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レイチェル・ブラックモア I

「……また不審死だ」


「5人だと? 今月だけで?」


 1975年、ロンドン・ブリクストン。


 ただでさえ、昔から治安で悪名高かったこの街だが、ここ数か月は特に奇怪な現象に襲われていた。手段不明、犯人不明の殺人事件である。


 被害者は全員が男。漏れなく女性関係でトラブルを起こしており、それを動機に殺害されたとされるのだが、その外傷が不自然なのだ。簡潔に述べると、口蓋の上部から脳にかけて一筋の穴が突っ切っている、というもの。

 人為的な殺傷行為でわざわざ口の中で銃を撃つような輩はいないし、小型の拳銃にしたって、上向きに撃つために縦にしたらとても口内に入るとは思えない。故に手段不明。ミステリーもびっくりの暗殺術だ。

 事件性しかない事案なので、当然警察も大事と捉え捜査に乗り出す。目撃情報はわずかにひとつ。

 

 金髪の女。それだけが手がかりであった。



 ロンドンの夜は寒く、諦観にも似た寂しさを孕んでいる。


 かつて「太陽の沈まぬ国」として世界を手中に収めたブリタニア連合(※1)。その面影はどこにもなく、ただ行き交う人の重苦しい溜息が充満するだけだった。それは人から街、街から国へと伝染してゆく。さながら感染爆発(パンデミック)――――いつの間にか、何人たりとも、この亡国の未来に希望を抱くことはなくなった。

 しかし、翼をもがれた鳥は(いたずら)にも足掻く。生きるために地べたを這い、生きるために泥を啜るのだ。仮令(たとい)鎖や檻が彼らを縛るとしても、命ある限り抗い続けるのだ。


 それはこの少女、レイチェル・ブラックモアも例外ではない。

 (すす)を被ったネイヴィー・ブルーの髪は腰まで届くほどに伸び、穢れの中でも懸命にその美しさを保とうとしている。明らかに十分な栄養を摂取できていないであろう貧相な肉体に、砂埃と人の邪な心で薄汚く彩られた衣服を纏う彼女は、この瓦解し切った島の中で中途半端に富を得た愚者たちから恵みを奪い、困窮する賢者たちへ分け与えていた。


 ――――というのは、悲しいかな建前である。彼女のやっていることは義賊的行為でなければボランティア的奉仕行為でもない。端的に言おう、スリだ。

 彼女は食い繋ぐという――必要最低限の――私利私欲のために、財布を抜き取り中身を得、財布自体も売りに出し、雀の涙の札束と替えて日々を送っている。幸いなことにブリタニアでは物価上昇(インフレーション)や通貨危機が起こっていないため、レイチェルの得た程度の額の金でも満足な生活は手に入る――――もちろん、貧しく乏しい者から見れば、の話だが。


「今日は誰にしたものかな……」


 ゆっくりと息を吐きながらぽつり。レイチェル・ブラックモアも結局のところブリタニア人なので、今の境遇に何の希望も見出せずにいるわけだ。溜息の一つも二つも出るに決まっている。白い息はパイプでも吹かしているかのようにたちまち顔の前を覆う。その様子に、冷めた中で眠っている温もりでも感じたのか知らないが、気を張って引き締まっていた顔が少し綻んだ。微笑である。

 

 スリというのは往々にして、こそこそとやるものだ。すれ違いざまに抜き取るのが王道。手元が見えてしまっては、邪道という以前にバレてしまい意味がない。

 その辺、レイチェルの技術は巧みである。柔軟に、かつ細やかに、彼女は周囲の誰に暴かれることもないままスリ・ライフを闊歩していた。


「♪~~♪♪~」


「いた、あれが良さそう」


 今回のターゲットは、歩道で堂々と鼻歌を奏でながら、千鳥足のステップを踏む酔っ払いの女。バー帰りだろうか――――無防備にも、手持ちの鞄から財布がはみ出ている有様だ。

 東亜(※2)系と思われる平たい顔に、天然であるわけがない肩までのブロンド。そして成人には見えない幼い顔立ち。童顔率世界一で名高い東亜人ということを考慮しても、どう見たって女というより少女である。頭のてっぺんからつま先まで一瞥して勝手に突っ込みを入れるレイチェル。

 しかし、こういうだらしない相手でも失敗がないとは言い切れない。油断してかかれば不手際が生じるのは常である。慎重に行かなければならない。一層気を引き締め眉間に皺を寄せる。可愛らしい顔が台無しだというのは野暮だ。


 道路を横断し、ブロンドと同じ歩道に乗り換え距離を詰める。すれ違いの刹那が唯一のチャンスであり、そこを逃したならば一目散に走り去るしかない。緊迫の一瞬だ。何度も潜り抜けてきた修羅場とはいえ、手からも背中からも汗が噴き出る。上着で拭う。


 ――――風が横切った。


 財布は実にあっさりとレイチェルの手中に収まった。こういう時ステイツ(※3)の連中はスラングで「Walk in the park」と言う。「公園を散歩するよりわけないぜ」、つまり「朝飯前」だ。また一つ使い道を見つけたな、などと感心しながら、拠点としているバラック小屋へと向かう。



 はずだった。



 妙に軽い。不可思議な感触を覚えたレイチェルは、はっとなって財布を掴んでいた右手へと目をやる。

 財布がない。赤い。血が流れている。押し寄せる情報の濁流に飲まれ、正常な判断力を失う。鮮血が、右手と道を紅に染めてゆく。

 恐らくあのブロンドだ。あんなに泥酔していながら、財布を奪われたことを瞬時に察知し取り返そうとしたのだ。それも何らかの攻撃手段を用いて――――とんでもない奴を狙ってしまったと、後悔だけが残る。


「――――ぅぐぅぅッ!」


 一度見てしまえば、脳が右手の傷を認識するのに時間など不要である。たちまち襲う激痛。しかもメカニカル・ペンシル(※4)の芯が刺さったとか、木の破片が刺さったとか、そんな並大抵の穴が開いているのではない。錐でくり抜かれて掌の向こう側が見えてしまうほどの大穴である。人為的なものであることは明白――――しかし、あの状況でこれだけの外傷を負わせるような行動ができるのか。あの酔っ払いに?

 まさか演技とでも……神経がずたずたに引き裂かれて痺れる手を止血しながら、からからの喉に気休めの唾を送り込む。うずくまった被害者を放っておくガラでもないのか、こちらに向かって近寄ってくるブロンド。街灯に照らされた影が、レイチェルに絶望を植え付ける。


「お前……スリだろ? それも、んーと……ブリティッシュじゃ何て言ったらいいんだ? 『慣れてる奴』って」


 ブロンドはたどたどしく、片言気味に語りかける。ブリティッシュの発音が下手だとか、こういうところは東亜人なのかと納得しつつも、こちらに言わずとも分かる敵意を向けてきている相手だ。気が抜けない。思索に集中していると痛みを含め感覚の一切が鈍くなってきた。その一方で、圧迫しているとはいえ、失血が多すぎるあまり視界に(もや)がかかってきてすらいた。さっさと電話ボックスに駆け込ませてくれ、999番を押させてくれ(※5)。――さすがにブロンドの正当防衛は認められないとはいえ――犯罪者でありながら犯罪を取り締まる側を頼ろうとする、その厚かましさにむしろ惚れ惚れする。


「……っ、辞書扱いしないでほしいんだけど。さっさと救急車を呼んでくれない? 痛くて自力で歩けたもんじゃないの」


「どうした、盗人猛々しいなお前」


「そういう小難しいのは覚えてるのね――――ってあれ?」


 呆れた顔で、蔑んだ顔で、レイチェルを眼下に収めるブロンド。

 そこまで観察してから初めて気が付く。彼女の両手には、人間の世界では想像もつかないような異形が顕現していたのだ。ホースのようにすべての指先に気孔が開いており、水でいっぱいにしたコンドームのようにピンと張っている。そしてその異形は呼吸でもするかの如く、はち切れんばかりになった風船から空気の一切を噴き出した。すると案の定、ぺらぺらのゴムになって垂れるわけである。


「何……その、手……化け物!?」


 思ったことはすぐに言ってしまう習性を持つ人間がいる。レイチェルもどうやらその類いのようで、そう答えることがどれだけ危険なのかも知らず露骨に驚嘆してしまった次第だ。当然、目を点にしながらじっとこちらを見つめるブロンド。その表情から彼女の脳行き血管エレベーターが急上昇していることは想像に難くない。


 終わった。開けてはいけないパンドラの箱をこじ開けてしまった。それも滅茶苦茶に。多分元の形に戻せないほどに。一瞬で平静に返り、そして変拍子ドラマーと化した心臓の鼓動を合図と言わんばかりにパニック状態へと誘われるレイチェル。右手の痛みを置いてきてくれたことにだけは感謝したい。



「…………こ、これが見えるのか!? 嘘は言ってないよな!?」



 ところがどっこい、不思議なことにヘイトはなかった。

 ブロンドは怒らないばかりか、童心に戻ったかのような食いつきを晒していた。飛びついてきた彼女に肩をがっしりと掴まれたレイチェルは、想定外の反応に困惑しながらも、命だけは助かったと安堵する。

 

 そう、()()()()()()()()のだ、レイチェルは。自分の置かれている状況も忘れて……。

 ――――人間という生き物は、極限の緊張状態が崩壊すると糸が切れたように気が抜けてしまうものである。戦慄からの解放は、それまで忘れていた時間を一気に巻き戻す。どういうことかと言えば、そう、右手の痛みを一層強めてしまうわけだ……誰のせいでもない、この安堵によって。


 しし座流星群なんて目じゃないくらいに降り注ぐ痛み。破瓜とか出産とかの方が楽だろうな、そんな頓珍漢なことを思案しながら、彼女の意識はそこで途切れた。


 大丈夫、死ぬということは、さすがにない。




※1……ブリタニア連合。現実世界のイギリスに相当する資本主義(西側)国家。北暦1970年代当時は自由経済の弊害による格差が拡大したため、このように非行・犯罪に走る若者も少なくなかった。

※2……東亜。帝政東亜の略称。簡潔に言えば現実世界の日本に相当する資本主義国家。

※3……ステイツ。現実世界のアメリカに相当する。

※4……メカニカル・ペンシル。現実世界の日本におけるシャープペンシルのこと。

※5……ブリタニアと現実世界のイギリスの警察/救急番号は999である。日本における110/119と同じような役割だと思っていただいて構わない。

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[一言] これからの展開が面白そうです
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