7話
期は熟した。牙を得た狼の子供は、大切な馴染みを奪われた借りを清算に。そして自分を大切に、愛情を込めて育ててくれた両親への恩返しに向かわんとしていた。
童貞を捨てた場、仕立て屋から再び現実へと戻る。ここから先は役不足であると自覚した太陽は自らの役目を終え、その代役として月光が少女の舞台を精確に照らしつけた。
この場所には虫の音すら存在せず、ただ時折かすかに聞こえる痩せ細った野犬の弱々しい咆哮が真闇に染まった窮屈な空間に生命がちらほらと彷徨っているという事実を教えてくれる。朧気な記憶を頼りに元居た、ここよりは月と鼈の差があるほどに何倍も居住性の高いスラム地区へと少女は踵を返した。靴が砂を踏みしめるジャリジャリとした音と手に持った拳銃のシリンダーのガチャガチャと軋む音が野犬達の声に応えるように閑散とした暗夜の中を駆け巡った。
よく見る風景が視界に入り込んできた。ここに来るまでの道中、瓦礫や、柔らかく少し硬い、肉のような何かの感触を何度も足の裏で感じたが、彼女にとってそのようなことは髪の毛が一本抜け落ちるくらいに些細でどうでもいいことだった。
路地の狭い道。まだ自分が小さくて弱々しかった頃が懐かしく思える。同時に忌々しく、消し去ってしまいたい記憶でもある。だが、そんな過去ともこの生え揃った牙がおさらばさせてくれるだろう。少女はシリンダー内の空薬莢を摘んで引き出すと、ポケットから新しい弾薬を込め、来る親孝行に備えた。
トタンと薄っぺらい板切れで組まれた簡素な造りの家が見える。大嵐でも来れば一瞬にしてその姿は消え去ってしまう程に脆い。貧しさが跋扈するこの地区でもレンガ造りの家が多かった中、彼女の家はその外見から悪目立ちしていた。今にも腐り落ちそうな板切れを組み合わせてできたドアは相も変わらずそこに居て、申し訳程度に雨風を防ぎ、部屋内の景色を遮っていた。
「相変わらずくっせぇ家だ」
少女がドアを手で軽く押すとみしりみしりと繊維が擦れ合う音がする。ゆっくりと侵入して、穴持たずの如く貪欲に両親の生命を貪ってやろうと考えたが、同時に腹を空かせ苛立った獣の如く一方的に、残酷に生命を冒涜してやるのも悪くないと考えた。
奴らが自らに貸しつけた借りをまとめて返済する時だ。エリザベータが覚悟と共に気がついたときには既に脆弱な扉に力いっぱいの蹴りをお見舞いしていた。白蟻でさえも拒否反応を起こすであろう程に満足に役目も果たせていないその扉は少女の力でさえいともたやすく蹴破られ、2年と少しの歳月を経た親子の再開が実現した。
薄暗かった室内に僅かな光が差し込む。粉砕された板の大きな雑音に驚く薄汚い風貌の男が一人。髪も髭も手入れがされておらず、道端で屯している浮浪者達の方がよっぽど清潔に見える程に、かつては父であったかもしれないその男は汚れきっていた。
驚いた元父は少女をきっと睨みつけ、罵声を浴びせようとするが、左脇腹を.38口径の鉛弾が貫き、肉を裂かれる痛覚と灼熱感に苛まれた。少女の手に握りしめられたM36が煙を噴いたのだ。
「親子涙の再会だ。そう怖い顔するこたねえだろ。お互い小綺麗になっちまってよお。どうだ、俺が居ない二年間は寂しかったか?」
にたにたと薄ら笑いを浮かべ、ひたひたと近寄っていく少女と、虐げられてきたばかりに信じるということを忘れてしまった野良犬のように厳しい表情を浮かべる父親。二度の年が過ぎ、立場が逆転した。
「小便臭いメスガキが――」
絞り出された声が聞こえるまもなく、男の右足に刃がめり込む。復讐鬼の左手に握られた手斧が砂漠のように乾き、醜く膨れ上がった皮膚と肉を断ち切った。
「臭えんだよ虫。悲しいなあ。必死の思いで絞り出した汁から奴隷代わりの餓鬼一匹こさえたつもりが、それに殺されそうになってんだもんなあ。なあ、教えてくれよ。今、どんな気持ちだ?」
親を虐げることに一抹の快感を覚え、興奮を隠せない少女と、その汚れた人血を辺りに垂れ流す人を型どった肉が同じ空間で同じ時を過ごす。視線は虚空を睨み、既に生命の気を殆ど感じさせない。
「とっても苦しそうだなあ、パパ。最期に親孝行の一つでもしてやるよ」
復讐に飢えた獣はかつて父であったものの眼球に銃口を近づけると、ゆっくりと撃鉄を降ろし、撫でるように引き金を絞った。シリンダーが回転し、施条から吐き出された炎を掻き分けるように姿を現した弾頭が、背後の壁に血糊を撒き散らした。死体はそのまま後ろにばたりと倒れ、父娘のわずかばかりの再会は幕を下ろした。
「ぺっ。家も住んでるクソ袋も、これ以上見てると眼球が腐り落ちちまいそうだ。さっさとアマの方にも挨拶しねえとな」
死体に唾を吐きかけ、水も火も使えない、全く役に立たない台所であった場所に少女は赴く。きっとそこに、今もかつて母だったものが居るはずだ。クスリによって姿形が変わり果ててしまっていたとしても。
低く、唸るように出されていた声から一変。穢れを知らぬ無垢な明るい声で、少女は母を呼んだ。
「おかあさん、いる?」