033 越後征伐
永正一一年正月。
昨年は伊豆、上野、武蔵、信濃の安定に努めた。
今年は越後征伐が控えている。これは関東管領上杉憲房との約束で、すでに報酬を前倒しでもらっているので、やらなければならない。俺は約束したことは守る男だ。
さて、新年早々嬉しい知らせがあった。
俺に子ができたのだ。と言っても九条殿、近衛殿、上杉殿の子ではない。
かねてより俺の夜の相手をしてくれていた侍女の子である。子ができたのを機に、彼女も俺の妻に迎えようと思う。
ただ、どうやって三人に話すか。はぁ……、気が重い。
意を決して三人に話したら、「あらそうですの?」って言われた。
三人は俺に側室が何人いても構わないが、隠れてこそこそするのは止めてほしいとだけ言ってきた。
そうだな、俺がこそこそする必要はないんだ。大っぴらに側室を増やす気もないが、侍女の阿古を側室に迎えて子供を認知しよう。
阿古を正式に側室にした。側室なのに正式っておかしいけど、構わない。
そこで母上が現れてお小言をコンコンと聞かされた。武田宗家の当主として堂々と側室を持てと言うのだ。やっぱり時代が違うと思った。
子供は今年の五月に生まれる予定なので、今から楽しみだ。
それから、阿古は家臣の楠浦昌勝の娘なので、楠浦殿と呼ばれることになった。
また、昨年一一月に岳父九条尚経様が関白を辞して、同じく岳父の近衛尚通様が関白におなりになった。
九条家にはご苦労様の意味を込めて贈り物をして、近衛家にはお祝いの贈り物をしたら両家から丁寧なお礼状をいただいた。
近衛尚通様は今回で二回目の関白なので、関白在位は一年ほどのはずだ。繋ぎ的なポジションだという認識なんだろう。
▽▽▽
「海野棟綱、そなたを第四軍団長に任じ、常備兵五〇〇〇を与える」
「ありがたき幸せに存じまする」
武田家も大きくなったので、軍団を増やすことにした。その第一弾が海野棟綱の軍団長抜擢である。
「棟綱は信濃国の勢力に睨みをきかせよ」
「はっ」
信濃の勢力としては、甲斐のすぐ西に諏訪家がいて、他にも守護職の小笠原家、村上家、高梨家などがある。
信玄は村上家を攻めて何度も痛い目に合っている。それほど強い家だ。
だから、村上と強い因縁のある海野を軍団長にした。もちろん、能力重視は当然のことで、無能を重用するほど俺はバカではない。
海野家は村上家によって小県郡塩田荘を奪われ、その後にも海野大乱という戦いを経て勢力が衰退した家だ。
この頃の海野氏は山内上杉家の被官としてなんとか家を保っていたので、憲房が俺のところにきたことも武田に降る契機になったはずだ。
「長野憲業、そなたを評定衆に任じる。新設する普請方を任せる」
「はっ、ありがたき幸せに存じ上げまする」
悩んだ末、普請方は上野の国人である長野憲業に任せることにした。
海野棟綱と長野憲業を重臣として重用したことで、重用されるのは甲斐の譜代家臣たちだけではないと内外へ示す人事でもある。
この長野憲業は上野国箕輪城主で、山内上杉では重臣だったが、憲房が俺に上野の一部を割譲したことで、俺に仕えることになった。
長野憲業の後ろには息子の業正、弟の方業が頭を下げていて、まだ後のことになるが憲業の子の業正は、剣聖と称えられ新陰流の祖として有名な上泉信綱を家臣にする人物だ。
「春の雪解けを待って越後征伐を行う。皆、しっかりと働いてもらうぞ」
「「「ははぁっ!」」」
評定で二人の任命を行い、その後、別室に二人を呼んだ。
「棟綱、越後征伐を行えば高梨が動くだろう。そなたは高梨を牽制し越後へ向かわせるな」
信濃の高梨家は越後と繋がりが強い。上杉謙信が武田に横やりを入れたのも、この高梨家があったからだと言えるだろう。
「承知しました」
棟綱の次は憲業に視線を移した。
「憲業は武田の城としてふさわしい城を築いてもらう」
「はっ、してどこに城を築くかはお決まりでしょうか」
「いや、それを含めて全て憲業に任せる。銭に糸目はつけぬ、誰もが驚くような城を築いてくれ」
「承知いたしました。腕がなりますな」
▽▽▽
永正一一年四月一四日。
越後征伐に向かう日である。
「楠浦殿、出産には立ちあえそうにない、許せよ」
「殿がご無事にお帰りになってくだされば、それでよいのです。お気になさらないでくださいませ」
俺は楠浦殿の膨らんだお腹に手をあてた。
「男だろうと、女だろうと構わない。よい子を産んでくれ」
「はい、ご武運を」
俺は頷いて、九条殿、近衛殿、上杉殿を抱き寄せた。
「俺には木花之佐久夜毘売命様の他に四人の女神がいる。だから戦には負けぬ。心配するな、分かったな」
「「「「はい」」」」
四人が俺の勝ちを祈ってくれていれば、俺は勝てる。
「まあまあ、出陣前に妻とは言え女子を抱くのはどうかと思いますよ」
「母上、これは俺の女神たちから力をもらっているのでございます」
決していちゃついているわけではない。
「ものは言いようですね。ですが、不思議とそんな信虎殿は勝って帰ってくるのだと思えます」
「思うのではなく、間違いないことです」
母上の次は次郎だ。
「次郎、俺が帰ってきたらお前の元服だ」
「はい、ありがとう存じます。兄上のご武運をお祈りしております」
俺は鷹揚に頷いた。俺には待っていてくれる家族がいる。だからここに帰ってくる。さあ、出陣だ。
越後征伐については今から八年前の永正三年に、越後守護代長尾能景が越中の般若野で戦死したことで、息子の長尾為景が家督を継いだことに始まる。
長尾為景はあの上杉謙信の父親だが、この時は若干一八歳だった。
翌年の永正四年に越後守護の上杉房能が家臣である長尾為景の謀反を疑い軍を出そうとしたのだが、それを察知した長尾為景は上杉房能を攻めた。
その結果、上杉房能は長尾為景に殺されて、上条上杉家の上杉定実に越後守護職を継がせたのだ。
これに怒ったのが、上杉房能の実の兄である関東管領上杉顕定だ。
上杉顕定は永正六年に弟の敵討ちのために大軍で越後に攻め入った。
それを見た長尾為景と上杉定実は佐渡へ逃れ、上杉顕定は越後の府内を占領した。
永正七年、今度は長尾為景が越中や佐渡、そして信濃の高梨を味方につけて長森原で戦って上杉顕定を敗死に追い込んだ。
上杉顕定は言うまでもなく、憲房の養父になる。だから今回の越後征伐は敵討ちというわけだ。
大体、戦国の世に生きているのだから、殺し殺されは世の常だ。それを一々根に持っていたらいつまでたっても戦は終わらない。
などと思っているが、俺がその立場だったら怒り狂っているかもしれない。感情ってそういうものだよな。
今回の越後征伐には、武蔵国の扇谷上杉、常陸国の小田、下野国の宇都宮にも出兵しろと命令を出した。言うまでもなく、敵対している大名たちだ。
宇都宮と小田はこれを無視、扇谷上杉は伊勢がいるので無理と返答があった。つまり全滅だな。
これは予想していたことだけど、ここまでそっぽを向かれては腹が立つと言うよりは呆れるしかなかった。
越後の次はこいつらが標的になるのだと分からないのだろうか?
甲斐を出て、武蔵から上野と軍を集結させて進んだ俺は、上野から三国峠を通って越後に入った。
越後の阿賀野川以北は揚北衆という勢力があって、この揚北衆は長尾為景とは敵対していると言っていい。
だから今回の越後征伐に兵を出してくれと要請した。そしたら揚北衆から参戦すると返事があった。
揚北衆は秩父党、三浦党、佐々木党、大見党からなる勢力だが、越後でも独立色の強い勢力だ。
長尾為景が実質的に越後の主権を握ると、この揚北衆は何度か長尾為景と戦っているが、いずれも鎮圧されている。
揚北衆と言っても、それぞれが好きに長尾為景と戦うので一体感がないのだ。
その揚北衆が今回の越後征伐に参戦するのだから、長尾為景は相当嫌われているのが分かる。守護職上杉房能を殺したのが足を引っ張っているんだろうな。
五月に入ってすぐに越後の樺沢城を半日ほどで落とすと、俺たちは樺沢城に入った。
この樺沢城は上杉謙信が関東侵攻の拠点にした城だから、こちらも同じことができる。
「虎益、為景はどうしている」
「はっ、信濃の小笠原、高梨、村上、佐渡の本間に援軍を頼んでいますが、信濃は海野殿が抑えておりますれば、動くのは難しいでしょう。本間は大軍だと聞いて二の足を踏んでいるようです」
佐渡の本間は今回でなくてもいいが、佐渡には佐渡金山があるから確実に征伐したい。
それに北前船で賑わっているはずの直江津のような湊も抑えておきたい。
後は越後上布は微妙だな。ないよりはあったほうが銭になるが、越後上布は麻布なので京では絹織物や綿織物に駆逐されつつあると聞く。その点で俺は商売敵ってわけだ。
令和の時代だと新潟県(越後)は米どころで有名だが、この時代ではまだそこまで有名ではない。
多分、石高は四〇万石もないはずだ。だが、江戸時代に開墾が進み一〇〇万石を超えていたはずなのでスペックは武蔵に近い。
雪深い土地なので冬になると身動きができなくなることが痛いし、交通の便があまりよくないため微妙な土地だ。
ただ、二度と長尾や上杉が台頭してこないように抑えておかないといけない土地なんだよな……。
越後単体で一〇〇万石を目指して開墾するとしましょうか。勝ってからだけど。




