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005 逆行転生

 


 釜無川沿いに南下して、笛吹川と合流した辺りから二つの川は富士川になる。

 その合流した辺りが鰍沢(かじかざわ)で、この鰍沢から船に乗って富士川を下る。


 雄大な霊峰富士を左手に見ながら富士川を下ると、数時間で駿河の岩淵に到着する。

 だが、俺は船ではなく河内路を南下する。この河内路は甲斐国側からは駿州往還(すんしゅうおうかん)、駿河国側からは甲州往還こうしゅうおうかんと呼ばれている街道で、駿河の塩を甲斐に運ぶ主要な街道である。

 令和の時代だと国道五二号がほぼ同じ経路を通っていて、当然のことながら現在は舗装されていない。


 この河内路を実際に見ておくことで、駿河へ侵攻する時の役に立つと思う。

 福島軍がこの道を通って北上するのを待つ必要はない。こちらから討って出て何が悪いのか。

 世は戦国乱世であり、喰わねば喰われるのがこの時代の当たり前なのだ。俺は喰われるより喰うほうを選ぶ。


 荷車に荷物を満載しているので、移動速度はそれほど速くない。一時間に二キロくらいしか進めていないと思う。軍の進軍速度もこんなものなので特別遅いわけではないが、遅いと思う。

 俺が駿河を得た暁には街道整備もしなければいけないし、荷車も馬が牽くものにしたい。今後の課題だ。


 ▽▽▽


 一週間かけて清水湊に到着した俺は、猛烈に感動している。

 まさか海を見てこれほど感動するとは前世では思ってもいなかったが、今世では滅多に見ることのない光景だけに感慨深い。


「おお、若、これが海ですか!」


 山国である甲斐で育った信泰には海が新鮮らしい。逆に遠江で生まれた虎盛は冷静だ。


「信泰、そんなに浮かれるな。田舎者丸出しだぞ」

「あいや、これは失礼仕った」


 信泰は表面上は落ちつきを取り戻したが、目がキョロキョロして時々顔を緩ませる始末だ。


「これはこれは、武田の若君様、よくおいでくださいました」


 今回、清水湊から堺までの船は武田家出入りの商人である、駿河屋に頼んでいる。この駿河屋には甲斐では揃えられなかった品々も用意してもらっている。


「武田信直である。駿河屋には世話になるぞ」

「申し遅れまして、失礼しました。私は駿河屋徳兵衛と申します。以後、お見知りおきくださいませ」


 顔は笑っているが、目は笑っていない。商人特有の鋭い目つきをした駿河屋徳兵衛は三五歳ほどの少しぽっちゃりとして、背は高くも低くもない。


 駿河屋徳兵衛に案内された湊では、安宅船や関船が何艘も繋がれていて壮観な眺めだ。


「こちらが今回堺へ赴くための船でございます」


 俺たちを堺まで運んでくれる船は、係留されている船の中では中ぐらいの大きさで関船クラスだと思われる。


「うむ。頼んだぞ、駿河屋」

「はい、お任せください」


 三日ほど清水に逗留して準備を整えた俺は、堺に向けて船の旅を始めたのだった。


 船旅は天気や風の状態に左右されるが、海賊の心配もある。だが、海賊はちゃんと道先案内料(通行料)を払えば危険はない。

 俺が一番心配しているのは……。


「うげっ……」


 そう、信泰のような船酔いである。信泰は盛大に撒き餌を海にぶちまけているが、俺はそこまでの船酔いはない。


「山国育ちの信泰にはこの揺れは厳しいとみえるな」

「わ、若……うっぷ……ゲロゲロ~」


 俺に従って甲斐から出てきた足軽たちも全員船酔いでノックアウトされている。こんな状況で海戦にでもなったら、真っ先に殺されそうだ。


「虎盛、お前は大丈夫か?」

「少し気分が悪いですが、信泰様ほどではございません」


 虎盛も少し顔色は悪いが、信泰のようなことはないようだ。


 波は高いが順調に進んだらしく、船は駿河、遠江、三河、伊勢と進んだ。

 この時代の船は外洋の航海には向かないので、陸からそれほど離れた場所は通らない。だから、一気に紀伊半島を駆け抜けるというわけにはいかず、志摩で彼の有名な九鬼水軍に出遭った。


「おお、あれが有名な九鬼の水軍か」

「若、危険ですから中へ」


 虎盛が船の中に入るように言うが、俺は九鬼水軍に手を振った。

 九鬼水軍からすれば、無邪気な子供が手を振っていると思っているんだろう。


「若……」


 虎盛は呆れ顔だが、危険ならこの船も逃げるだろう。逃げないということは、危険はないと判断していいはずだ。


 九鬼水軍の水夫たちは日焼けした屈強な男たちだった。船酔いでグロッキーな信泰とは大違いだ。


「船頭、九鬼の者に酒を進呈したいが、大丈夫か?」


 俺は九鬼の勇者たちになぜか酒を振舞いたいと思った。理由は特にないが、そう思ったのだ。


「へい、そう伝えてみます」


 意外と船頭は簡単に了承し、九鬼の代表者に大声でそのことを伝えた。


「武田の若様。酒を受けるそうです」

「うむ。手数をかけた。虎盛、酒の準備だ」

「はっ」


 九鬼の代表者数名が俺たちの船に乗り移ってきた。


「俺は甲斐武田宗家の嫡子で武田信直と申す。海の上の勇者たちと巡り会えたことを嬉しく思い、献杯したく思った。受けてくれて感謝する」

「どんな者が出てくるかと思ったが、こんな子供であったか」


 代表者だと思うが、随分と大柄な男である。その二の腕は俺の胴体ほどあるのではないだろうかと思うほど太い。


「子供では不満かな」

「いや、これは失礼した。俺は九鬼泰隆(くきやすたか)と申す。武田の御曹司殿の盃をありがたく頂戴する」


 俺はその言葉に顔を綻ばせ、盃を泰隆殿に差し出した。

 俺が持つとそれなりに大きな盃も、泰隆殿が持つとかなり小さく見える。その盃に酒をなみなみと注いだ。


 しかし、まさか九鬼泰隆が直々にお出ましとは思わなかった。この九鬼泰隆は九鬼水軍を率いている九鬼家の当主だ。

 九鬼水軍と言うと九鬼嘉隆が有名だけど、その九鬼嘉隆の祖父にあたるのが九鬼泰隆だ。


「それでは」


 泰隆殿は酒をゴクゴクと一気に飲み干した。


「ぷっはーっ! 美味い酒だ! 武田の御曹司ともなると、美味い酒を飲んでいるんだな!」


 いや、俺はまだ七歳だから酒は飲んでいないよ。


「返杯したいが、大丈夫か」

「泰隆殿の勧めを断れるものではありませんよ」


 俺は盃を受け取り、泰隆殿が注いでくれる酒の匂いを嗅いだ。

 前世ではかなり酒好きだったが、今世ではまだ七歳だ。酒を飲めるのだろうか? まぁ、倒れても構わないだろう。船の上で転がっていればいいのだから。


「若、大丈夫ですか」

「虎盛。大したことはない」


 俺を気遣う虎盛の気持ちは分かるが、男にはやらねばならぬ時があるのだ。


「いざ!」


 俺は盃に口をつけて酒を喉に流し込んだ。ふむ、やはり前世で飲んだ純米酒や吟醸酒には劣る。

 なんといっても今の時代に澄んだ酒はなく、濁り酒だ。これは澄んだ美味い酒を造ったら売れるぞ、と思えてならない。


「ふーーーっ。美味いな」


 久しぶりの酒は美味い。前世で飲んだことのある酒には及ばないまでも、酒というのは本当に美味しいものだ。


「いい飲みっぷりだ! 気に入ったぞ、武田の御曹司」

「ははは。泰隆殿もよい飲みっぷりでした」


 俺と泰隆殿は笑いあい握手をして別れた。もちろん、酒を樽で持っていってもらった。


「若、冷や冷やしました」


 虎盛は離れていく九鬼水軍の船を見送りながらそう言った。


「虎盛」

「はい」

「あとは頼んだぞ」


 俺はその瞬間、倒れた。酒が回ったのだ。


「わ、若っ!?」


 ▽▽▽


 泰隆殿と会ってより数日、やっと堺に到着した。

 堺はまさに日本の経済の中心地と呼んで差し支えない活気のある港であり町である。


「若……」

「信泰、もういいのか? もっと休んでいていいんだぞ」


 信泰は終始船酔いに悩まされて、この船旅でげっそりと痩せてしまった。少しは慣れそうなものだが、どうも信泰と船は水と油のようだ。


 俺はすぐに京の都に上るかと言えば、そうではない。この船旅の間に新年を迎え、俺は数えで八歳になった。だからこの堺でささやかに祝おうと思ったわけだ。

 そのついでに堺見物をするのは当然のことだろう。


「虎盛、例の件はどうなったか?」

「はい、万事抜かりなく」

「うむ、ご苦労であった」


 虎盛に頼んだのは、米の調達だ。甲斐では昨年も不作だったので米が足りないのだ。幸いなことに俺には売れるものがあるので、それを売って米を買う。そのための場を虎盛に設定させた。

 これは俺の独断であり、信縄おやじ殿は知らない。それに俺が売るのは俺の家臣たちが血のにじむような努力で作り上げてくれたものだから、自由に売り買いしても問題ない。


 俺が堺に持ち込んだのは陶器だ。甲斐にも陶器に適した土はある。あとは作り方を伝えれば済む。わけもなかった。

 陶器を作るには土や窯だけでは足りない。腕のいい作者もいるし、釉薬も大事だ。この中で腕のいい作者は俺がどんなに知識があってもどうにもならないが、幸いにも手先の器用な少年がいたので、なんとか上洛に間に合った。

 本当は間に合わないと思っていたけど、俺は結構幸運のようだ。


下条春兼(しもじょうはるかね)にございます」


 背はそこまで低くないが、腰の低い商人だ。

 俺がこの下条春兼と交渉しようと思ったのは、今は商人に身をやつしている下条家が武田家の支流で、甲斐武田第一二代当主武田信春の息子が下条を名乗り、そこからさらに数代を重ねて今は商人になっているからだ。

 武士が商人になったり、商人が武士になることがよくあることだ。下剋上で有名な斎藤道三も油売りから美濃一国の領主になったし、豊臣秀吉は農民だった。


「甲斐武田宗家、武田信縄が嫡子武田信直にござる」

「ようこそおいでくださいました。まずは白湯でもどうぞ」


 まだ茶の湯が広まっていないので、侍女が白湯を出してくれた。

 俺はその白湯を飲んで、手に持った湯飲みを見つめた。見栄も必要な商人だけあって、よさそうな陶器の茶碗だ。明か朝鮮からの舶来品かな?


「その茶碗がお気に召しましたかな?」

「いや、これよりもよいものを持っている。舶来の陶器だと思うが、このていどかと思ってな」


 かなり挑発的な感じでそう言ったら、下条春兼の眉毛がほんのわずかだけ動いた。

 こんなガキにいいように言われて少しは悔しいのかもしれない。


 

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