042 上洛準備
永正一三年一二月二日。
すでに越後は雪で動けなくなっている。今年は雪が降り始めたのが早かったようだ。
日本海側は雪だが、太平洋側では小田原城が完成したので、引っ越しをする。
今月が臨月の上杉殿は一〇月に入ってすぐに小田原に移動させている。そろそろ生まれるので、楽しみだ。
油川信守の越中侵攻は半分ほど成功といった感じだ。
ただし、一向宗はしぶとく加賀から援軍がきたため、越中から一向宗を駆逐することはできなかった。それでも一向宗の勢力はかなり減衰している。まあ合格点だ。
裾野武田の叔父縄信は下総の千葉を追い込んでいるが、なかなか抵抗が激しい。
しかも上総武田が千葉に援軍を出したのだ。おかげで叔父縄信も苦労をしているようだ。
だが、こっちも千葉を追い込んでいることを考えれば合格点だな。
信濃の海野は砥石城で村上を撃破して小笠原を叩こうとした。だが、ここで将軍家が小笠原と和議を結べと言ってきた。
信賢叔父上の話だとこれは管領細川高国によるものだ。
アホかと思ったが、筑摩郡を割譲すれば和議に応じると言ってやったら、筑摩郡を割譲することに同意した。小笠原に残されたのは、安曇郡だけだ。
遠江は武衛家が思わぬ躓きを見せた。
尾張守護代の清洲織田家と同じく尾張守護代の岩倉織田家、そして清洲三奉行がこぞって武衛家に反旗を翻したのだ。
ここまで多くの家臣が反旗を翻したことで武衛家は尾張を追い出されてしまった。つまり、遠江を取り戻すどころの話ではなくなったのである。
史実では、武衛家の凋落はもっと後に起こるはずだったが、歴史は俺の知っているものと変わってしまっている。
板垣信泰は今川とガチンコで当たることになった。
ただし、信泰は駿河で七年も力を蓄えていたので、今川とのガチンコ勝負を勝ちに導いた。
激しい戦いだったようだが、事前に調略をしていたのがよかった。機を見てこちらに寝返らさせたのだ。おかげで今川氏親を捕縛することに成功し、遠江は天竜川以西も盗ることができた。
信泰も他の家臣たちが派手に活躍しているのを見て腐っていたわけではない。しっかりと調略を進め、攻め込む時のための段取りを考えていたのだ。それでこそ俺の側近であり重臣である。
戦いの話はこの辺で切り上げ、京の話をしよう。
後柏原天皇は去る一〇月に即位の礼、そして一一月に大嘗祭を執り行った。甲斐にいる公家の多くも京へ帰っている。
御大礼には義稙の姿もあったが、公家からは総すかんを食らっていたそうだ。それを聞いた俺の気分はとてもよかったとだけ言っておこう。
公家の多くは京で年を越して春になったら戻ってくる。今回は完成した小田原城の近くに公家用の屋敷を用意しているので、そっちに帰ってくる。
小田原城は長野憲業が築いた平城だが、その規模は秀吉が小田原征伐をした頃よりも大きい。五重の堀といくつもの郭、そして要所には大砲を設置できるスペースがある。
規模は大阪城や家康の江戸城よりも大きい。やりすぎだろと思ったが、造ってしまったものは仕方がない。
今は城下の町を整備していて、そこに公家の居住区もあるのだ。春になって公家が戻ってくる頃には完成しているはずだ。
そんなわけで、俺も引っ越しをする。女性陣は引っ越しの準備で毎日忙しいが、それは男も同じだ。新しい年は小田原で迎えることになる。
▽▽▽
大永元年一月一〇日。
今年は元号が永正から大永に改められた。これも殿が御大礼の資金を全額負担されたからである。公家だけではなく帝もお喜びになっていたと聞く、本当に誇らしいことだ。
ただ、殿が費用を負担したにもかかわらず、殿は御大礼に列席していない。本当に残念なことだ。
殿への新年の挨拶を終えて、重臣たちが集まって談笑している。某も普請方を任された評定衆の一員のためその談笑に混じっている。
「しかし、驚いたな。郭が一一もあり、各部署がその郭に入るのだからな」
誰かが郭の数と、その郭に各部署を入れた殿の采配に驚いている。某も普請方を預かる身であり、これほどの城の築城に関われて誇らしい限りだ。
裁判方、外交方、財務方、開拓方、生産方、兵糧方も各郭に入っているが、他にも旗本衆が入る郭もある。
もしこの小田原城が攻められたら各部署がその郭を守って戦うことになるのだ。
「長野殿、素晴らしい城ですな。感服仕った」
裁判方を預かっておられる栗原昌種が某に声をかけてきた。声色はとても上機嫌である。
「これは、嬉しいことを言ってくださる。まだ城下の整備が残っておりますが、素晴らしい城と城下町になると考えております」
「うむ、これほど巨大な城は古今東西見ることはできますまい」
それもそうであろう、殿はなぜか笠懸山に小田原城の支城を築くように仰られた。
某は殿のご命令を加味して、笠懸山に築く支城を含めて巨大な城郭を造ったのだ。
殿は支城も城郭に組み込めとは言っていないぞと仰りながらも、よくやったと褒めてくださった。そのこともあり、支城には某の息子の業正を入れよと仰せられたのだ。ありがたいことだ。
「しかし、小田原城は壮観であるな。まさか土塁ではなく石垣とはな」
この小田原城の特徴の一つが巨大な石を組み合わせて造られた石垣だ。それだけでも珍しく堅牢なのだが、その石垣の上にはまるで摩天楼かと思うほどの城がそびえ建っている。
これほどの城を築いた者として、某の名も後世に残るやもしれぬな。
▽▽▽
大永元年一月四日。
息子の信虎殿が巨大なお城を築城し、昨年末に多くの家臣たちを動員して住み慣れた石和館を引き払いこの巨大な小田原城に引っ越しました。
小田原城の天守閣からの眺めは壮観です。相模湾が一望できて船の往来がよく見えます。この年になって初めて海を見ました。なんと大きくて広いのでしょうか。
私は鯛の刺身が好きなので、信虎殿がこれからは海の魚も思う存分食べられますよと笑っていました。
「信虎殿、この天守閣からの眺めは壮観ですね」
「はい、母上。俺もこれほどとは思っていませんでした」
今や天下に聞こえし大大名になられた信虎殿の居城なのですから、このように立派な天守閣でもよいでしょう。
「信虎殿が長野殿にお命じになって、これほど巨大な城を築かれたと聞きましたよ」
「それは誤解でございます。俺は城を築けとは言いましたが、これほどの天守閣を建てろとは言っていません」
「うふふふ、天下随一の大大名の城ですから、長野殿も張り切ったのでしょう」
そのおかげで私はこの城の天守閣からこれほど美しい海を眺めることができるのですから、信虎殿には感謝の言葉しかありません。
「今年は信友の初陣を済ませます」
下の子の信友殿は信虎殿と違って槍や剣はからっきしです。私も武家の女として薙刀を嗜んでいますが、私から見ても信友殿は頼りない。
「大丈夫なのですか……」
「心配はいりません。初陣の信友に厳しい戦いを経験させたりはしません」
「だとよいのですが」
思わず不安が口に出ます。
「何、俺だって戦場で人を殺したことはないのです。信友に刀を抜かすような戦場には出しませんよ」
世の中では信虎殿は軍神の生まれ変わりだとか言われているようですが、その信虎殿が戦場で人を殺したことがないなんて想像もできません。
「これは内緒の話ですが、俺は何万の敵を殺してきた総大将です。しかし、俺は戦場以外でもいまだに人を斬ったことはありません」
「まぁ……」
軍神武田信虎が人を斬ったことがないだなんて……。
「大将が刀を持って戦うということは、負け戦に等しいと俺は思っています。ですから、信友に刀を持たせるような戦いはするつもりはありません」
まさか信虎殿がそのようなことを考えているとは思ってもいませんでした。
「それに家臣の手柄を横取りしたら、家臣に恨まれますからね」
「うふふふ、信虎殿は面白いですね」
信虎殿とこのように話をすることは今までありませんでした。
この子は独り立ちが早く手のかからない子でしたから。母としては寂しいことですが、誇らしいことでもあります。
▽▽▽
家臣たちの年賀の挨拶が終わった。
今の領地で地固めすれば、上洛軍を起こせるだろう。あと少しだ。あと数年で上洛できるはずだ。
この小田原城から遠江、三河、尾張、美濃へ進軍するために北を安定させる。
佐竹は同盟を結んでいるが、完全に信用はできない。だから、佐竹の抑えに叔父縄信を下総に入れた。
問題はさらに北だ。磐城は小さな勢力が群雄割拠しているのでいいが、岩城の蘆名は問題だ。それに出羽の最上もいる。最上は伊達と争っているから微妙だが、やはり北が問題だ。
下野と越後に信用できる家臣を入れるか。
そうすると甘利はそのまま越後の北を任せればいいとして、下野はどうするか。よし、下野は海野を入れよう。
そうすると信濃だが、信濃は諏訪に音頭を取らせるか? 諏訪頼満は高遠頼継に娘を嫁がせて和解しているから大丈夫だな。それに叔父縄信のところの信行にも娘を嫁がせているから背くことはないだろう。
そういえば、年号が大永に改元された。本来は一七年まで永正が続く予定だったので、四年早い改元だ。
歴史の改変が進んでいるな。まあ、俺のせいなんだけど。




