺者として名を馳せることだろう。
史実では信玄の嫡子の義信の傅役として、信玄に反旗を翻すことになる。だが、この世界で信玄は生まれないので、虎昌が義信と共に処断されることはないはずだ。
「次男はまだ五歳だったか」
おそらく、山県昌景になるであろう、次男は数えで五歳だったはずだ。
可愛い盛りの息子を置いて旅立つ心情は、俺には計り知れないものだ。
道悦の屋敷で物言わぬ道悦と対面した。道悦はまるで寝ているような表情だった。
家臣が老齢で鬼籍に入るのは、よくあることだ。特に俺のように若いと、そういう家臣は多くなるから、これからも多くの功臣の死を見ることになるだろう。
しかし、側近が逝くのは初めてだ。家臣を差別するわけではないが、ほぼ毎日のように顔を合わせていた側近とそうでない家臣では、やはり感じ方が違う。
「道悦……俺が天下に号令する姿を見ずに、何をしているんだ。このバカ野郎」
奥州攻めが終わる頃には、京は混乱しているはずだ。公家たちが泣きついてきたら、上洛すると言っていただろう。
「今度はお前も上洛すると、言っていたではないか」
「殿のおかげで楽しい人生を送れていると、父は毎日のように話しておりました」
世紀末覇王のような顔をした虎昌が、俺をじっと見てくる。まだ一六歳なのに、なかなかの貫禄だ。
「楽しい人生か、それは俺のほうだ。道悦がいたから、俺は色々助かっていたのだ」
「ありがたきお言葉にございます」
「虎昌。喪に服したいだろうが、来年は奥州攻めがある」
「お気になさらないでください。奥州攻めで見事初陣を飾り、父に手柄について報告できることが、何よりの供養になりましょう」
「うむ、お前のその心意気。この信虎、しっかりと受け取った。見事に手柄を立てるがいい」
「はっ」
道悦の屋敷からの帰り、俺は長尾景長の屋敷に立ち寄った。
「道悦殿は残念なことをしました」
「うむ。急なことで、気づいたらすでに息がなかったそうだ」
出された茶を啜り、景長の顔を見る。
「お前は無理をするなよ」
元々、景長は体調不良を理由に、息子に家督を譲って隠居するところだったのを、俺が相談役として出仕させた。
道悦は怪我の影響で体が不自由だったが、基本は元気だった。しかし、景長は体調と相談しながら出仕しているので、道悦以上にいつぽっくりいくか分からない。
「この小田原は、飯は美味いし、気候もよい。さらには温泉も近くにあって、某の体調は以前よりもよいくらいです。まだまだ殿の下で口うるさい爺として、口を出させていただきます」
「ふっ……そうか、口うるさい爺か。うむ、その元気さなら大丈夫だな。俺が隠居するまで、休ませぬからな」
「それはまた無茶なことを仰られますな。殿が隠居する頃の某は、八〇を越えておりましょう」
俺が五〇になるということは、景長は八〇くらいか。人生五〇年というのは、織田信長が好んで舞った敦盛だったな。
「俺は五〇まで働く気はないぞ。三五で隠居するから、せいぜいあと一五年だ」
俺は声を出して笑う。
「さすがに一五年では、天下は収まっておりますまい?」
「そんなのは、息子たちに任せればいい。俺が天下を盗り、その天下を真に武田のものにするのは、息子たちの代だ」
「殿は達観されておりますな」
「達観? そんなものではないぞ。俺はよぼよぼになるまで働きたくないだけだ」
景長は冗談だと思っているようだが、半分は本当のことだ。あと一五年して俺が天下を盗っていなければ、俺は死んでいるだろう。
これだけの国力と、この時代ではありえない武装を用いているのだから、そういうことになるはずだ。
▽▽▽
大永四年一月七日。(一五二〇年)
昨夜から雪が降り始めて、小田原城の天守から見える景色は真っ白だ。
この正月もいつもと変わらず、家臣たちの年賀の挨拶を受けたりして忙しい。
しかし、今年は道悦がいない。こんなにも寂しいものかと、仕事に励み忙しさで気を紛らわす。
「殿。飯富虎昌殿が拝謁を望んでおります」
小姓が意外な者の名を出した。虎昌が何用なのか?
「ここへ」
世紀末覇王のような顔をした大柄な虎昌が、俺の前で頭を下げる。
六尺ある俺とほぼ同じ背丈の虎昌は、まだ一五歳だからもっと伸びると思う。俺よりも大きくなるのは間違いない。
「虎昌。今日は何用だ?」
「はっ、本日はお手合わせをお願いに上がりました」
「手合わせ?」
「殿は剣の達人だと父から伺っております。ご指導いただけければ、この虎昌、生涯の誉れにございます」
剣の達人か。たしかに、剣を振るのは好きだが、人を斬ったこともない俺の生ぬるい剣など大したことないと思うがな。
そうか、これは信方辺りの考えか。道悦が鬼籍に入ってからは、あまり体を動かしていないので、俺の体を気遣ってくれたのだろう。
俺の最初の家臣であり、最も信頼する家臣の一人である信方とはもう一五年以上のつき合いになる。だから俺の寂しさが、分かるのかもしれない。
「分かった。用意するゆえ、待っておれ」
「はっ! ありがたき幸せにて!」
虎昌が下がっていき、俺は信方から長尾景長、織田信定、そして真田頼昌を見た。いきなり訪ねてきた虎昌に、何も言わないところを見ると、四人とも共犯のようだ。
「お前たちの考えだな?」
「はて、なんのことでしょうか?」
信方がとぼけ、他の三人も憎たらしい顔をする。
「俺はそんなに軟ではないぞ」
「そう思っておられるのは、殿だけにございます」
「言うではないか、信方」
「某が言わなければ、誰が言うのですか?」
この野郎。だが、その歯に衣着せぬ物言いが心地いい。
「ふん。信方、信定、頼昌。お前たちもこい。揉んでやる」
「「「えっ!?」」」
「たまにはつき合え。それくらい罰は当たらんぞ。景長は勘弁しておいてやるから、書類仕事を済ませておいてくれ」
「殿、それはないでしょう!」
「景長を木刀で打ち据えたら、ぽっくり逝かれそうだからな。ははは」
書類仕事を景長に任せ、信方、信定、頼昌、そして虎昌を連れて練兵所に向かう。久しぶりに暴れてやろう。
「何をしている。腰が引けておるぞ」
信定に向かって踏み込み、その木刀を弾いて喉元に木刀を突きつける。雪の地面を踏みしめるのも、悪くない。
「なんだそのへっぴり腰は!?」
「め、面目次第もございません」
「そんなことでは戦場で生き残れぬぞ! 次、虎昌!」
「応っ!」
勢いをつけて木刀を振り下ろしてくる虎昌は、世紀末覇王のような顔と大柄な体のためにかなり迫力がある。
「とぉぉぉっ!」
「ふんっ!」
木刀を受け止める。かなりの力だ。将来が楽しみだ。
「虎昌、やるな! 信定とはえらい違いだ」
「ありがとう存じます!」
ぎりぎり鍔迫り合いし、いなして虎昌が体勢を崩したところで、背中に木刀を当てる。
「まだまだ!」
木刀で殴られたことなどまったく意に介さず、虎昌は突っ込んでくる。
虎昌は何度も突っ込んできては殴られ地面に倒れることもあったが、決して諦めることなく突っ込んでくる。
「虎昌のその闘志はいいぞ!」
「ありがとうございまする!」
「信定、お前も見習え!」
「申しわけなく存じます」
虎昌が大粒の汗を流して胸を弾ませ、地面に大の字に倒れる。体中から湯気が立ち上る姿は、本当に世紀末覇王だ。
「次、信方!」
「応っ!」
木刀を打ち合う。生産方から相談役と管理職のようなものを長くしていたが、信方の体は鈍っていないようだ。
「やるな、信方!」
「まだまだ殿に負けませぬぞ!」
「ほざけっ!」
力は俺のほうが上だが、信方には技がある。
「はっ!」
「ふんっ!」
「せいっ!」
「やっ!」
お互いに木刀を打ち合い、肩で息をする。
数秒で息を整えた俺は、大きく踏み込み木刀を振り下ろす。そのタイミングを逃がさないとばかりに、信方は胴を払ってくる。
俺の木刀は信方の頭に、信方の木刀は俺の腹に、お互いに寸止めした。
「ちっ、相打ちか」
「某の負けにございます。これが戦場であれば、某の兜は殿に割られていたでしょう。逆に某の刃は甲冑に阻まれ、殿には届いておりません」
確かに兜くらい割る自信はある。だが、これは戦場ではないのだから、相打ちは相打ちだ。
「鍛錬と実戦は違う。相打ちだ」
「はっ、ありがとう存じます」
「次、頼昌!」
「はっ」
信方は技巧派だが、頼昌は変幻自在の剣だ。型というものがない感じで、奇策奇襲の剣だ。払ってくると思ったら引いたり、突いてくると思ったら払ったりと、太刀筋を読むのが大変だ。
この太刀筋に真田の処世術が現れているのかもしれないな。
「ふんっ!」
「ぐっ……。参った」
太刀筋さえ読めたら、対処のしようはある。
だが、頼昌は地面に片膝をついて右手で左肩を押えているが、あえて俺に一本取らせたのが分かる。こいつ、面倒事を早めに終わらせようと、わざと隙を作ったのだ。本当に喰えない奴だ。
次の更新は……。
迷走はまだ続くのであった。




