032 越後征伐
永正一〇年六月九日。
昨年の山内上杉家を巡る騒動によって疲弊した宇都宮が佐竹、岩城、那須らに攻められたと報告を受けた。前段階で米を買っていたので、出兵するのは分かっていた。
「関東管領殿、これは明らかに私闘禁止令に背くものでござる。停戦命令を出し、それで戦いを中止しなければ軍を出しましょう」
「うむ、左京大夫殿に任せる」
「はっ」
憲房がこんなに素直なのはなぜかと考えたことがある。だが、さっぱり分からん。もっと俺に反抗すると思って対応を考えていたんだがな……。
憲房の許可の下、停戦命令を出すと佐竹は軍を退いた。
拍子抜けするほどあっけなく軍を退いたので、何か裏があるのではないかと思うほどだ。
佐竹が軍を退くと岩城と那須も軍を退いた。家の規模が違う岩城と那須だけでは戦線を維持するのが難しいからだが、岩城は宇都宮と領地を接していないので、佐竹に後方を抑えられるのが嫌だったからだと思う。
宇都宮はこの停戦に難色を示していた。
宇都宮はこの時点で古河公方に援軍を頼んでいたが、家内はボロボロなのに戦いを続けられると思うところがすごいと思う。
これも芳賀高勝の専横のせいかもしれないな。だが、今回のことで宇都宮や古河公方の不満は高まったはずだ。
古河公方は家臣筋に当たる憲房の停戦命令で停戦させられたことにかなり怒っているそうだ。
憲房が発布した私闘禁止令は足利将軍家も認めたもので、古河公方は義稙が送った御内書によって叱責されている。
もしこれに反抗し続ければ、茶々丸のように将軍家から討伐令が出されるかもしれないので不満があっても従ったようだ。
だが、よく考えてほしい。関東管領である憲房の施行状は下位の者に対して効果があるのだから、古河公方が関東管領より上位だと思うのであれば、無視すればいいのだ。他の者は関東管領の施行状に従えと言いながら、自分は従わなければいいのである。
なのに停戦命令を受け入れたということは、古河公方が関東管領よりも下であると自分で言っているようなものだ。そんなことも分からないらしい。
▽▽▽
永正一〇年七月二日。
上野にいるはずの憲房が不意に俺を訪ねてきた。何事かと重臣たちを集める。
裁判方の栗原昌種、外交方の望月虎益、財務方の秋山信任、開拓方の青木信種、生産方の板垣信方、兵糧方の小畠虎盛、相談役の飯富道悦、第三軍団の甘利宗信。
今回は評定の開催が近いということもあって、甲斐にいる役職者たちが皆揃った。
「本日は急なお越しですが、火急の要件がございましたか」
「いや、左京大夫殿の顔が見たくてな」
はぁ? 俺の顔なんて見たって大したことない顔だぞ。自慢じゃないが、いたって普通の顔だ。
「このような平凡な顔でよろしければ、とくとご覧くだされ」
「ははは、左京大夫殿も忙しかろう、本題に入るとしよう」
なんじゃそりゃ。俺をおちょくりにきたのか?
「実は、左京大夫殿にどうしても“うん”と言ってもらいたいのだ」
「はて……。いくらなんでも内容を聞かずに“うん”とは言えませんが」
「なぁに、俺の娘を左京大夫の妻にしていただきたい。九条殿、近衛殿のことは知っている。側室でいい」
「………」
また突飛もないことを言い出したな。言った本人は涼しい顔をしていやがる。
「娘との間にできた子を武田家の当主にしろとは言わぬ。残念ながら俺には男の子がいない。男の子が生まれたら山内上杉家を継いでもらいたいのだ」
たしかに憲房に男の子はいない。だが、女の子だっているとは聞いていない。
俺は望月虎益を見たが、虎益はわずかに首を縦に動かした。女の子はいたんだ。
「武田家のことに俺は首を突っ込まない。どうだろうか、娘をもらってはくれまいか」
参ったな、ここまで言われて断るわけにはいかない。だが、その裏に隠れた意図はあるていど見える。
憲房には後ろ盾がないのだ。祖父は関東管領だったが、父は出家して僧籍にあった。
憲房は砂山の上に建つ城だ。関東管領になった今でも俺が手を引けば砂山が崩れる。それを繋ぎとめるために娘を俺に嫁入りさせるのだ。
それに、俺の子が山内上杉家を継げば、山内上杉家は武田の支援を受け続け残れる。
俺が天下を取ったらそれこそ関東を差配できるかもしれない。まぁ、憲房でも俺が天下を狙っているとは思ってもいないだろうが。
そんなことしなくても、今のように大人しく関東管領をしていてくれたら俺は憲房を見限ったりしないのに。
「分かりました。その縁談、ありがたくお受けさせていただきます」
「そうか、よかった。今日は娘も連れてきている。会ってやってくれ」
おいおい、まとまるかも分からない縁談なのに、もう娘を連れてきているのかよ。気が早すぎるだろ。まったく、年寄りは本当にせっかちだ。
場を移して憲房の娘を俺の部屋に呼んだ。
「失礼いたします」
涼やかな動きでふわりと憲房のやや後ろに座って頭を下げた姫は、人形のように可愛らしい少女だった。
「娘の操でござる。今年で一七歳と婿殿より一つ上だが、よろしく頼む」
「操にございます。幾久しくお願い申し上げまする」
可愛らしい顔だったので俺より年下だと思っていた。見た目は一三歳くらいにしか見えない。それに声もとても可愛らしい。
「武田左京大夫信虎でござる。よくお越しくださった」
「左京大夫殿はいずれ関東を手に入れる御仁だ。よく尽くすのだぞ」
いや、関東は狙っているけど、全体は盗るつもりはない。武蔵、上野、相模を取ったら西を目指す予定なんだから。
「はい、よいお方に嫁ぐことができ、感謝しております。父上」
この父娘の関係は分からないが、操はある意味政治の道具として俺のところにやってきた。それが感謝するべきことなのか……。
俺としては妻になる女性をないがしろにするつもりはないが、悲しいことにこの時代の女性は政治の道具になることが多い。それが普通なので、操も疑問に思っていないのかもしれない。
自由恋愛が必ずしもいいとは言わないが、これしか道がないのは残念なことでもある。
九条殿、近衛殿に操を紹介した。二人は何も言わないが、内心は腹が立っているだろう。と思いきや、三人は和やかにお喋りを始めた。あれ、心配しているのは俺だけか?
……なんだか三人と俺の間に見えない壁があるようだ。うん、気にしすぎだな。
▽▽▽
秋も深まり紅葉が美しい頃、神妙な顔をした秋山信任と栗原昌種がやってきた。
財務方と裁判方のトップが神妙な顔をしているので、誰かが公金でも横領したのかと身構えてしまう。
「どうしたんだ、二人して。銭が不足でもしたのか」
「いえ、銭は蔵に入りきらぬほどあります。おかげで蔵をいくつも建てる必要があるくらいでございます」
秋山信任が苦笑いをした。銭が有り余っているのであれば、本当に横領か?
「では、何ごとだ」
二人は顔を見合わせて頷きあった。
「さればでござります。殿は甲斐、駿河、伊豆の三国を完全に支配し、相模、武蔵、上野、信濃の一部を領有しております」
「うむ、昌種が言うまでもなく、俺もそのくらいは知っているぞ」
「殿は一〇〇万石を超える大名にございます」
「信任、何が言いたいのだ」
二人が間を置いた。なんだと言うのだ。
「殿、城を築きましょう。殿に相応しい巨大な城にございます」
「大大名である殿の居城に相応しい城を築きましょうぞ」
なんだ、そんなことで神妙な顔をしていたのか。ビビッて損した。
「殿はこれからも関東に勢力を伸ばすことでしょう」
「その殿が古く狭い石和館をお使いになっていては、内外に殿の権威を示すことができません」
内外へのアピールもあるから立派な城を築けというのだな。ふむ、二人の言うことには一理ある。
「分かった。城を築こう」
「「ありがとう存じます」」
「しかし、どこに築くのだ。二人にはその心づもりがあるのか」
城を築くのは構わない。銭が蔵から溢れるくらいにあるし、この石和館では手狭でもある。
「それを含め普請方を設置し、対応させましょう」
「ふむ、普請方か……」
考えたら公共事業は大事だよな。城普請だけではなく、色々と普請して銭が市場に循環するようにしなければならない。
「築城の件、普請方の件、承知した。これからも気づいたことがあれば、遠慮せずに上申してくれ」
「「はっ」」
二人は入ってきた時とは逆に晴れ晴れとした顔で出ていった。
俺に対して何かを上申することは、そんなに緊張するものなのか? そういう雰囲気を出しているとすれば、反省をしないといけないな。
俺は暴君にはならない。フランクとは言わないが、家臣たちが上申しやすい主君にならなければいけない。
もちろん、威厳は大事だが、威厳があるのと上申しにくいのは違うと思うんだ。




