053 上洛
大永三年四月二日。
史実の和暦では永正一六年、西暦でいうと一五一九年の春。本来であれば、この年に北条早雲が死去するはずだった。
この日、この小田原に勧修寺尚顕様がお越しになられた。おそらく長島の件だろう。
「勧修寺様、よくお越しくださいました」
上座に座る勧修寺尚顕様に、俺は恭しく頭を下げた。
「左大将さん、ご無沙汰ですな。変わりなさそうで、何より」
勧修寺尚顕様はうんうんと頷く。妹の勧修寺殿が男子を産んだことで、いずれはそれなりの城地を与えてもらえるだろうと考えているのだろう。
それに俺からの援助も続くので、その点に関しては機嫌がいいのだろう。
勧修寺尚顕様の子孫は天皇家と深く繋がっていくので、俺も粗略に扱うつもりはない。このことは歴史を知っている俺だからこそ言えるのだが。
勧修寺尚顕様は京でのできごとをいくつかお話になって、小田原のこともお聞きになられた。
もちろん、妹の勧修寺殿のこと、その子のことをしきりに気にされていたので大事にしていることを強調しておいた。将来、勧修寺殿の子である六郎は勧修寺家と天皇家、そして武田家を結ぶ人物になるだろう。なってほしい。
「さて、長島の件ですが」
勧修寺尚顕様がそれまでの和やかな雰囲気を一変させた。
「和睦の件でございますな」
「左様。実如さんよりこれを預かってきましたぞ」
おつきの方が漆塗りの長細い書箱を、勧修寺尚顕様に渡された。
勧修寺尚顕様はその中から書状を取り出して、書状を持った手を俺に差し出してきたのでそれを受け取る。
「拝見仕る」
実如の書状、いや、詫び状を読む。内容は簡単で、知多のことの詫びがつらつらと書かれていた。
しかし、詫びを入れるのに、なんでここまで無駄な文が書けるのかと思うほど文章が長い。途中で読むのを止めようかと思ったぞ。
「これで、長島の件は収めてもらいたい」
勧修寺尚顕様の言葉に俺は頷き、詫び状を懐にしまう。
「直ちに長島の囲みを解くように命じましょう」
「これで麻呂の肩の荷が降ろせます。めでたいことだ」
この裏には元関白九条尚経様がいて、勧修寺尚顕様は巻き込まれたようなものなので可哀そうに思えるが、さすがはお公家様、転んでもただは起きぬ人物だ。
俺の一向宗嫌いは京にも知れ渡っている。だから一向宗に有利な和睦を仲立ちすると、武田は京から手を引くかもしれない。一向宗に有利にならず、それでいて一向宗を救ったと思わせるぎりぎりのラインを見極めて、勧修寺尚顕様はここへやってきた。
今の長島は立てこもっていた三万のうち、おそらく二万以上は餓死している。詫び状を携えてくるには最もいい時期だ。この状況であれば、俺が和睦に応じても一向宗の三分の二が死んでいる。俺も納得すると思ったのだろう。
さて、三分の一も生きているのかさえ不思議な状況だが、生き残った一向宗門徒、信者たちは、一向宗内で武田の恐ろしさを伝えてくれるはずだ。
そして、勧修寺尚顕様は俺の機嫌を損なわずに、一向宗を救ったことになる。
「勧修寺様には、大変お世話になり申した。この信虎、心より感謝いたします」
俺は深々と勧修寺尚顕様に頭を下げた。
▽▽▽
大永三年四月一〇日。
小田原から長島に帰ってすぐに殿から長島の囲みを解くようにと、ご命令があった。
長島の一向一揆どもが立ち退く期日は、今月末。これを一日でも過ぎて残っている一向一揆がいたら、容赦なく殺せというご命令だ。
我らが長島の囲みを解くと、大量の兵糧米を積んだ船が長島に入っていったと報告を受けた。
さて、一向一揆どもは大人しく長島を退くだろうか? まあ、退かなくてもそれはそれで構わぬ。その時は、戦列艦の大砲の一斉掃射によって、願証寺ごと吹き飛ばしてくれる。
「板垣様。桑名に二〇〇〇、尾張の海西郡に二〇〇〇、美濃の石津郡に二〇〇〇、そして海上に九鬼殿の配置が完了しました」
殿が参謀にと寄越した伊勢氏綱は、非常に優秀だ。
煩雑な物資の管理を一手に引き受けてくれただけではなく、参謀として効果的な兵の運用を献策してくれる。殿が重用するのも分かる能力である。
伊勢殿がきてからというもの、我が第二軍団の兵たちは兵糧の過不足もなく不満を漏らさなくなった。しかも、長島を囲む兵の配置も効果的に行えて、無駄な兵力の損耗も防げた。
こういった兵糧攻めは某の性格には合わぬが、伊勢殿が上手く立ち回ってくれて成功を収めた。あとは一向一揆どもが立ち退くのを見届けるだけだ。
「板垣殿、一向一揆どもは大人しく退くでしょうか?」
工藤虎豊殿が問いかけてくる。某としては立てこもっていてくれたほうがあと腐れがなくていいのだが……。
「さて……。今回は宗主の実如が詫び状を出したのだ、退くと思うが……。伊勢殿はどう思われるか?」
「おそらくは問題なく退去すると存じます。もし、ここで退かずに長島に立てこもるようなことになれば、宗主殿の顔を潰すことになりましょう」
「それはそれで面白いのだがな」
思わず立てこもってくれと思ってしまう。いかんな、殿に感化されている気がする。
「板垣様、それはなんとも不謹慎なお考えですな」
伊勢殿と虎豊殿が苦笑いをする。
時は流れ、四月も末になると一向一揆は長島から完全に退去し、我らは殿のご命令で願証寺を破却することになった。
すでに、金丸筑前守殿の第七軍団が、桑名に上陸して桑名三城を拠点にするための補修が行われている。
あと半月もすると殿が桑名に入られるため、桑名は筑前守殿に任せて我が第二軍団はこれより関方面へ押し出す。
北勢四八家のほとんどはこちらに帰順したため、我らは残ったわずかな敵勢力を駆逐し、鈴鹿、関、甲賀を平らげることになる。
▽▽▽
大永三年六月六日。
安芸で有田中井手の戦いが起こったのが一年半ほど前の大永元年(西暦一五一七年、本来なら永正一四年)のことである。
なぜ遠い安芸の話をするかというと、安芸には俺と祖を同じくする武田家が根を張っていたたからだ。過去形なのは、有田中井手の戦いで安芸武田家当主である武田元繁がその戦いで矢を受けて討死しているのだ。
武田元繁は楚の項羽とも並ぶ武勇の持ち主と恐れられた人物だが、まあ、狭い安芸の中での話だから話半分で聞くのがいいだろう。
有田中井手の戦いはあの毛利元就が初陣を果たしたと言われる戦いで、毛利元就は初陣を見事に勝利で飾ったわけだ。
後世では「謀神」と称される毛利元就だが、この時の毛利元就は安芸のいち国人でしかない。だが、この後、山陰と山陽に一〇カ国を領有する大大名に成り上がっていく。
武田元繁には光和という子がいて、今はその光和が安芸武田家の当主になっている。
その光和から使者がやってきたのだ。
「某、安芸武田家家臣伴繁清と申します。甲斐左大将様への拝謁がかない、望外の喜びにございます」
史実では、伴繁清は武田元繁の子や弟などと言われているが、俺の目の前にいる伴繁清は武田元繁の年の離れた弟で、三〇歳くらいの働き盛りだ。
有田中井手の戦いでも武田元繁に従って出陣したので、目の前で主君を討たれてしまったわけだ。
ちなみに、この伴繁清は安国寺恵瓊の祖父という説もある。その伴繁清が武田光和の家臣として俺の前で頭を垂れた。
「伴繁清か、聞けばそなたも武田の一門だとか、歓迎するぞ」
「ありがたきお言葉にございます」
俺の言葉を聞いて伴繁清は平伏する。
「安芸から桑名までは遠かったであろう。東海道を通ってきたとか?」
「大坂までは船にて、大坂からは陸路で京へ入り、関を通り桑名へやってまいりました」
その道は東海道と言われる道で、現在、信泰が近江(滋賀県)の甲賀に駐留している。
「京は細川澄元と三好之長が軍を置いているのに、よく通れたな」
「左衛門督様にご配慮いただき、無事に通ることができましてございます」
「そうか、松尾の叔父上に会ったのか」
「はい。この桑名までのことを全て手配りしていただき、感謝の言葉もございません」
安芸のことを聞いたが、代替わりしたばかりなので、家中がまとまっていない印象を受けた。
そして、伴繁清が俺に会いにきた理由を聞く。
「甲斐左大将様におかれましては日の出のごとき勢いにて、天下へ号令される日も近いと存じあげます」
「前置きはいい。まどろっこしいのは性に合わん」
「はっ。それでは、単刀直入に申しあげまする。安芸武田家を支援いただきたく、お願いにあがった次第にて」
安芸武田は若狭武田と血が近く、史実では現当主武田光和が鬼籍に入ると若狭武田家から養子を迎えていたはずだ。
若狭にはすでにいった後か? いや、大坂から京に入ったと言っていたな……。他の誰かが若狭にいったのかもしれないな。
「支援か、若狭にも支援を頼んでいるのだろ?」
「ご明察、恐れ入ります」
「それで、若狭はなんと言ってきた?」
「今は京の情勢が不安定であり、支援をしたくてもできぬと……」
若狭は京に近いから、京が落ち着かないと簡単ではないか。
若狭武田家当主武田元信は六〇近い年齢のため、そろそろ隠居するはずだ。そういったこともあって、軽々しく支援をするわけにはいかないのかもしれない。
「それで、どのような支援を望むのだ?」
俺が安芸武田を支援すれば、毛利元就も簡単には勢力を伸ばせないだろう。
俺が天下に号令する時に、毛利元就が邪魔になるかもしれない。もっとも、毛利元就が一〇カ国を領有するどころか、安芸一国を支配するのさえまだ二〇年くらいかかるはずだ。
ただし、これは俺が知っている歴史であり、かなり変わってしまった歴史がそのままという保証はない。




