020 駿河乱入
駿河に侵攻して花沢城を落とした翌日、甲斐から家臣たちがやってきた。その数四〇〇〇。俺のところには四〇〇〇だが、信泰の第二軍のほうにも三〇〇〇が合流しているはずだ。
その日は石脇城と方上城を落として、信泰の第二軍のほうも朝日山城と潮城を落としたので、朝日山城で第二軍の信泰と合流した。
そして、ここで軍議を開くことにした。
「ここまできたら今川館は目と鼻の先でございます。一気に圧し潰しましょうぞ」
原友胤がすぐにでも討って出ると主張した。
「待たれよ。今川とて必死の抗戦をするだろう。力圧しは無駄に兵を損なうことになる」
秋山光任は相変わらず慎重だ。だけど、こういう慎重な人物がおらず、いけいけの軍ではいつか痛い目にあうだろう。
「ここまできて何をまごまごすることがあるだろうか! 今すぐ攻撃をしかけましょうぞ!」
飯富道悦も戦いたくてうずうずしている。その横では甘利宗信もいて、好々爺の風貌に鋭い視線が光を放っている。
喧々囂々と議論が繰り広げられるのを俺は大人しく見ている。
ここまできたら、ほぼ駿河は手に入ったと思う。だから家臣たちにも花を持たせてやらないと、褒美がもらえずに不満が溜まってしまう。
俺が家臣たちの議論を見ていると、ガチャガチャと具足の音が近づいてくるのが聞こえた。
「申し上げます!」
「何事か」
息を切らせているので、必死に走ってきたのだろう伝令に信泰が答える。
「今川軍がどこにもいません!」
「「「………」」」
ぽかんとした。なるほど、今川氏親はその手を使ったか。俺はやられたと膝を叩いた。今川氏親、なかなかにやるものだ。
今回の武田の駿河侵攻で、今川にとってもっとも下策は徹底抗戦することだ。
もし、徹底抗戦すれば武田も疲弊するが、今川は家を保てなくなるかもしれない。武田が強いということもあるが、準備をしていたか、してないかの差が大きい。
そして上策が駿河を捨ててでも体力のあるうちに撤退することだ。
体力があれば、武田と和睦して遠江を残すことができる可能性が高い。事実、俺は今回の駿河侵攻で遠江を手に入れることは考えていなかった。
駿河一国を得たが、駿河は長年今川の本拠地だったのだ、そこを占拠しても簡単に武田の支配を受け入れないかもしれないからな。
「逃げたのだな」
俺はぽつりと呟くように声を出した。駿河放棄を言ったのが今川氏親なのか、家臣なのか、いずれにしろ今川はまだ死んでいない。
困ったな。もう少し今川を痛めつける予定だったが、これでは今川が息を吹き返すかもしれない。
「は、昨夜のうちに退去し、大井川を渡ったと思われます」
大井川は駿河と遠江の境界という認識でほぼ間違いない。
「どういうことだ!?」
「今川め、我ら武田に恐れをなして逃げたか!」
「殿、追撃を!」
家臣たちが騒々しいが、追撃をするのはない。
調子がいいからといって予定以上のことはしない。欲を出すと痛いしっぺ返しがあるだろう。
「殿、ここは駿河の統治を完全なものにするべきではないでしょうか」
栗原昌種の言葉が俺の心の中にスーッと入ってきた。
意外と栗原昌種は常識人である。意外は失礼か、すまん。
「今川を追撃し遠江も奪ってしまえばいいのではないか」
「青木義虎殿の言うとおりだ。今すぐ追撃を!」
俺は手を上げた。すると、家臣たちがピタリと口を止めた。
「追撃はせぬ」
俺のその言葉に納得いかないという顔をする家臣が多い。だが、これは決定事項だ。
「駿河を完全に掌握する。秋山光任」
「ここに」
「手勢を率いて大井川周辺を警戒しろ。決して大井川を渡るな」
「承知しました」
秋山光任が頭を下げる。
「甘利宗信」
「ご前に」
「手勢を引きいて海側の城や屋敷を押えろ。抵抗があるかもしれないが、無理をするなよ」
「分かりもうした」
甘利宗信がこくりと頷く。
「飯富道悦」
「はっ」
「今川の兵が町中に潜んでいないか確認をしろ。抵抗するようであれば斬り捨てても構わぬが、無抵抗の者を殺すなよ」
「承知」
飯富道悦はにやりと口角を上げる。
「原友胤」
「ここに」
「友胤は俺のそばにいよ。何かあった時にはすぐに動けるようにしておけ」
「……承知」
原友胤は少し不満げだ。
その後も俺は家臣たちに指示をしていった。
「いいか、駿河はこれから武田のものになる。略奪は許さん。無暗に殺すことも許さん。特に公家は殺してはならぬ。もし公家を殺せば、功がある者でも処罰する。分かったな」
「「「はっ!」」」
駿河は手に入った。だが、今の駿河は今川の色が色濃く残っている。それを武田の色に染め替える必要がある。そうしないと、駿河を本当に得たとは言えない。
しかし、今回の駿河侵攻で俺は大斧隊や新兵器を用意していたのに、使うことがなかった。使わなければ今後の切り札にとっておけるが、なんだか拍子抜けした。
今川もまだ死んでいないし、もしかしたら厳しい戦いが待っているかもしれないので、使わないかもしれないがこれからも新兵器はドンドン開発していこうと思う。
▽▽▽
永正七年一一月四日。
駿河内の今川勢力をほぼ駆逐した俺は、清水湊に近い北脇城を改修させて、そこに入る道中である。
府中の今川館は遠江に近く、あまり居館を置きたいと思うようなところではない。だから富士川に近く、駿河の中心辺りの清水湊付近の北脇城を改修させた。
北脇城の改修は工兵部隊がその手腕を発揮してくれて、あっという間に城を拡張して俺が寝泊まりする屋敷を造った。
全員ではないが、五〇〇〇人もの工兵部隊が動くと本当にやることが早い。
北脇城の屋敷に入ると、俺は主だった家臣を集めた。
論功行賞をしなければならないからだ。今回の褒美は叔父岩手縄美と板垣信泰の功が大きい。
叔父岩手縄美は駿河の東を制圧したし、板垣信泰は今川の本体を打ち破ったり、志太郡制圧に大きな功がある。
「軍功第一位は岩手縄美。前へ」
「はっ!」
「岩手縄美、東駿河の制圧、見事であった。よって武田姓を名乗ることを許す。また、駿東郡を与えるものなり」
その場が水を打ったように静まった、次の瞬間、叔父岩手縄美いや、武田縄美が平伏する。
「ありがたき幸せ! これからも殿の御ため、誠心誠意働かせていただきます!」
駿東郡は令和では沼津を含むその北側の土地だ。
基本的には山間部が多いので米の生産だけを考えると石高は三万から四万石くらいかな? だけど、沼津があるのだから海運で交易ができるし、まだ開墾の余地は十分にある。やりようによってはかなりの収入が得られるだろう。
「あの辺りは富士の裾野も近い。これよりは叔父上の武田は裾野武田氏を名乗るがいいだろう。ふむ、せっかく姓を武田に改めたのだ、名も改め、縄信を名乗るといい」
「裾野武田氏、武田縄信……。この上なき誉れ!」
叔父の縄信を駿東郡に入れたのは、伊豆と相模に国境を接しているからだ。
あの土地は伊勢家と直接ぶつかる重要な土地なので、下手な武将に任せるわけにはいかない。だから武田一門の叔父縄信を入れることにした。
それに、俺はどうも一門衆と壁があるように思えて仕方がない。祖父信昌がバカなことをしてくれたおかげで信縄おやじ殿は叔父信恵と骨肉の争いをし、俺も叔父信恵と戦うことになった。
そういった過去は消えないが、俺が一門衆を大事にしているということを印象づけたいのだ。
それに、叔父縄信を駿東郡に入れたことで、伊勢家も簡単には扇谷上杉家に手を出せなくなったはずだ。
今までは今川がいたので、武田の抑えにもなるし後方から攻められる心配もなかった。しかし、これからはどうだろうか、下手に相模・武蔵に攻め込めば武田がその後背を突く可能性がある。そうなれば、伊勢家としても厄介極まりないだろう。
「青木信種は叔父上の与力だ」
「は、ありがたき幸せ」
信種であれば、与力として叔父縄信を補佐と監視をしてくれるだろう。
「次は軍功第二、板垣信泰。前へ」
「はっ!」
信泰が大きな体を丸めて前に出てくる。
「板垣信泰には志太郡を与え、家老衆とする」
「はっ、ありがたき幸せ!」
信泰が泣いている。それもそうか、志太郡も駿東郡と同じ三万から四万石の石高だ。
板垣は武田の支流だが、信泰は家老衆ではなかったので家老衆に加わることも含めて大きな出世になる。
小山田、穴山という大きな家が凋落したので、信泰は武田宗家、裾野武田家に次ぐ石高になった。武田家臣団の中では特に高い石高だろう。
だが、これでいい。信泰は俺の腹心中の腹心で、俺に仕えて功を挙げれば出世できるという考えを皆の中に植えつけた。
それに俺が駿河を獲ると言った時、家臣の大半はそう簡単に駿河を獲れるわけないと思っただろう。それが、蓋を開けてみたら苦戦らしい戦いもなく、半月で今川は駿河を放棄して逃げ出した。これからは他の家臣たちも積極的になると思う。
信泰を志太郡に入れたのは、褒美ということもあるが今川の抑えのためだ。遠江に接する志太郡に信泰がいれば、今川をけん制することが可能だろう。
今川も決戦をせずに遠江に逃げたのは再起を期すためで、駿河を諦めていないからだ。
もちろん、駿河を失った今川に軍事力で俺にあらがうことは難しいが、戦争というものは何も軍事力だけで戦うわけではない。外交力もそうだし、調略もある。今川はこれから伊勢を頼って東西から挟み撃ちにする形で武田の駿河を狙ってくるだろう。
ないとは思うが、上野の山内上杉と武蔵の扇谷上杉、信濃の小笠原や諏訪を動かして反武田包囲網を作るかもしれない。とは言っても扇谷上杉が武田包囲網に乗ったら伊勢を利することになるので、バカとしか言いようがない。
いずれにしろ、伊勢は今川と組んで駿河を狙ってくる可能性が高い。
その時が次のチャンスだと俺は思っている。今川を防ぎつつ、伊勢を討つ。伊豆と相模、関東への足がかりができるのだ。
そしてもし、反武田包囲網ができたなら、扇谷上杉家を喰うチャンスだ。
もちろん、伊勢宗瑞は一筋縄ではいかないだろう。が、今すぐに攻めてはこられない。扇谷上杉と戦っているからだ。
伊勢が扇谷上杉と和睦するまでに少しの時間があるはずだから、その間に兵馬を養い、兵器を造っておこう。




