055 上洛
大永三年六月二十八日。
俺は京へ向けて軍を進軍させた。
叔父信賢の情報では、細川澄元と三好之長は戦わずに摂津まで退いたらしい。それは望月虎益からの情報でも同じだったので、細川澄元なのか三好之長なのかは分からないが、京で俺との正面衝突を避ける判断をしたようだ。俺はその判断は賢明だと思う。
もし、俺の上洛を防ぐために、京かその付近で迎え討つようなことがあれば、細川澄元と三好之長は朝敵の誹りは免れないだろう。
まあ、俺が細川高国を擁立しなかったことで、無理に戦う必要はないと思ったのかもしれないが。
「長らくご無沙汰をしてしまい、申しわけなく思っておりまする」
「ほほほ。何、今こうして左大将さんの顔が見られたのだ、構わぬ」
俺の挨拶に舅九条尚経様は上機嫌である。
この場には九条尚経様とその子の稙通様がおり、お二人とも表情は和やかだ。京で戦が起きなかったことが、その和やかさの元になっているんだと思う。
「それで、左大将さんはこの後どうするのか?」
妻の九条殿や娘の栄子、息子の三郎の話で盛り上がってから、九条尚経様が表情を引き締めて問うてきた。
「恐れながら、帝はどのようにお考えなのでしょうか? 某は帝のご意思に従うのみにございます」
「ふむ、お上のお考えか」
九条尚経様は息子の稙通様と顔を見合わせ、困ったような表情をした。
今、朝廷内ではこのまま俺に天下を預けるべしという声と、天下人はそう簡単に変えられぬという声がある。目の前にいるお二人は前者だが、後者の抵抗はかなり激しいらしく、帝もその声を無視することはできないと、叔父信賢より聞いている。
俺としては、できれば後者の意見を取り入れてもらいたいと思っている。その理由は簡単で、俺に天下を預けなかった場合、俺は京から軍を引き揚げる。そうなればこの京の都がどうなるか、身をもって知ってもらうためだ。
頼みにしておきながら俺に天下を預けない。そんなふざけた考えを持っている公家が多くいるのだから、俺は適当な時期に京を引き払って一度公家たちを突き離そうと思っている。
もちろん、俺の天下に協力的な公家は保護するつもりでいる。
「正直に言おう。お上は足利の世で左大将さんが重きをなすことを望んでいる」
「なるほど……。帝がそのように仰せであれば、将軍足利義稙公が天下国家を治めるに、某は何も異論はございません」
「……左大将さんはそれでいいのか?」
不安そうな表情で九条尚経様が問うてくるが、今はそれでいい。
結局、足利義稙は俺の庇護を鬱陶しく思って、俺を排除しようとするはずだ。足利という家はそういうものなのだ。
まあ、出ていけと言われて出ていくのは癪だから、その前に潔く京を足利義稙に預けて帰るつもりだけど。
「是非もございません。それが帝のご意思であれば、それに従うのみにございます」
俺は大げさに頭を下げて見せた。二人とも微妙な表情をしていたようだが、これからどうなるか楽しみだ。公家にも誰が天下を治めるべきか、しっかりと理解してもらわねばならない。そのうえでなければ、俺は天下云々と議論するつもりはない。
▽▽▽
大永三年六月二十九日。
「先日、婿の甲斐左大将信虎さんと会って話をしたが、左大将さんはお上のご意思通り、足利の世に異論を唱えることはないと仰っていた」
麻呂が左大将さんの考えを関白(二条尹房)さん、近衛尚通、鷹司兼輔さんに語ると、三人はなんとも微妙な表情をした。その気持ちは麻呂も同じなので、痛いほど分かる。
今や五つの摂家のうち四家までもが左大将さんと何らかの誼を通じている。麻呂の場合は、幼い頃の左大将さんに光るものがあると考えて娘を嫁に出したが、そこに近衛が横槍を入れてきた。ちゃっかり者の尚通が横槍さえいれなければ、武田の世継ぎは麻呂の孫の三郎であったものを……。
今さらそれを言っても詮無きことなのは、分かっている。分かっているが、やるせない。
それよりも今は左大将さんの本音だ。麻呂たちは左大将さんが、天下に号令するものと思っていた。左大将さん自身もそのつもりで上洛したと思っていたのだが、左大将さんは公方さんの天下に異論はないと明言した。その裏に隠された本音を読まねばならぬ。
「左大将さんが本気で言ったとは思えぬの」
近衛尚通が顎を手でさする。そんなことは皆が分かっているのだ。
「で、あるのなら、左大将さんは何を考えているのか?」
関白さんが呟いた言葉に、鷹司兼輔さんも頷く。
「まさかの……」
関白さんが何かを思いついたようだ。麻呂を含めて三人が関白さんを見つめる。
「……まったく確信はないが」
「今はどんなことも視野に入れねばならぬ。構わぬから申されよ」
麻呂が促すと関白さんは一つ息を吐いて話し出した。
「左大将さんは公方さんの天下に異論はないと言った。左大将さんが幕府の中で公方さんを盛り立てていくことを考えていても、公方さんがそれを拒絶や拒否したらどうなるか?」
もし公方さんが左大将さんを拒絶したら、左大将さんとて公方さんを奉じることはできぬ。となれば……。
「これまでも公方さんは管領さんの専横に反発してきた。それが左大将さんに変わるだけのこと。であるなら、公方さんは左大将さんを遠ざけようとするであろう」
関白さんは一度お茶を飲んで喉を潤した。このお茶は左大将さんが駿河より送ってくれた茶葉を使っていて、とても芳醇な香りと甘味と苦味が程よく絡み合ってとても美味である。
「お上の意向があっても、公方さんが頑なに左大将さんを拒否するのであれば、左大将さんも公方さんを奉じることはできぬか……」
尚通が関白さんの言葉を引き継いだように、そうなれば左大将さんはどうするのか?
「たしかに公方さんが左大将さんを、拒絶することは考えられる。だが、最初から拒絶するとも思えぬが?」
鷹司兼輔さんが関白さんの考えに疑問を呈すと、関白さんも「そうなのだ」と短く答えた。
「お上を唆す者……」
「ん、関白さん、何か仰ったかな?」
関白さんが何かを呟いたようだが、それを尚通が耳ざとく拾ったようだ。
「いや……、左大将さんは反武田の公家たちを、排除しようとしているのではないかと思ったのだ」
「たしかに、その者たちがお上にいらぬことを囁いたのだが、まさか……」
麻呂はまさかと思いながらも、一抹の不安を覚えるのだった。
▽▽▽
大永三年七月一日。
御所で帝に拝謁してお言葉をいただいた後、足利義稙に会いにいく。
足利義稙は俺が入っていくとすでに大広間におり、その左右には幕臣たちが居並んでいた。
ゆっくりと足利義稙の前まで歩いていく。俯いたりはしない。足利義稙を真っすぐ見据えて大広間の真ん中を歩く。
俺の後ろには叔父の松尾信賢、従兄の武田信守、異母弟の武田信房を始めとした板垣信泰などの家臣団が勢揃いだ。数ならこっちが上だぜ。ははは。
どさっと座り、軽く頭を下げる。下げたくはないが、帝のご意思である以上足利義稙にだって頭を下げる。
「従三位左近衛大将、武田信虎にござる」
幕府の守護職なんて名乗らないぜ。俺は足利義稙の家臣じゃない。そう言ってやっているんだ。気づけよ。
足利義稙はきょとんとし、幕臣たちはざわざわする。俺の意図に気づいた者は多いかもしれない。さて、誰が俺に噛みついてくるんだ? まさか足利義稙に噛みつかせるつもりか?
「左大将殿、今の挨拶は何事か!?」
髭面の五〇手前くらいの人物が身を乗り出して俺の挨拶に文句をつけたのは……さっぱり分からん。誰だよ、お前。
「はて、何かござったか?」
横柄な態度で髭面に問いただしてみた。もっとも、この時代のこのくらいの年代の人物は、ほとんど髭を生やしているけどな。
「何かではござらん。公方様に向かってあのような無礼な振る舞い、例え公方様が許されてもこの加賀守、決して許しませんぞ!」
加賀守……。ああ、三淵晴恒か。こいつは足利義稙に対する俺の態度の意味を分かっていないようだな。
俺の挨拶の意味は、足利義稙を含めてお前たちの命は俺が握っているんだぞというものだ。それを分かっている奴は苦々しく思っても口を噤む。この三淵晴恒はそれが分からなかったようだ。
「加賀守殿に許してもらうことなどないと存ずるが?」
「なっ!? 左大将殿は公方様を蔑ろにされるか!」
「まあ待たれよ、加賀守殿」
「む、伊勢守殿、何ゆえに!」
伊勢守ということは、政所執事の伊勢貞陸か。しゅっとした切れ長の目がなんとも冷徹さを思い起こさせる風貌だ。
ん、伊勢貞陸と似た風貌の男もいる。多分、息子の伊勢貞忠だろう。親子してよく似ている。
「公方様が何も仰らないのだから、加賀守殿がキャンキャン言っても左大将様は聞く耳を持ちますまい」
「なっ!?」
三淵晴恒は顔を真っ赤にして、今にも伊勢貞陸に掴みかかろうと片足を出す。
「控えよ」
足利義稙が不機嫌な声色で三淵晴恒を制した。
「しかし……。ご無礼仕った……」
三淵晴恒は足を戻して座りなおしたが、伊勢貞陸を睨みつける。二人は叔父信賢に聞いていたように犬猿の仲のようだ。
さて、足利義稙の代理(幕臣)たちと話をしていると、やはり俺が邪魔だと思っているようだ。まあ、邪魔にされてなんぼのもんだから、いいのだが。
「相伴衆でございますか」
相伴衆は山名、一色、細川、畠山、赤松など、室町幕府の名家に与えられた職だ。
相伴衆のことを簡単に説明すると、将軍と飯を食べる職だ。なんで俺が足利義稙と飯を食わねばならないのか? そんなの罰ゲーム以外の何物でもないぞ。
もちろん、断った。そもそも、俺は幕府の役職なんか要らない。
「では、何を望むのか?」
「そうですな……管領ですかな」
「「か、管領!?」」
場が騒然とする。
まあ、管領なんて言ったら騒ぐのは当然だ。
「ば、馬鹿も休み休み言え!」
三淵晴恒だ。こいつ、俺を馬鹿と言いやがった。いい度胸じゃねぇか。
おっと、後ろに控えている信泰たちから殺気が。落ちつけよ、俺が切れる前にお前たちが切れたら、話がややこしくなるからな。
「加賀守殿、落ちつかれよ」
「これが落ちついていられるか!」
伊勢貞陸が三淵晴恒を諫めたが、聞く耳を持たない。
「管領を望むなど、幕府を愚弄しているというものだ!」
「ほう、愚弄か」
俺が三淵晴恒を見たら、顔を青くしやがった。
いや、俺はただ見ただけだからな。睨んでもないし、殺気を放ってもない。
あ、……後ろの信泰たちか。
「俺を馬鹿と言うお前は、俺を愚弄していないのか?」
丁寧な口なんて糞食らえだ。
「なっ!?」
「俺を馬鹿とか、お前、調子に乗ってねぇか? あぁん?」
どこのヤクザだよと自分で思う。
「そ、それは……」
「今度無駄な口をきいたら、誰であろうとたたっ切るぞ」
「うっ」
メンチ切ってやる。俺の三文芝居でビビッているんじゃねぇよ。さてと……。
「どうやら、某は歓迎されていないようですな」
足利義稙に向かって語りかけると、目を逸らされた。
「公方様もそう思われているようですな」
「………」
なんだか笑えてくる。
こんな茶番、俺がつき合う必要はないだろう。
ここで話を切り上げた俺は、武田屋敷に帰った。
その後はまったく話が進まないことを、公家たちに臭わせつつ京を引き払うタイミングを窺う。
そして、その時がきた。足利義稙が俺に関東管領を与えると言ってきたからだ。
関東管領は上杉憲房だ。つまり、俺の舅から関東管領職を取り上げようとは、ふてえ野郎だ! と俺が怒ったと噂を盛大に流した。
幕臣が何人も訪ねてきて、言いわけしていったが、俺は怒りを抑えきれない。そんな風を装った。
それで、足利義稙に会いにいく。
「某は領国経営がありますので、京から引き揚げることにしました」
「領国経営……?」
「左様にござる。北近江、美濃、尾張、伊賀、北勢(伊勢の北側)、三河、遠江、駿河、信濃、飛騨、越中、越後、上野、下野、武蔵、相模、伊豆、下総、そして甲斐。某は一八カ国、およそ六〇〇万石を従えております。ですから京のことは公方様とここにいる幕臣の方々に任せ、某は領国で公方様のご健闘を祈っております」
俺の言葉に足利義稙と幕臣たちは、目を剥いて驚いている。
それもそうだろう、ここにいる奴らは俺が幕府の中で重きをなそうとするのを、警戒していた奴らなのだから。それが一切幕府のことに口出しせずに国に帰ると言ったのだ、誰だって意表を突かれたと思うだろう。
または、俺の領国の多さや石高を聞いて、驚いているのかもしれない。だが、その中で伊勢親子だけは一切表情を変えなかった。てか、こいつら二人して能面のように無表情だ。
俺にとって今回の上洛は、俺の武威を示すもので、天下を盗るためのものではない。今回は天下を盗るための地ならしの一つであって、これで天下取りが完結するわけではない。
どうせ俺が国に帰ったら、摂津に退いた細川澄元と三好之長が再侵攻してくるし、六角定頼や細川高国だってどういう行動をするか分からない。
もっとも、六角定頼は北近江、美濃、尾張、伊賀、北勢に俺の勢力があるので簡単には動けないと思うが。
だが、細川高国はゴキブリのようにどこにでも現れそうで、鬱陶しそうだ。望月虎益に細川高国から目を離さないように、命じておこう。まあ、俺が言わなくてもそのていどのことはしているだろうが。




