035 越後征伐
俺が上野へ引き返した頃には古河公方、宇都宮、扇谷上杉連合軍との戦いはほぼ終わっていた。
上野に攻め入った古河公方と宇都宮軍は甘利軍と睨み合っていたが、俺が二万五〇〇〇の兵を率いて越後征伐に向かったのに、一万の兵が上野に置いてあるとは夢にも思わなかったようだ。
しかも残っていた上野の国人が集結したので、戦力は一万五〇〇〇以上になった。古河公方と宇都宮は青ざめただろうな。
しばらく古河公方と宇都宮の軍が甘利軍と睨み合っていたところに海野軍が現れ、流れは一気に武田に向いた。
その流れを読んだ甘利、海野軍は一気に古河公方と宇都宮を叩き、下野に雪崩れ込んだのだ。
この時、予てから内応を約束していた下野の国人たちが一気に寝返ってきたのも大きいだろう。
あとはコテンパンにやられた古河公方と宇都宮が降伏して戦いは終結したのだ。
一方、武蔵では国人たちが扇谷上杉の攻撃をなんとか耐えていた。そこへ現れたのが叔父武田縄信である。
縄信軍が扇谷上杉軍に横槍を入れたら、扇谷上杉軍は一気に瓦解してしまった。
伊勢と睨み合っているはずの縄信軍がそこに現れたかというと、伊勢の家臣の調略が進んで伊勢をほぼ丸裸にすることができたからだ。
残るは小田原城だけなので、伊勢は動こうと思っても戦力がほとんどない。
だから叔父縄信が扇谷上杉軍に横槍を入れることができたのである。
こちらも調略で内応を約束していた武将がこぞって寝返ってきたので、扇谷上杉は領地を全て失うことになって上杉朝良は逃走中に病でぽっくり逝ってしまったらしい。
欲をかかなければ、もう一年くらい生きていられたのにな。
今回のことで、武蔵、上野以外に下野の半分以上と下総の一部、そして相模のほとんどが手に入った。
相模で残っているのは小田原城だけだが、この頃の小田原城は秀吉に攻められた時のような大規模な城郭ではない。そろそろ全面降伏してくると嬉しいんだが。
降伏した足利高基は出家させ宇都宮成綱は五〇〇貫文で召し抱えたが、芳賀高勝は斬首にした。時世を読み間違えて主家を没落させた無能な家臣は要らない。
ヤバい。甲斐、駿河、伊豆、相模、武蔵、上野、下野、越後、信濃、下総の領地で目標の二〇〇万石を超えるはずだ。
こんなに早く二〇〇万石を達成できるとは思ってもいなかった……。今さらながら恐ろしくなってきた。
▽▽▽
永正一一年一〇月二三日。
なんかあちこちから使者がくる。
尾張の武衛家の使者がきて遠江の半分を俺に割譲するから今川を攻めようと言ってきたし、常陸の佐竹は同盟を結んでほしいと言ってきた。下野の北側を治めている那須からは臣従を申し入れてきて、下総の千葉、上総の武田、安房の里見からは仲良くしようね。そして信濃の小笠原は俺の領地を返せと言ってきた。
武衛家にはしばらく領地経営をしなければならないので、二、三年は待ってほしいと返事をして、佐竹と那須の申し入れは受けた。それから千葉、上総武田、里見には、関東管領の命令に従うのであれば攻めないと返事をしたが、小笠原はぶっ飛ばすぞこの野郎と使者を追い返した。
朝廷に今回の戦いのことを報告して、一緒に献上品を送ったら勧修寺尚顕様がやってきて従四位上を賜った。
さらに次郎が元服して武田信友を名乗り、従五位下大膳亮を賜った。次郎にまで官位官職を賜うことができて、ありがたいことだ。
それから叔父縄信に従五位上武蔵守も賜ったし、従五位下相模守、従五位下下野守、従五位下越後守、従五位下信濃守、正六位下上野介、従六位下伊豆守の任命権がもらえた。朝廷もかなり奮発したものだ。
ちなみに、上野だけ「介」なのは、親王が国守に任じられる親王任国だからだ。
この親王任国は常陸国、上総国、上野国の三カ国があって、名目上は親王が「守」になって「太守」と言われる。だから、親王以外の者は「守」の下の「介」になる。
織田信長が一時期上総介を使っていたのは有名な話だよね? え、知らない?
……まあ、あれだ、ネットで検索してくれ。
それから今年の八月の終わり頃に近衛尚通様が関白を辞せられた。後任は鷹司兼輔様だ。
前回の九条様と近衛様の時のように両家へ贈り物をしたら、近衛家だけではなく鷹司家からも丁寧なお礼状をいただいた。こういうのは筆まめが好感度アップなんだろうな。
「勧修寺様、いつもご苦労様にございます」
「何、お上の御心をお伝えする栄誉に預かれるのであれば、大した苦労ではない」
と言うのは建前で、俺のところにくるとお土産を沢山持たせて帰らせるから、それが目当てなのかもしれない。
「左京大夫殿には、日の出の勢いであり、真にめでたきことですな。ほほほ」
「ありがたきことにございます。これも帝のご威光のおかげにございます」
勧修寺尚顕様は鷹揚に頷き、目を細めた。
「さて、左京大夫殿」
「なんでございましょうか」
勧修寺尚顕様が佇まいを正した。大事な話があるらしい。
「麻呂には国子という妹がいる。どうだろうか、側室に迎えてはくれまいか」
むむむ……。そうきたか。たしか勧修寺尚顕様の叔母は後柏原天皇の典侍で、次の天皇になられる後奈良天皇をお生みになった方だったか……。
もし、この縁談を受ければ勧修寺家を通してだが天皇家と縁続きになる……。恐れ多いことだ。
しかし、悪い話ではない。国子姫との間の子は天皇家と血縁になれるのだから、とても名誉なことだ。
「よい話でございます。当家としても断る理由がみあたりませぬ」
「そうか、いやー、めでたい! これで我が勧修寺と武田は親戚ですな! ほほほ」
俺が越後征伐に出ている間に楠浦殿が俺の子を産んでくれた。女の子だ。
とても可愛くて、目の中に入れても痛くないという比喩は本当だと思った。前世を通じても初めての子供だから余計にそう思えて仕方ないのだ。
しかも、上杉殿が懐妊していて、帰ってきた時にお腹が膨れているのを見て驚いた。来年永正一二年正月頃に生まれる予定だ。嬉しいことだ。
だから、俺にまた妻が増えるのは四人の妻に言いにくい……。だが、この縁は武田にとって非常に大きなものになるだろう。
「ところでの、左京大夫殿」
勧修寺尚顕様の目が真剣なものになった。まだ何かあるのか?
「恐れ多くもお上におかれては、いまだに即位の礼を執り行っておらぬ。残念ながら即位の礼を執り行う銭が朝廷にないのだ」
それは知っている。史実の後柏原天皇は即位してから二二年目にやっと即位の礼を行えたほどに朝廷は困窮している。
後柏原天皇の跡を継いだ後奈良天皇も即位の礼を執り行ったのは、即位してから九年か一〇年後だったはずだ。つまりそれほどに朝廷に銭がないのだ。
「………」
「そこで左京大夫殿に即位の礼を執り行う資金を捻出してもらえないかと、こうして相談をしておるのだ」
「それは帝のお言葉でございましょうか」
「いや、これは麻呂の一存。お上のことを思うと、いても立ってもいられないのだ」
銭で片がつく話なら献金してもいいが、そんな簡単な話ではないのだ。
俺が即位の礼の費用を負担したら、それは将軍義稙の顔を潰すことになる。顔を潰すだけならどうってことないが、義稙が報復を企むのは目に見えている。
そうなれば、武田包囲網が築かれて、めちゃくちゃ面倒になる。帝が不憫なので即位の礼を早く行ってあげたいが、それで武田が窮地に陥ることは避けたい。
二〇〇万石を超えたと言っても、まだ領内は安定していない。あるていど領内が安定し、国人たちが俺を主として認めなければおいそれとは上洛などできないのだ。
「武田が銭を出すことはできます」
「では!」
「お待ちください。それには問題がございます」
「問題とな……?」
「はい。本来、御大礼(即位の礼と大嘗祭のこと)は帝にとって非常に重要な儀式にございます。しかし、武田が銭を出して御大礼を執り行えば、足利将軍家の顔を潰すことになりましょう」
「公方さんの顔を潰す……か」
重苦しい空気になった。
「せめて将軍家が半分を負担するとなれば、顔を潰すことにはならないと存ずるが」
「今の公方さんにそのような余力はなかろう……」
今、京には大内義興がいる。大内義興は周防、長門、石見、安芸、筑前、豊前、山城の七カ国の守護職を兼任している大大名だが、本拠地は周防なので京に置いている軍を維持するためにかなり銭を使っているはずだ。だから、即位の礼の銭を捻出はできてもしないと思う。
そして、将軍義稙と管領細川高国には領地なんてないに等しいので、諸国からの献金や献上品に頼っている情けない状態だから無理なことは誰でも分かる。
「当家としても将軍家の顔を潰すことはしたくはございません。そうなれば、武田としても好ましくない事態になりましょう」
「されど……」
この話が朝廷で話題になれば、足利の治世を終わらせてもいいのではという声が大きくなるかもしれない。そうなれば、こっちのものだ。
「そこで、勧修寺様には将軍家に献金するように促していただけないでしょうか。もし将軍家が費用を負担してくださるのであれば、当家も御大礼を執り行う献金をするのになんの不都合もございません」
「むむむ……」
唸るほどに将軍家の実情は悪いんだろうな。叔父信賢からも将軍、管領、管領代でせめぎあっていると聞いている。困ったものだ。
勧修寺尚顕様は帰っていき、俺は叔父信賢に朝廷工作をさらに進めるように指示を出した。
朝廷が俺の上洛を促す勅書を出せば、俺の思う壺。上洛軍を起こす大義名分ができる。
だが、今のままでは関東管領のいち家臣として、関東の平定を行うくらいしか大義がない。今の状況に不満があるのであれば、朝廷にも動いてもらわなければならない。




