4話
悪い、エイヴェル。早速お前との約束、守れそうにねえや――
今までに無い、虐げられていた時でさえ湧き上がらなかった感情が、憎悪が、間欠泉から湧き出す熱湯の様に、はたまた巣から大量に湧き出した蟻の様に、エリザベータの頭の中をぐるぐると、ごちゃごちゃにかき乱した。
殺す、殺す、殺す、殺す殺す殺すコロスコロスコロス……。
他人に対して嫌悪という感情を感じたことは幾らとあれど、明確に殺意という感情を抱いたのは今この瞬間が初めての刻であった。
感情は人間を動かす原動力として非常に優れた燃料であると言える。少女にとっての燃料は青年を殺したギャング共への、それをけしかけた両親へのはっきりとした、ただ純粋で単純な殺意という可燃物であった。
怒り狂っているだけでは何も始まることはない。未来が動くこともない。そのことをはっきりと、少女自身が一番良くわかっていた。かつて最も親しい友人だったもの、あるいは、恩人だったもの。はたまたあるいは、それ以上の間柄であったかもしれないその遺体を見て、溶岩の様にぐらぐらと煮えたぎっていた感情は空気で冷やされた溶岩のように、すうっと冷たく、一気に普段の冷めきった感情を取り戻してくれた。
復讐の為に殺したい。とは考えたものの、冷静さを取り戻してみれば、その計画はないに等しいものであった。刺すのか。撃つのか。それとも絞めるのか。それさえもはっきりとした答えは出ていなかった。怒りは原動力こそなれど、身体能力を高めるわけではないのだ。
「まずは殺すためのブツが必要だな。理想は銃だが、パイプみてえな鈍器、最悪そこら辺の酒瓶叩き割って棒に括り付けて槍代わりにするのもいいか」
少女は遺体を一瞥すると、牙を得るために路地を彷徨くことにした。皮肉なことに時間は有り余るほどにあった。
空き地を出てからはじめに見つけたのは金属の棒であった。それは長さが50cm程あり、振り回すには丁度よい手頃なものであったが、腐食が酷く、触れただけで錆が手に付着するほどであった。
「きったねえなあ。振り回すにゃ丁度良いが、華がねえ」
鈍器を振り回すという案は早々に却下された。牙探しに没頭する道中で幾つかの捨てられた酒瓶も見つけたが、アルコールの強烈な臭気が少女を萎えさせた。割っていれば一層の異臭が嗅覚を襲ったことだろう。
「やっぱ酒瓶も無しだな。酒なんざ大っ嫌いだ」
父親の影響もあり、彼女はアルコールの類が大の苦手だった。酒は人を堕とす。そういった印象が彼女には植え付けられていた。
鈍器も酒瓶も却下された。残す案は銃である。しかし、銃など何処で手に入るであろうか。この街で銃を所持している者など、ギャングか、町の平和を守ったつもりで居る警官共くらいなものである。いや、警官共ならあるいは……。
「パイプも瓶も無しだ。だが、そういやこの町を徘徊してるマッポ野郎が居たな……」
エリザベータには心当たりがあった。常に飲料物の入った瓶を片手に千鳥足で町中を徘徊している警官がいた事を。やつが何らかの隙を見せた時ならば武器をちょろまかせるかもしれない。彼女は考えた。奴から拝借しよう、と。彼奴は昼頃、ちょうど少女が盗みを働いていた酒屋の向こうからやって来る時があった。酒屋の向こう側の地区へは行ったことがなかったが、今は自由の身だ。何が起ころうと、これ以上の悲劇が、彼女の感情を大きく揺さぶる事象が起こることはないだろう。もうどうなろうと構わない。失うものなど無いのだから。少女はかつて警官が通っていた道を逆手に進んでいった。
そこは彼女が想像していたよりも遥かに腐りきった場所だった。そこらじゅうで浮浪者が寝転がり、その手には瓶が抱えられている。強烈なアルコールの匂いがする。こういった貧民街では自家で穀物や糖分を煮込んだものを発酵させ、蒸溜し、アルコール分を高めた『酔うためだけ』に醸造された密造酒が蔓延してることが多くある。少なくとも、味や香りを楽しむために醸造された酒とはかけ離れた匂いであることは酒を嫌悪するエリザベータでさえもすぐに理解できた。少女は出来るだけ臭気を吸い込まないように、口で微かに呼吸をしながら、目標の居場所を探した。正確には、奴でなくとも、銃を奪える相手であれば、誰でも良かった。悍ましい悪臭に耐えながら、次第に重くなる頭を抱えて、狭いとも広いとも言い難い、大通りと言えるかも怪しい道を進んでいった。道中、足の踏み場もなく、積み重なったゴミや生きているか死んでいるかも分からない浮浪者の手足を踏みつけながら進んだ。
悪臭に嗅覚が麻痺し、次第に鼻で呼吸することも苦では無くなってきた頃、今までとは違う、上下が整った服。何かの制服だ。軍帽のようなものも被っている。正確には、その帽子は頭から外れ、地面に転がっていたのだが。いつもの警官だろうか。顔など覚えては居やしないが、どちらにせよ誰だって良い。牙を手に入れられるまたとない機会だ。少女は急いで地面に大の字で寝転がる男の元へと駆け寄った。少し液体の残った細長い瓶を片手に、静かに寝息を立てて、死体のように眠っていた。麻痺した嗅覚からでもはっきりと分かるほどのアルコールの臭気。余程度数の高い酒を飲んでいたのだろう。ここらで手に入る地酒は正規のものではない。手の中にある瓶の酒も恐らく密造酒の類なのだろう。遂に耐えられなくなり、しかめ面に片手で鼻を覆いながら、空いた方の手で死体と変わらないマフィアの犬の腰元を弄った。犬が身につけていたのは小型の回転式拳銃、『M36』であった。小型ではあるが、肩や喉元を狙えば十分な威力を発揮できるだろう。
「こいつのブツみてえに小っせえが、まあ十分だろ」
権力の蚊が身につけていたベストのポケットからは幾らかの弾薬も手に入った。シリンダー内の5発と合わせて下手に撃っても6,7人は容易に殺傷できる量だ。