041 上洛準備
永正一三年五月七日。
御大礼を執り行うまで半年を切った。麿もそうだが、公家の多くが忙しくしている。
今回の御大礼は左大将が五〇〇〇貫文を献金してくれたおかげで執り行えるが、資金が潤沢なことからこの一〇〇年を顧みても稀に見る盛大なものになるであろう。
公家の中では尊王の意思厚い武田を頼もしく思い、逆に足利頼りなしという声が大きくなっている。
思えば、後醍醐天皇と足利尊氏さんが反目し南朝と北朝に分かれて争うことになった。後小松天皇の御代で統一がなったが、足利の世は常に争いが起きている。
このまま足利を征夷大将軍として政を任せてよいのかという声は大きい。足利義稙さんにもその声は聞こえているはずだが、管領の細川と管領代の大内と権力を巡って水面下で争っている。困ったものだ。
「鷹司さんは何を難しい顔をしているのか」
麿に声をかけてきたのは、にこにこ顔の近衛さんである。
近衛さんは娘の春子さんが武田の嫡男を産んだと聞いてから機嫌がいい。人の気も知らないで。
「武田と足利のことを考えていたのです」
「ほう、武田と足利とな?」
「公家の中には足利頼りなしという声が大きくなっておりますのはご存じでしょう」
「うむ、今回の御大礼も公方さんは何もしてくれんからの」
扇子で口を隠しお笑いになっているが、笑いごとではない。
「このまま足利離れが進みますと、再び天下が乱れますぞ」
「ほほほ、天下ならもう乱れておるではないか。足利同士で争い、家臣と争い、この京を何度戦火に曝したことか」
「むぅ……」
「今も管領の細川と管領代の大内を煙たがっておろう。そのうち、また京を追われるのではないか」
なんとも反論しづらい。もっとも、麿が反論する必要もないが。
「足利の世は乱世と言っても過言ではない。足利が戦乱を起こしているのは麿が言うまでもないであろう」
「されど、それを声高に言うはさらなる戦乱を招きますぞ」
「その戦乱の後に太平の世があれば、よいのではないか」
もしかしたら公家たちを煽っているのは、近衛さんではないだろうか。
もし、足利が倒れ、武田が新たな天下を築けば、次の武田の当主は近衛さんの外孫である。
そうなれば、近衛さんの権勢がさらに上がろうというものである。近衛さんはそれを狙っているのではないだろうか。
「足利から武田に天下が変われば、朝廷も潤うのではないか」
「それは否定しませんが……。しかし、武田も代を重ねたら足利と同じように世が乱れるのではないでしょうか」
「その時はその時の者が考えればいいと思うがの。どんなに栄華を極めようと、それが永遠に続くなどあり得ぬ。栄枯盛衰は人の世の理である」
近衛さんの言うことは理解できる。できるが、簡単なことではないのだ。
▽▽▽
永正一三年五月一二日。
思い通りにならぬ。何ゆえ将軍である余が管領や大内に気を遣わねばならぬ。
「酒じゃ、酒を注げ」
「上様、その辺でお控えになられるのが」
「黙れ! 余が酒を注げと言っているのだ! そのほうは黙って酒を注げばよいのだ!」
クソ、どいつもこいつも余をバカにしおって。管領と大内を黙らせるよい手はないもか……。
「ご免」
余が許可してもいないのに、部屋に入ってきたのは管領の細川高国だ。余がこの男を管領にしてやったというのに、余の命令を聞かず、やりたい放題している。
細川高国、大内義興、畠山尚順、畠山義元の連名で将軍の下知に背かない旨の起請文を提出したというのに、好き勝手するのはまったく変わっていない。今の余はただの傀儡でしかない。どうにかしなければ。
「何用だ、管領」
「公家の間では甲斐の武田の評判がすこぶるよろしいのは上様もご存じと思われます」
武田が毎年多くの品々を朝廷に献上しているのは有名な話で、公家の多くが甲斐へ下向し暮らしているのも多くの者が知っていることだ。
その武田が公家の間で評判がよいのは余も知っている。それがなんだというのだ。
「公家の間では足利頼りなし、武田を頼るべし。と囁かれておりますぞ」
なんだと……。公家どもめ、余がこの京を治めているのだ。少し銭がもらえるからと言って、武田を頼るだと? 節操のない公家どもが!
「このままでは朝廷は倒幕に傾きますぞ」
「と……倒幕だと……」
まさか公家どもが倒幕などと言うはずがない。あやつらは昔ながらの習慣、風習を捨てることを嫌う。変化を嫌う者どもなのだ。
倒幕などしたら天下はがらりと変わり、公家も大きな影響を受けるのは明らかだ。それなのに倒幕などするはずがない。
そうか!? これは管領の罠だ。管領の養父細川政元には三人の養子がいた。その一人の澄之が政元を暗殺し、もう一人の養子の澄元が澄之を討伐した。
目の前にいる高国は何もできずにいたが、大内の協力を得て上洛軍を起こした余にすり寄ってきて、今の地位にある。
澄元は淡路で再起を窺っているが、問題は死んだ澄之だ。澄之の実の父は九条政基であり、兄は九条尚経だ。尚経の娘は武田に嫁いでいる。
澄之のことで尚経は細川を恨んでいるはずだ。不仲を招いた政元や高国など関係なく、細川を恨んでいるのだ。
九条と細川の軋轢を武田にすり替えて、余に公家を成敗させるつもりなのだろう。そのどさくさに紛れて九条尚経を排除または亡き者にしようとしているのが透けて見えるわ!
そんな企みに余は乗らぬ。なぜ余が高国のために尚経を排除しなければならぬ。むしろ、高国が嫌がるのであれば、尚経をこのままにしておいたほうが余の気も晴れるというものだ。
「公家をなんとかせねばなりませぬ。公家どもに、誰が天下を治めているのか、分からせるのです」
天下は余のものだ。であるにも関わらず、好き勝手して余を蔑ろにしているのは目の前にいる高国だ。高国を管領にしたことを悔やまない日はない。
「放っておけ」
「されど、それでは示しがつきませぬ」
「ならば、御大礼を執り行う銭を今すぐに用立ててやるがよい」
「ぐっ……」
情けないことに将軍には実権もなければ、銭もない。銭を捻出するための領地さえ持っていないのが現実だ。余はなぜこのような地位につきたいと思ったのか……。
▽▽▽
六月の後半に板垣信泰が遠江に攻め込んだと報告を受けた。
遠江の天竜川以東を武田の領地にするためだ。兵は皆銭で雇っているし、兵糧も潤沢にある。もちろん、炸裂雷筒やバリスタも用意した。
中砲は持たせてないが、まだ実戦投入していない武器を渡している。なかなか新兵器を出すタイミングがないのだ。大概は炸裂雷筒で終わってしまう。
それはいいのだ、それは……。
「道悦、信賢叔父上からの書状だ。どう思う」
「ご免」
俺は近くで書類に目を通していた飯富道悦に叔父信賢からの書状を渡した。
内容は朝廷で足利頼りなしという声が高まっているというものだ。おそらく御大礼が終わったらその声はもっと大きくなるだろう。
道悦は左目が刀傷で見えないので、やや顔を傾けて右目で書状を読む。
「大義なき上洛は誰にも受け入れられませぬゆえ、武田が上洛するためには帝からの勅命が必要です。このまま公家の方々が武田の天下を望むようになれば、武田にとってこれ以上ない追い風になりましょう」
そうなるように叔父信賢に指示を出して公家たちを煽ったのだが、こうも上手くいくとは思ってもいなかった。
公家は変化を嫌う傾向にあるので、いくら武田が銭を出しても足利から武田に天下を任せるという判断をするには、もっと長い時間がかかると思っていたんだが……。
「殿、京の左衛門督殿の元にもう少し人を回しましょう。今の人数では多くの公家を味方につけるのも時間がかかりましょう」
「ふむ、信房を送ったが、やはり足りぬか」
「それといざという時に兵を指揮できる者も詰めさせぬと、左衛門督殿と信房殿を守れませんぞ」
「それもそうだな。兵が指揮できて朝廷工作もできる者か……」
そうか、北条幻庵がいたな。あいつは頭の回転が速く人当たりもいい。それに兵の指揮もできる。おっと、今は北条幻庵ではなく伊勢長綱だったな。
あとは穴山信風を送ろう。あいつも今のままでは出世ができぬと腐っているかもしれない。活躍の場を作ってやればやる気も出るだろう。
「伊勢長綱と穴山信風を送る。兵は長綱に任せることにしよう」
「ふむ、よいかと存じます」
信風はここで実績を作ったら引き立ててやろう。
「殿、京のことはそれでよいとして、ご舎弟様の初陣をどうされますか」
「そうだな……信友は母上が手放さぬのだ……」
「されど、いずれは殿を支える一門衆の要となってもらわねば困ります。あまり過保護にしてはご舎弟様のためにもなりませんぞ」
「……分かった。信友は来年に初陣をさせる。そうだな、縄信叔父上のところでいいか」
「左京大夫殿であれば、ご舎弟様も安心でございましょう」
叔父縄信も来年になれば下総の総仕上げにかかるだろう。その時に信友の初陣をさせて、勝利で終わらせてやりたい。