018 駿河乱入
永正六年正月。
眼下には甲府盆地が見え、俺はほくそ笑んでいる。
「甲斐を統一したぞーーーっ!」
思いっきり叫んだ。
武田信直、数えで一二歳。甲斐国の統一を果たした。
近国の上野を治めている山内上杉家と武蔵を治めている扇谷上杉家では大して話題にもなっていないが、駿河の今川家や伊豆の伊勢家ではかなり話題になっているようだ。
「殿、いきなり叫ぶので驚きましたぞ」
板垣信方、俺の片腕として生産を管理している男である。俺よりも九歳年上の二一歳、実直な男で部下にも慕われている。
「信方、お前も叫べ。俺たちは甲斐を手に入れた」
「……承知。殿の御ため、我が身命を賭して働きもうすーーーっ!」
耳にビリビリと響くバカデカい声だ。
「なんだそれは。お前は生真面目すぎるぞ」
「性分でござれば」
「ふ、そういう奴は嫌いではない」
「ありがたきお言葉」
俺は信方の胸に拳をバンと当てた。
「次は駿河だ」
「はっ!」
「駿河の次は伊豆、相模、武蔵、上野、信濃。東海から関東を俺の支配下に置く」
「殿であれば、必ずややってのけるでしょう!」
信方が真面目な面持ちで俺を見てくる。完全に俺を主家の当主と認めている顔だ。
だが、安心はできない。俺が暴君に成り下がったら、信方は俺に容赦なく牙を剥いてくるだろう。だから、賢く、強く、そして誠実な主君であろうと思う。
「信方」
「はっ」
「東海と関東は足がかりでしかない」
「………」
「天下は乱れている。それを正す者が必要だ」
「………」
「それが俺である必要はないが、今の日ノ本にどれだけ今の世を憂いている者がいると思う」
「………」
「俺を天下へ押し上げろ、それが信方の役目である」
「はっ! この板垣信方、全身全霊をもって殿を、武田信直様を天下へ押し上げてみせましょうぞ!」
信方の目に涙が溜まっているのが分かる。
「泣くな、泣くのは天下を平定した時ぞ」
「信方は泣きもうさん!」
「ははは。では、その目に溜まっているものはなんだ」
「こ、これは汗にござる! 汗が目に入ったまででござる!」
ツンデレのツンかよ。
「信方。お前にはこれからもしっかりと働いてもらうぞ」
「命の続く限り、お仕えいたします」
石和館に戻る前に常備軍の訓練を覗いてみた。
今は栗原昌種、横田十郎兵衛、青木信種がそれぞれの部隊をみている。
栗原昌種は工兵部隊を指揮しているが、この工兵部隊が数では一番多い五〇〇〇人である。そして今はスコップやツルハシなどを持って霞堤の工事をしている。これが工兵部隊の訓練風景である。
横田十郎兵衛は二〇〇〇人の弓隊を指揮しているが、より実戦的な訓練をするといって山の中に入って獣を狩ってくる。それが俺や元農家の家臣たちの食卓に並ぶので助かっている。
最近では武将や足軽でも肉を食べる習慣が出てきた。それでいい。肉は筋肉を作ってくれるからな。
青木信種は長槍隊を指揮している。長い槍の破壊力を余すところなく敵に叩きつける訓練。そして槍衾で敵を寄せ付けない訓練。三〇〇〇人もの足軽が一糸乱れぬ動きを見せてくれる。
現在の俺の常備軍は一万ほど。陶器と酒による収益を軍事力につぎ込んでいる。富国強兵である。
常備軍の多くは浪人や他国で食えなくなった農民だ。今の甲斐にくれば、食うに困らないと知って流れてくるのである。
生産では硝石の生産は順調だし、火薬の備蓄もある。だが、中砲はまだ完成していない。筒は造れても、火薬の爆発に耐えられないのである。多分、筒の穴が凸凹だったり、鉄の強度が足りないのではないかな。そこら辺を指摘して試作を造ってもらっている。
石鹸は問題なくできている。と言っても苛性ソーダは無理なので灰で代用している。おかげで甲斐の衛生環境はかなりよくなってきている。
公家の方々だが、楽しんでいるようだ。
甲斐は戦いがあっても公家を脅かすものではないし、銭を気にする必要もない。最近、京で流行っている透明な酒の産地でもあるので、酒にも困らない。
風流人たちなので、毎日詩や蹴鞠などに興じて過ごしている。
俺から見たら自堕落な生活に見えて仕方がないのだが、あれが公家というものなんだろう。
また、西園寺公藤様の痛風が少し和らいだと言って喜んでいた。食事を低カロリーのものにして運動を勧め、温泉に浸かる日々は西園寺公藤様の痛風によい結果を残しているようだ。
▽▽▽
甲斐を統一した俺は永正六年の一年間を国内の安定にかけた。
おかげで霞堤もほぼ完成して洪水の心配はかなり低くなった。しかし甲斐は干害が起こりやすい国なので、安心はできない。だから工兵部隊は用水やため池を造っている。
とりあえず洪水が起きにくくなったことで民も安心して田畑を耕せるようになったのは一つの成果だと思う。
さらに、農民には鉄の農機具を与えているので、開墾も進んでいる。移植栽培と肥料の使用によって米の生産量が上がっていくのが分かることから、皆の顔も明るいものになっている。
産物としては、陶器、酒、漆器、石鹸は販売が順調だ。そこに加えて綿花から木綿の反物ができ上がってきたので、売り込もうと思っている。
他に養蚕も始めたが、こちらは蚕の餌になる桑の植樹も進めないといけないので、大量生産にはまだ数年かかるだろう。さらにシイタケ栽培も始めているし、他にも準備段階に入ったものもある。
石鹸の生産、綿花の栽培、養蚕は家臣の家にやらせている。
石鹸は直接商人に売ることを許しているが、綿花は武田宗家で買い上げてそれを木綿の反物にしている。
養蚕のほうはまだ数が揃わないが、繭は武田宗家が買い上げて絹の反物にする予定だ。
今年は永正七年なので、八月に永正地震が起きて近畿地方では河内と摂津が被害を受けるはずだ。今のうちに米を買い漁っておこう。
また、その永正地震の影響なのか、遠江では浜名湖が海と繋がる予定だ。たしか津波もあったんじゃないかな。
だから、地震後で収穫が終わる前の九月前半に侵攻しようと思う。
買い漁った米を地震や津波で被害を受けた駿河の民に施しを与えれば、武田の支配を受け入れると思うんだ。酒造りにも使えるしね。
この時代の民はとにかく食べさせてくれる領主を歓迎する傾向にあるので、米のバラ撒きをしてダメなら他のことを考えようと思う。それまでは兵馬を養っていこう。
永正六年のできごとを振り返ってみると、関東では永正の乱が続いている。
この永正の乱は、いくつもの内乱を集めた総称で、越後国の内乱、古河公方家の内紛、山内上杉家の内紛に分かれる。
越後国の内乱は永正四年に越後守護代の長尾為景が上杉定実を擁立して越後守護上杉房能を急襲した事件のことで、上杉房能は討ち死にしている。
これに怒った関東管領上杉顕定(山内上杉家当主で房能の兄)が報復の大軍を起こすと、長尾為景は劣勢となって佐渡に逃亡した。
ここまでが越後国の内乱の永正六年までのできごとである。ただし、今年になると長尾為景が勢力を盛り返して、攻勢に出た。
結果的には関東管領上杉顕定は討ち死にすることになる。これによって山内上杉家は衰退することになる。
山内上杉家が衰退したところで俺が出ていって滅ぼしてしまえば、上野が手に入る。だが、腐っても関東管領職の家、史実では約四〇年後に北条家が上杉家を駆逐して関東諸侯の反感を買っているので、そうなると厄介だ。だから目の前の餌には喰いつかず、もう少し様子を見ようと思う。
古河公方家の内紛は、当主足利政氏とその嫡男の足利高氏が権力を争うものだ。どこの家でも家督争いはあるのだと、本当に思う。
ここでも上杉顕定が出てきて、昨年は上杉顕定の調停で足利親子は和解している。しかし、今年、上杉顕定が討ち死にすると再び足利親子は対立して、その争いに北関東の大名が巻き込まれていく。
しかも、足利政氏と高氏の他に、政氏の次男である義明が下総の小弓で小弓公方として独立してしまうのである。
この古河公方家の内紛は、実を言うと下野の宇都宮家が大きく絡んでいる。足利高氏の妻が宇都宮家の出身で、宇都宮家は高氏に古河公方になってもらいたいのだ。だから宇都宮家に縁のある家が高氏につき、そうでない佐竹家などは政氏についた。
結果として古河公方家の内紛は永正一五年まで続き、高基(高氏から改名)が政氏を出家させ、政氏が隠居することで収束した。ただし、この内紛がきっかけで古河公方家の没落が顕著になって、伊勢家が関東に勢力を伸ばす温床になったのである。
さて、山内上杉家の内紛だが、これは上杉顕定が討ち死にすると関東管領職は顕定の養子である上杉顕実が継承することになる。ただし、同じく養子である上杉憲房が不満から横瀬景繁・長尾景長らの支援を受け家督を争うことになる。
上杉顕実は兄の古河公方足利政氏に援助を求めるが、上杉憲房は政氏の子で上杉顕実の甥である足利高基を味方につけ対抗した。
この山内上杉家の内紛と古河公方家の内紛は大きく結びついていて、両家の内紛によって関東は二分された形になって争っていくのである。
そこで伊勢家が関東に進出して扇谷上杉家が攻められるが、こういった内紛で関東の他の家が争っているので、扇谷上杉家の領地が伊勢家に奪い取られていくのだ。
この永正の乱で得をしたのは、越後の長尾家と伊豆の伊勢家である。
それなのに、四〇年後の上杉謙信は伊勢家(北条家)を関東管領家の敵として討伐しようとする。
自分が関東管領を殺した主家殺しの家を兄から奪った長尾家の謙信君は、主家ではない上杉を追い出した北条に怒るってすごいわがままな考え方だよね。どう考えても理不尽だし、自分のことは棚に上げているんだ。
武田家だって、信玄が信濃北部を必死で自分のものにしようと戦っているところに、漁夫の利につられた謙信がやってきて信濃を完全に手に入れることができなかった。それどころか川中島で何度も戦う羽目になってしまい、多くの犠牲を出している。
うーん、やっぱり武田信玄の子孫としては、上杉謙信にはあまりいい感情はないな。こういう偏見はいけないと思っていても、感情がどうしてもそういう方向にいってしまう。
「信方、例のものはどうだ?」
「は、兵らも扱いに習熟してまいりました。駿河侵攻には間に合わせまする」
「そうか、頼んだぞ」
駿河侵攻用に新兵器を用意している。開発はすでに終わっているので、量産に入っていて、足軽たちが毎日訓練している。
「船のほうは大丈夫であろうな」
「虎盛が大斧隊を率いて毎日大量の木を伐採しておりますので、そちらも駿河侵攻には間に合いまする」
大斧隊というのは、斧を武器にした部隊のことである。大柄だったり力の強い者を選りすぐった一〇〇人ほどの部隊だが、戦の時は重厚な金属鎧を着こんで戦闘に加わる部隊だ。イメージ的には重装歩兵である。
こういった鎧や大量に増えた常備兵のための武器を作るのに鍛冶師たちはフル稼働している。そのおかげで中砲の開発は進みが遅いということになっている。
まあ、中砲はもっと後でもいい。種子島に鉄砲が伝来するのが、天文一二年(一五四三年)なので、それより早く導入できればいいくらいに考えているので、そこまで急いでいない。
話が逸れたが、大斧隊はそれほど多くない。これは甲斐が山国ということもある。山道でクソ重い金属鎧と大きな斧を持って行軍するのはキツイからだ。平地でも川や田んぼが大斧隊の行軍を邪魔する。
あれはネタ系装備なのだ。というわけでもなく、敵を威圧するための部隊だし、行軍速度を度外視すれば強い部隊なのだ。
今はその大斧隊が山に入って木を伐採していて、その木が船に変っている。ここで造られた船は駿河侵攻時に富士川を下るためのものだ。
「ならばよい。しっかりと頼んだぞ」
「はっ」
信方はドスドスと足音を立てて俺の執務室を出ていった。
準備は着々と進んでいる。駿河よ俺がいくのを待っていてくれ。海を得たら海の幸を味わい尽くしてやるからな。
「九衛門」
「はい」
この九衛門は俺と同じ一三歳なので今年元服して出仕している。九衛門の名は甘利虎泰、武田二四将の一人で信虎期の四名臣に数えられている人物だ。
「墨を用意してくれ」
「畏まりました」
京の叔父信賢に書状を送ろうと思う。今年の駿河攻めに公家が邪魔をしないための根回しを徹底してもらうためだ。
駿河に攻め入ってからは甲斐にいる公家たちにも書状を送ってもらおうかな。でも、今はダメだ。公家に駿河攻めのことを言えば、確実に今川に知られる。何事も水面下で行い、奇襲で駿河の多くを得るのだ。
それと、あまり関わり合いになりたくないが、足利将軍家にも根回しは必要だ。これからが本番なので障害になり得るものは少しでも排除しておきたい。