058 帰還
大永三年九月一五日。(一五一九年)
京から東海道を通り桑名、そこから稲葉山城へ入った。近江は六角の領地があるので通るのを止めておいた。別に襲撃されることを懸念してのことではない。大っぴらに嫌がらせのようなことをするのを止めておいただけだ。心証というのは、とても大事だ。イメージ戦略というやつだな。
今回の俺の上洛で六角の勢力をかなり削ってしまった。盗るつもりはなかったが、甲賀は俺のものになったし近江の坂田郡、浅井郡、伊香郡、犬上郡が俺の手に入って、さらに美濃、伊賀、北勢も俺のものになった。
六角は面倒な比叡山と俺の領地、そして京がある山城に囲まれることになる。気分は悪いはずだ。俺に対していい感情があるはずがないので、放っておいても六角のほうから暴発してくれると思う。でも、その後押しをするために、水面下で嫌がらせをするのを忘れないでおこう。
とりあえず、六角領の目と鼻の先の今浜に城を築いているし、あとは経済的に締め上げるように指示しておくとしよう。
今、どうしようか迷っているのが、近淡海の水運だ。湊のある坂本には比叡山がいて、南部は六角が抑えている。これでは思ったような水運ができない。せめて坂本が手に入ればいいのだが、比叡山があるし力ずくってわけにもいかないんだよな……。
とりあえず、近淡海の水運はしばらく放置かな。六角が暴発してくれれば、近淡海南岸の湊も手に入るし。それを待ってもいいかと思っている。
「左大将さん。この美濃に留まってはくれまいか?」
目の前には元服したての細面の若者が座っている。名は近衛稙家様。近衛尚通様の嫡子で次の近衛家の当主である。将来は関白を二回務め、足利義輝が三好長慶に京を追われて朽木谷に動座した(逃げた)際に、一緒に朽木谷へ下向している。それで分かるように、近衛家はこれからどんどん将軍家と関係を深くしていくことになるが、それは史実の話だ。この世界ではどうなるか、まだ分からない。
「この稲葉山城に入ったのは、尾張、北勢、美濃、近江のことを安定させるためです。来月には小田原へ向けて発つのは変わりません」
「そこをなんとかなりませんか?」
近衛稙家様よりもさらに若いこの少年は、九条稙通様だ。五年前の数えで八歳の時に従三位に叙せられている人物だ。かなり後の話だが、男子に恵まれなかったため、二条家に嫁いだ妹の孫を養子にして家を継がせることになる。また、浄土真宗本願寺派第一一世宗主顕如を猶子にして、一向宗と結びつきを強めることになるが、これも史実の話なのでこの世界ではどうなるか分からない。
「武田は急速に大きくなった家です。今は領国をしっかりと治めませぬと、また関東から東海にかけて戦乱に見舞われることになります」
下総に叔父縄信がいるし、下野には甘利宗信がいる。関東は二人が睨みを利かせているので安心だ。
越後には今井信元、越中には従兄信守の弟信連がいて、信濃に海野棟綱、尾張に金丸筑前守がいる。甲斐、駿河、遠江、相模は俺の直轄地だし、三河は信泰に任せている。不穏分子がいないわけではないが、そいつらが動けばすぐに潰せるだけの備えはしている。
だが、そのようなことを二人に言うつもりはない。
「そうなのだが……」
「せっかく京の戦乱が収まると思うたのに、残念です」
その戦乱が再燃しないと、俺の天下はない。いや、どのようなことになっても天下は盗るが、皆に望まれて天下を盗れなくなるんだよ。
俺も悪いことを考えていると思うが、それくらいのことをしないと目が覚めない奴らが多すぎるところが、性質の悪いところなんだよ。
「この稲葉山城には叔父の松尾信賢を置きます。京に異変があれば、信賢が動きますので、ご安心ください」
この二人は京と小田原の調整役として、このまま美濃に留まることになっている。二人の両親は言うまでもなく、九条尚経様と近衛尚通様で、近衛尚通様が九条尚経様の父政基様を見舞ったことで、多少は距離が近づいたと思われる。ただし、根深い確執だったので、そう簡単に改善できるとは思っていない。だから、次代の当主(息子)同士で親睦を深めてもらおうと思って、二人を美濃に置くことを両家に提案したのだ。
二人が下がっていくと、次は軍略方の三人が入ってきた。真田頼昌、伊勢氏綱、教来石信保の三人には、それぞれ課題を与えて取り組んでもらっている。
軍略方を預かる真田頼昌は、大阪御坊にいる織田達勝の引き渡し交渉。
伊勢氏綱には幕府の政所執事である、伊勢親子と幕臣の調略。
教来石信保には根来衆の調略だ。
「殿。ご報告がございます」
俺に挨拶をして車座になって座った三人の中から、氏綱が声を発した。
「申せ」
「はっ、伊勢守殿の内応ですが、ご了承いただけました」
伊勢守というのは、伊勢貞陸のことだ。この三人の中で結果が出るのが一番最後だと思っていた氏綱から、最良の報告を受けるとは思っていなかった俺は、驚きのあまり声が出なかった。
「他に四名の幕臣に声をかけておりますが、感触は悪くございません」
「伊勢貞陸。真なのだな?」
「はい。こちらを」
氏綱が懐から書状を取り出し、差し出してきたので受け取る。
内容を確認すると、伊勢貞陸が俺に忠誠を誓うという内容の起請文だった。本気でびっくりして、何度も見返してしまったよ。
「あの伊勢守がな……。どうやって口説いたのだ?」
「今の幕府のあり様と、将軍家のあり様、そして管領のあり様を根気よく説いたまでにございます」
「伊勢守も幕府は長く続かないと思っているのか?」
「そのようで」
俺は頷き、この報告の喜びを噛みしめた。
幕府の中では浮いた存在の伊勢貞陸も、今の幕府に危機感を持っていた。今だから思えるのだが、伊勢貞陸は天下の統治機構があれば幕府の存続に拘っていないのかもしれない。そして、その統治機構の中で伊勢家が働くことを優先したのかもしれないな。
頼昌と信保が受け持つ案件は、まだ結果が出ていない。しかし、伊勢貞陸の寝返りのおかげで、俺は気分がいい。
それに、三件とも結果が出るのに時間がかかると思っていたので、他の二人を叱責するつもりもない。
▽▽▽
大永三年一〇月一二日。(一五一九年)
小田原に入った俺は、母上と妻たち、そして可愛い子供たちに囲まれて食事をしている。
一家団欒っていうのも、いいものだ。
「信虎殿。京の土産話を聞かせてください」
「母上。俺は物見遊山に出かけたわけではございませんぞ」
「でも、少しは京を見て回ったのではありませぬか?」
少女のように目をキラキラさせる母の圧力がすごいんだが。
「京は長らく続いた戦乱のため荒廃しております」
「信虎殿が信賢殿に命じて再建していたと聞きますが?」
食い下がるな……。
「御所とその周辺は最低限の再建をしましたが、京全体を再建するなど無理な話です。それほど京の荒れようは目を覆うものです。九条殿、近衛殿、勧修寺殿なら、俺の言っていることは分かるな?」
「「「はい。殿」」」
「そうなのですね……」
やっと諦めてくれたか。
だが、お土産は持ち帰ったから、そのことを話そう。
「母上。西陣織はご存じですか?」
「聞いたことがあります。豪華絢爛な織物ですよね?」
「はい。大舎人座という集団が生産している織物ですが、それをお土産に持ち帰りましたので、後からゆっくりと見てください」
「まあ、本当ですか!?」
「皆にもあるから、母上と一緒に見るがいい」
「「「「「はい!」」」」」
母上だけではなく、妻たちも俺の言葉に喜びを露わにしている。
ちゃんと親孝行だけではなく、嫁孝行もしておかないとな。
「父上。華子にお土産はないのですか?」
今年で六歳(数え年)になる華子が、くりくりっとした可愛らしい瞳で俺を見てくる。目に入れても痛くない我が長女の無垢な瞳で見られると、もうメロメロだよ。
「華子にもお土産はあるぞ。もちろん、一郎たちにもあるぞ」
「「わーい」」
子供たちが俺に抱きついてきた。どんとこいだ! ははは。
天下を狙う以上は、殺伐とした世界に生きているけど、こういう団欒はいいものだ。
「はいはい。夕餉の最中ですよ」
母上の声で天国のような楽しい時間が終わってしまった……。




