8話
――おかあさん、いる?
殺意と怨恨がぎっしりと詰め込まれた、母を呼ぶ子の鳴き声が台所と居間を繋ぐ門口からひょいと覗かせた悪鬼の口を経て吐き出され、明かりが忍び込むことを許さない仄暗い空間へと響き渡らせる。
部屋の奥、冷蔵庫を背にうなだれる薄っすらとした輪郭がある。殺人鬼がひたひたと逼ると、微かに生き物が空気を入れ替える音が耳に触れ、使い終えたものであろう注射器が周囲に散乱していたことからそれが母であることがわかった。
「久しぶりだな、クソアマ。元気にしてたか?」
少女の顔が悪意に満ちてにやける。利を得た博打打ちのように、狡猾で。
娘であった者の存在に気づいたその人間は、弱々しい声で、少し力を加えればいともたやすく潰されてしまうようなか細い喉から罵詈雑言を呪文のように吐き出した。死神を近くにやったような生物でさえ、人を罵る余力だけはあるという。
その言葉の意味を少女は殆ど聞き取ることができなかったが、無性に腹が立ったことは紛れもない事実で、一刻も早く引き金を引いてしまいたかったが、今まで受けた愛情をまるごとそのまま返すまでは殺すに能わないと、用心鉄を指の色が変わるほど強く握りしめた。
「……いい加減、黙れよ」
堪忍袋の緒が切れるのも時間の問題である手前、少女の腰よりやや上ほどの高さから鋭いフロントキックが突き出され、長靴の底が薬に取り憑かれた女の顔面にめり込むように打ち付けられると、靴と冷蔵庫の間に板挟みとなった面が立ち上がることもままならない子犬のように小さく震え、骨と皮だけで形成された弱々しい2本の腕がそれを退けんと復讐者の足を掴むが、その腕さえも子鹿のように震え、誰の目から見てもこの状況が改善する余地などあり得なかった。
人間は時として御器齧りの如くしぶとい。頭蓋骨が押しつぶされても可笑しくもない瞬間でさえ中毒者は念仏のように呪詛を吐き唱え、憎悪の満ちる毒蛾に挑発をかける。自分を殺してみろ、とでも言うように。
「随分と憎まれ口叩くじゃねえか。お前なんざ産まなきゃよかったってか?悲しいなあ。俺はママのこと、とおっても愛してたんだけどなあ」
本当は母親の愛情が欲しかった、もっと愛してほしかった。そんな飢えの混ざった感情が彼女の口から言葉を発せたのかも知れない。
かつて少女を産み落としたそれの腕が力なくだらりと垂れ下がり、首が土埃と自らの血液で薄汚れた頭を支える気力を失うと、少女は撃鉄を下ろし、処刑の準備を始めた。
部屋内にM36の嘲笑うかのように乾いた火薬の弾ける音が鳴り響いた。彼女の親孝行は終わった。エリザベータ・ラウランの、親孝行はこうして終わった。