027 関東侵攻
駿河の夏は甲斐よりも幾分か涼しいかもしれない。
海があることで気温が下がるのかな? それとも風が通るからか?
「お殿様、ご無沙汰しております。ご健勝のこととお喜び申しあげげます」
「うむ、駿河屋も健勝のようで、何よりだ」
「ありがとう存じます」
この駿河屋とのつき合いも八年になるか。陶器は下条春兼の専売にしているが、それ以外は商人を決めていない。だから駿河屋には多くの産物を扱ってもらっている。
駿河屋と世間話をして世の中の動きを確認したところで、本題に入る。
「今日、そなたを呼び出したのは他でもない。甲斐で作ったこれを扱ってはくれまいか」
俺がそう言うと小姓がそのものを持ってきた。駿河屋の前にそれを置いて小姓が下がると、駿河屋は「失礼します」と言って被せられていた布を取った。
「っ!? これは……」
駿河屋が目を剥いてそれを見ている。そういうリアクションをしてくれると嬉しくなる。
「絹……」
そう、それは蚕の繭から紡いだ絹でできた織物、絹織物である。まだ生産量は多くないが、なんとか産物として取り引きを開始できるくらいにはなった。
「これをお殿様の領内で……」
「そうだ。明の絹織物にも劣らないと自負している」
日ノ本の絹は明(今の中国)のものに比べると品質が劣っていて、どうしても見劣りがする。
だが、俺の知識を総動員して作り上げた絹は明のものにも負けないよいものだ。だから自信を持って駿河屋にプレゼンできる。
「手に取ってもよろしゅうございますか」
「そのために見せたのだ、手に取ってよく見よ」
駿河屋は恐る恐る絹織物を手に取って手触りを確かめた。
煌めくその布は見た目だけではなく、手触りも優しい。この絹織物で寝間着を作って寝ているのは内緒だ。もちろん、二人の可愛い妻にもシルクの寝間着をプレゼントしている。
「数は今年中に一〇〇反ほどが用意できる見込みだ。さらに年末に朝廷にも献上する予定だ。どうだ、扱ってみる気はないか」
「それはもう、これだけの上質な絹織物を扱わせていただければ、この駿河屋の腕がなるというものです」
「ならば、そなたに任せる。ただし、来年はどの商人に任せるか決まっていない。気張って高値をつけてくれよ」
「はははぁぁぁぁっ」
古代ローマでは絹と金が同じ価値として取り引きされていたが、今はそこまでではない。
それでも絹は高価なので収益増が計算できる商品だ。
▽▽▽
九月に入ると伊勢家との戦局は膠着状態になった。
今回は伊豆の一部と相模の足柄下郡と足柄上郡を得ただけで終わったが、それほど悲観はない。
たしかに伊豆での敗北はそれなりに武田家に傷跡を残したが、これは扇谷上杉家との約束のために進軍したに過ぎない。
それよりも伊豆と相模で伊勢家を分断できたのが大きい。
今後の方針は相模を圧迫しつつ、伊豆の完全併合だ。
そしてできれば伊勢家を配下にしたい。伊勢家はよい武将を輩出する。五代目の氏直はあまり優秀と思えないが、父で四代目の氏政が豊臣への降伏を拒否して滅んだようにも思える。
だが、その頃には今世の歴史はまったく別のものになっている気がするので、とりあえず氏康くらいまで配下になってくれないかと思う次第だ。
甲斐は優秀な家臣が多く出るが、天下を狙うには足りない。もっと多くの、多種多様な人材がほしいのだ。
また太田資頼がやってきた。相模侵攻について文句を言われた。
伊豆は後回しにして相模に戦力を集中しろというのだ。
ふざけてるのか? お前のところがあっという間に負けたせいで、伊勢はこっちに戦力を集中できたんだぞ。俺がいくら善良な人間でも怒ることだってあるんだからな。
「何を言うか! 扇谷上杉家が初戦で惨敗して逃げ出さなければ、伊勢が伊豆に戦力を送れなかったのだ! 扇谷上杉家は武田をバカにしているのか!?」
うん、その通りだ。よく言ったぞ、原友胤。他の家臣たちも太田資頼を睨んで今にも斬りかかりそうだ。
「友胤、控えろ」
「はっ……」
俺の声で原友胤は引き下がったが、かなり怒っている。
だが、原友胤は伊豆侵攻のメンバーなので、憤るのも無理ない。
「太田。上杉朝良殿は俺をバカにしているのではないだろうな?」
「そのようなことはございません」
「ならば、なぜたった三〇〇〇の兵しか出さなかった? なぜ簡単に退却した?」
怒っているのは原友胤だけではない。俺だって飯富道悦が未だに起きだせない重傷を受け、多くの兵を失って怒っているのだ。返答次第では戦争だからな。
「古河公方家の足利高基が不穏な動きを見せたことで兵を多く出すことができなかったのです」
来年、足利高基が古河公方を継いで両上杉と抗争を繰り広げるが、それがすでに起こっているのは風間出羽守から聞いている。
だからと言って、はいそうですかと済ます気にはなれない。
こちらが何も言わなかったのに、向こうから文句を言ってきたのだから、我慢する必要はない。
「それならこちらに一報があってもいいはずだ。それをせず、早々に引き上げた扇谷上杉家は信用ならぬと思われても仕方がないと思わぬか」
「むぅ……それは……」
「帰って上杉朝良殿に俺の言葉を伝えよ。今後は謝罪なくして扇谷上杉家とは陣を共にすることはないぞ」
「………」
「俺の怒りの矛先がいつまでも伊勢家に向いているとは限らぬぞ。よく考えて対処しろと太田資頼よりしっかりと伝えよ」
「うっ……」
さて、上杉朝良はどう出るか。しかし、向こうから火種を撒いてくれて助かる。言いがかりをつけるのも簡単じゃないからな。
太田資頼は武田が怒っているということを持ち帰った。
「出羽守、扇谷上杉の動向から目を離すなよ」
「承知いたしました」
夜の帳に消えていく大柄な風間出羽守。相変わらず動いた時の音がしない。
俺は風間出羽守や望月虎益を上手く使えているだろうか。たしかに情報は正確だが、いまいち情報の量に不満がある。
どうやったらもっと多くの情報を得ることができるのだろうか?
さて、寝るかと思ったら、小さな声で「殿」と聞こえた。
これは望月虎益だ。虎益に入室を許可すると障子が開いたのが分かった。ただ、部屋の中も外も真っ暗なので、虎益が入室したのか分からない。
だが、障子が閉まったので虎益がいるのだろう。
「どうした」
「伊勢宗瑞殿、冥府に旅立たれたよしに」
……はい? 伊勢宗瑞が死んだのか? たしか伊勢宗瑞は八〇歳くらいだったと思うが、もっと長生きしたはずだ。暗殺されたのか?
「甘利軍を伊豆で迎え撃った時に体調を崩していたらしく、伊豆でかなり無理をされたよし」
結局のところ、甘利軍は伊勢宗瑞を追い詰めたわけだ。
八〇のお爺ちゃんに無理をさせなければ、伊勢は伊豆を保てなかったし、相模もどうなっていたか分からない。しかし、惜しい人物を亡くした。
「間違いない話なのだな」
「十中八九は」
「分かった、ご苦労。今後も伊勢の情勢を探ってくれ」
そうか、伊勢宗瑞がな……。まさに諸行無常だな。
伊勢宗瑞は戦国初期の下剋上で有名になった人物だ。
幕府の政所執事である伊勢家の血筋で、今川氏親は甥になる。
足利将軍家に仕え、今川に仕え、堀越公方家を滅ぼし、独立して伊豆から相模に勢力を伸ばした。
伊豆討ち入り後は兵の乱暴狼藉を厳重に禁止して善政を行ったことで、茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の民は伊勢家の支配を受け入れた。
そしてあと三年ほどで相模も平定するところだったのに、俺が現れて危機を感じたんだろうな。
以前、望月虎益が伊勢宗瑞が武田と手を結びたいが、息子の氏綱が反対していたと報告を受けたことがある。
あの時に俺と同盟を結んでおけば、こんなことはなかったのかもしれない。
もっとも俺は伊勢と戦う気満々だったので、同盟と言われても受け入れなかった可能性はある。
だが、すり寄ってくる者を無下に扱うことは俺はしないので、伊勢宗瑞次第では同盟を受け入れていたかもしれない。たらればなので、どうなったか分からないが。
「戦国の英傑が逝ったか……」
俺はしみじみと呟いた。
後北条の基礎を築いた傑物、伊勢宗瑞。俺はあんたをある意味リスペクトしていたんだ。
公家かぶれで油断してひよっ子の織田信長に殺された今川義元や、奴隷商人をしながら義を重んじるとか言っている偽善者の上杉謙信より、俺は伊勢宗瑞のほうがよっぽど親しみが沸く。
一〇月に入ると、伊勢宗瑞の死が確定した。
息子の氏綱はひた隠しにしているが、密かに葬儀が行われた。丹念に調べたが嘘や罠ではない。
俺は秋山信任を使者に立て伊勢家に送った。英傑である伊勢宗瑞に敬意を持って送りたいからだ。
氏綱はどう反応するかな。知らぬ存ぜぬを貫くのか、それとも秋山信任を受け入れるか。
もし受け入れたら扇谷上杉が動くぞ。あいつら、相模を取り戻したいからな。俺はしばらく静観させてもらおう。叔父縄信にも動くなと徹底させておこう。




