2話
夜が明けて、照りつける太陽の日差しが視界に差し込んでくる。父のことを思い出し、酒を盗みに行く。普段は見つからないように夕方を狙うのだが、青年にまたバレたくなくて、今日は朝から盗んだ。意外と見つからなかったので、これからは朝にしよう。と決めた。それから昼になり、ゴミ箱から何か口にできそうなものを漁って食べた後、ポケットの中の皺くちゃになった紙幣を広げて、ギャング共のところへ行く。勿論。この程度の額では雀の涙ほどのクスリしか買えない。でも、怒られるよりはマシだと思った。
日が進むのは早く、あっという間に夕方になった。空が橙色に染まっている。青年のことを思い出し、エリザベータは空き地へ向かった。もうエイヴェルは先に来ていて、遅かったな。と一言。
「そのデコ怪我したのか?流血した痕が残ってんぞ」
昨日汚れた服の袖で拭ったつもりだったが、まだ残っていたらしい。これ以上言い訳するのも無理だと判断した少女は、昨日あったことを青年に話した。
「またやられたのかよ。クソだな、その親父。ババアも相当みたいだけど。飯もまともにもらってないんだろ?はい虐待確定。今お菓子と水しか持ってないけど、やるよ」
それは少しの量だったが、少女は貪りついた。初めて食べたまともな食事。味は言わずもがな、感動的であった。
「俺も何かしてやれれば良いんだけどなあ。うーん、次までに考えとくよ。そんときはちゃんとした食いもんとか持ってくる。後、色々教えてやるよ」
ほんの1時間、2時間ほどのやり取りであったが、少女にとってはとても充実した時間であった。人とまともに接することが出来た。その事実が、彼女に充足感を与えた。
次の日。いつものルーチン作業の後、夕方に空き地へ。今日のエイヴェルは食べかけのパンと水と持ってきてくれた。彼は学校に通っているらしく、簡単な勉強や社会の色々なことを教えてくれた。それから、喧嘩のやり方も教えてくれた。いつかの時に自分を守れるようにと。
「このパン、堅いし、パサパサしてる」
「文句言うな。配給されたやつをこっそり持って帰ってきてやったんだ。感謝しろよな」
「うん、ありがと」
もそもそとパンを食べるエリザベータをまじまじと見つめる青年。なんだか食べづらくなり、上目遣いで質問を投げかける少女。
「ねぇ、なんでそんなに見てるの?わたしが汚いから?」
「あ?いやすまん、やっぱ可愛いな。と思ってさ、お前。綺麗だし、ロリータドレスとか似合うんじゃね?」
「うーん、綺麗とか可愛いとか、わたしには良くわかんないや」
パンを食べ終え、水を飲む少女を横目に何かを考え始める青年。暫くして、はっと何かを思いついたような表情で少女に詰め寄る。
「顔、近い」
「お前さ、反抗とかしてみろよ。そんでもう家には帰るな。夕方しか会えないけど、俺が相手してやる」
「でも、そんなことしたらお父さんお母さん怒っちゃうよ?」
「良いんだよそれで。一生そいつらのロボットとして死ぬよりマシだろ?まずは相手にもう従う意思はないってことを伝えてやれ。中指の一本でも立てて死ねとでも言ってやればいい」
少女は少し考えた。彼と出会って数日。色々なことを学んだ。人生は一本道ではないこと。一人で生きていく道もあるということ。自分にも手を差し伸べてくれる人がいるということ。そして、こんな自分にも興味を示してくれる人がいるということを。
自分の事をゴミ以下とさえ考えていない者よりも、人として自分を見てくれる彼の言葉に背中を押されて、ほんの少しの、小さな決意が、生まれた。
「わかった。わたし、反抗してみる。それでもう、家には帰らない」
「おう、その粋だ。また明日、一皮むけたお前が見られるのを期待してるぜ」
少女は家に帰る。ドアの前で少し、いやかなり緊張する。普段から罵られ慣れている。殴られ慣れているはずなのに。今日だけは足が震えた。震えが止まらなかった。自分なら出来るはずだと、何度も何度も言い聞かせ、玄関のドアを開けた。いつもと変わらぬ光景が、目に入り込んでくる。
「遅いぞクソガキ。どこで何してやがった?酒は?クスリはどうした?」
「う、う……うっさいバーカ!死ね!」
生まれたての子鹿のように震える左手を右手で押さえ、覚束ない手付きで中指を立てて見せ付ける。彼女の心に、反抗が生まれた瞬間だった。
怖かった。死んでしまうかと思った。吐き出せるものならば、心臓は食道の辺りにまで登ってきていただろう。逃げ出すように家を飛び出した。背後から、おい!という怒声や、何かが激しく割れる音が聞こえたが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
走った。走った。いつもの路地裏まで。頭が真っ白だった。全身に汗をびっしょりとかいていた。あまりに息が苦しくて、嘔吐した。一気に疲弊した体が壁を背にぐったりと崩れ落ち、重い瞼はその幕を降ろした。
いつの間にか眠っていたようだ。冷たい風が彼女の肌を撫で下ろし、少女の意識を現実へと引き戻した。すっかり夕日が沈みエイヴェルと合うにはちょうど良い時間。それ程までに眠ってしまうほど、昨晩は心身ともに消費したのだろう。彼を待たせてはいけないと、少女は慌てて空き地へ走り出した。早く昨晩の自分を自慢したいという行き急ぐ気持ちも少なからずあったのかもしれない。
いつも通り空き地には青年が居て、遅かったな。と笑ってくれる。この事実は何よりも少女にとって安堵する瞬間であった。
「あのね、あのね、わたしね。死ねって言ってやったんだよ。中指立てて!」
「お、やるじゃねえか!遂に一歩前進だな。で、これからはどうすんだ?」
「もう家には帰らないよ。路地裏で暮らす。それで、夕方になったら今日みたいにエイヴェルと遊ぶの」
「そっか。じゃ、これからも面倒見てやらないとな。惚れた女なんだし」
青年は優しく少女の頭を撫でてくれた。ほんの数日前に会ったばかり。血の繋がりも全く無い、赤の他人。それでも、エリザベータにとっては、両親などよりも何よりも大切な存在となっていた。兄妹同然。それ以上だったかもしれない。