026 関東侵攻
永正八年六月二二日。
俺は腕を組み、目を閉じて仏頂面をしている。いや、仏頂面というよりは、困った状態なので悩んでいるのだ。
本日の午前中に伊豆の情報を持った望月虎益がやってきた。
虎益の報告では、伊豆に侵攻した甘利軍が敗走したというのだ。
伊勢宗瑞は小田原城を息子氏綱に任せて伊豆に入ったそうだ。
だが、甘利軍の攻撃に耐えきれずに徐々に後退し、伊豆半島の先端近くにある深根城まで退いていった。
甘利軍も伊勢宗瑞を追って深根城まで進んだが、そこで伊勢宗瑞が牙を剥いてきた。
甘利軍は伊豆の奥へ引き込まれたと思ってはおらす、陣形が長くなったところに伏兵の攻撃を受けて大きな損害を出した。
これは島津義久が使った釣り野伏せだと俺は思った。別に釣り野伏せは島津義久だけの戦術ではないので誰が使っても不思議はないが、さすがは伊勢宗瑞である。
甘利軍は敗退して這う這うの体で退却した。
その時に殿を務めたのが飯富道悦で、道悦は味方を逃がすために大怪我をした。
武将としてはもうダメかもしれない。領地を失ったり兵を多く失うのも痛手だが、道悦のような武将を失うことがとても痛手である。
甘利宗信はなんとか狩野城へ戻ったが、その時に従っていた兵は一〇〇〇に満たなかったそうだ。
甘利は狩野城で体勢を整えようとしてこもり、逆に伊勢宗瑞は狩野城を包囲した。
攻守が完全に逆転してしまったわけだ。しかも狩野城にこもる兵たちの士気は最低で、士気が最大にまで上がった伊勢軍と戦っても結果は見えている。
甘利宗信は死を覚悟したらしいが、そこに板垣信方が援軍として駆けつけた。これによって伊勢宗瑞は軍を引いたらしい。良将は引き際がいいというが、伊勢宗瑞、やはりよい将である。
現在、伊豆は狩野城を境に武田と伊勢が睨み合っているわけではなく、信方は甘利軍の敗残兵をまとめて韮山城まで退いた。
それでいい、無理して狩野城を守る必要はない。
今回のこの敗戦で飯富道悦の武将人生が失われ、甘利宗信も手傷を負っている。他の武将も同じである。
俺はその報告を聞いて、信方に韮山城をしっかりと確保するようにと命令を出した。
相模では足柄下郡を完全に抑えているので、伊豆の南を抑えておけば、挟撃の危険性はあるものの伊勢家の勢力圏を分断できる。
今回はそれでよしとしよう。それに山内上杉がもう少し疲弊してから攻め込みたいので、伊豆がよい理由になるだろう。
半月後、甘利宗信、栗原昌種、青木義虎、原友胤、工藤虎豊、横田高松が甲斐に帰ってきた。
甘利宗信は右腕を負傷して首から腕を吊っているが、その他の武将に目立った傷はない。
ただ、全員がかなり落ち込んでいるようだ。まあ、あれだけの大軍で攻め込んで負けたんだし、飯富道悦は床から起き出せないのだから落ち込むのも分かる。
「この度は殿のご期待に沿えず、誠に申しわけなく。この甘利宗信、いかような処分も甘んじてお受けいたます」
甘利宗信は大敗してかなり気落ちしているようだ。いや、タヌキの爺さんだからこれも演技かな。
処分をするしないに関わらず、宗信はしばらくは傷を癒させるために静養が必要だ。
「甘利宗信」
「は……」
「総大将のそなたの責任は重い。よって一カ月は出仕には及ばぬ」
「は……」
一カ月の出仕禁止なんて処分のうちに入らないが、こういうのはケジメも必要だ。
処分の重さではなく、処分をすることに意味があるのだ。
「他の者は処分をせぬぞ。板垣信方が伊豆では踏ん張っているのだ。情勢が落ちつくまでは、いつでも動けるように兵馬を再編せよ」
「「「ははぁぁぁっ」」」
俺は平伏する家臣たちを見て頷いて、続けた。
「しかし、さすがは伊勢宗瑞だ、あの大軍をよく打ち負かした。伊豆と相模を手に入れた手腕は健在であったか。そなたらも伊勢宗瑞の用兵を学び、次は伊勢宗瑞を打ち負かしてみせよ」
「必ずや、伊勢宗瑞を打ち負かしてみせます!」
原友胤の目に力が戻ってきた。
「伊勢宗瑞に戦のなんたるかを思い知らされもうした。次は必ず勝ってみせましょう!」
工藤虎豊が本当に悔しそうにしている。
悔しいと思うのであれば、問題ない。その悔しさを糧に高みへ自分を持っていける。
だが、伊勢宗瑞に勝てるわけがないと諦める奴はそこで止まってしまうからダメだ。
皆の顔を見る限り俺の前には後者の奴はいない。皆が伊勢宗瑞に次は勝つという顔をしている。逞しく、そして心強い奴らだ。
今回、伊豆に侵攻した甘利軍は主に農民兵で組織されていた。
多くの農民が戦死したり大怪我をしたりして生産力が落ちたのは痛い。やはり、常備兵が重要だ。もっと銭を稼がねばならないと思った。
▽▽▽
俺は駿河の北脇城に入った。
この北脇城は清水湊に近く、俺のある構想の拠点になっている城だ。
この北脇城から一里も離れていない場所にある北矢部砦の改修を進め、今はその北矢部砦で重要なプロジェクトが進行している。
そのプロジェクトというのは、造船所である。竜骨を使った船の建造を進めているのだ。
残念ながら俺も簡単な知識しかないので、竜骨船の開発には時間がかかるだろう。
だが、今回、試作した小型の竜骨船ができたと聞いたのでやってきた。
船大工と船乗りたちが試作した竜骨船を手で押して、晴天の海に突っ込んでいく。
船が浮かぶと船乗りたちが船に乗り込んだ。
水は漏れていないようだ。いや、こう思うのは船大工に失礼だな。上手く進むかはともかく、水漏れがあるような船を造るわけがない。
「帆を上げろ!」
その声で綿布で作られた帆が上がっていく。
帆は風を受けふくらみ、船が進む。今のところ問題ないように見える。このまま上手く進んでくれよ。
数時間で帰ってきた竜骨船は帆がたたまれ船乗りが櫂で漕いでいた。何か問題があったのだろうか。
「何かあったのか?」
俺は陸に上がってきた船乗りたちに聞いてみた。
「これはいい船です。海を切るように進んでいきますよ」
「そうか、櫂で漕いでいたから問題があったのかと心配したんだが」
「あれは櫂の具合を試したんです」
なんだ、そういうことか。ちょっと心配だったぞ。
「今後、何度か海に出して問題を洗い出してくれ。できれば波が荒い時の安定性も調べてくれ」
「分かりました」
真っ黒に日焼けした船乗りたちの手ごたえはいいようだ。一安心である。
駿河にきたので、他のことも処理しておこうと思う。
現在、この駿河では茶の栽培を進めている。また、酒もこの駿河の米を使って製造している。そしてガラス製品が作れないかと俺は考えている。
ガラス製品を作るのには珪砂、ソーダ灰、石灰が必要になるので砂浜に珪砂がないか探させているのだ。
なくて普通、あったら嬉しいくらいで考えている珪砂は、砂の中にある光る粒なので砂浜が多いこの駿河ならあるかなって思ったのだ。
新しい商品のことを考えながらアジの刺身を醤油とワサビで食べる。
「うむ、美味い」
思わず声が出る。甲斐では海の魚を食べることができないので、本当に海を得てよかったと思う。
皆は、魚を生で食べるのを止めるが、青魚は寄生虫が怖いが新鮮なアジなら滅多なことはないだろうと食べた。
マグロも食べたいが、もっと沖にいかないと獲れないと思う。
醤油と味噌は最近完成した。酒が造れるのだから醤油と味噌も造れると思ったら、意外と時間がかかった。
昆布は蝦夷地からのものが越後経由で入ってくるので、最近の朝食にみそ汁は欠かせない。
それから海の魚を一夜干ししたものをよく食べるようになった。今度は煮干しや鰹節を作りたいと思う。
「この山芋のとろろ飯は美味い。やはり醤油を造って正解だったな。醤油はなんにでも合う!」
刺身にとろろ飯。醤油があることで食が豊かになる。嬉しいことだ。
「殿、こちらの山芋の刺身は絶品ですね」
「お、九条殿も山芋の刺身のよさがわかるか。俺はとろろ飯も好きだが、山芋の刺身が何よりも好きだ」
「はい、醤油があることで山芋の甘さが引き立ちます」
九条殿というのは九条経子姫のことだ。俺の妻になったのだから姫ではなく出身家に殿をつけて呼んでいる。このように俺の妻にかぎらず、多くの家では出身家に殿をつけて呼ばれる。
もちろん近衛殿もいる。二人は俺について駿河にやってきているのだ。
二人の美少女を侍らせて食事をするというのは言いようのない背徳感があるぞ。
「少し食べづらいですが、私はこのとろろ飯なるご飯が好きです」
そうか、俺は器を持って口に掻き込めばいいが、二人はそんな行儀の悪い食べ方はできないよな。
うん、スプーンを作ってやろう。せっかく作るんだったら漆器のスプーンにしようかな。
「うむ、山芋は病などから体を守ってくれるからな。それに食事は野菜、米、魚、そして肉を適度に食べることで、丈夫な体を作ってくれる。好き嫌いせずに食べてほしい」
「「はい」」
可愛いものだ。庇護欲が掻き立てられる。




