6.一発殴ってもいいですか?
その朝、シュゼットは今までにないくらい爽やかで快適な起床を迎えた。
逸る思いを抑えられず、ベッドから跳ね起きてカーテンを開ける。朝陽が部屋中を照らし出し、眩しさに目を細める少女の口元が弧を描く。
今日はセレンディーナの、初めての友達の誕生日を祝う日。彼女の笑顔を曇らせないために全力を尽くそう。漲る思いと共に拳を握る。暴言男め見ていろ、必ずや返り討ちにしてくれる。
そんな決心から数時間後、シュゼットは愕然としていた。今の気持ちを一言で表すなら「ウソでしょ」に尽きる。
軽めの朝ご飯を食べて。
早めに準備を終わらせ馬車に乗って。
セレナの邸宅に着いて、挨拶をして。
着飾ったセレナの可愛らしさを絶賛して。
プレゼントを渡して喜んでもらって。
一息ついたところで暴言男の目星をつけようと辺りを見回して視界に飛び込んできたのが、彼だった。
ちらりと端の方のテーブル近くに立っている少年を横目で窺う。
「…………セレナ、一つ聞いてもいいかしら」
「はい。どうかされましたか?」
「あの青いティーテーブルの側にいらっしゃる方はどなた?」
「レオガルド・ローグウェル様です」
ローグウェルと言えば、名だたる騎士を排出してきた侯爵家。アウディガナ家にも引けをとらない名門貴族だ。
あちこちに跳ねた、赤みがかった茶髪。不機嫌そうな切れ長の吊り目。緋色に近い夕焼け色の瞳。何より傲慢で不遜なあの態度。ああ、やはり。シュゼットは思わず片手で目を覆う。
彼は間違いなく雑貨屋でぶつかってきた自己中男であり、ずっと探してきた『茶髪の青年』だ。
どうして一週間前のあの日に気付かなかったのか。今考えれば思い当たる兆しがあったのに。
しかし出会い頭に暴言を吐かれれば誰だって呆気に取られるだろう。予感はすぐさま怒りへと変換され、そこまでの余裕などなかった。
言い訳と反省会が同時開催中のシュゼットの脳内はごった煮状態だが、一度頭を振ることで思考をリセットする。
どうして雑貨屋で出遭った少年が此処に、とか。
やっぱり暴言男の正体はコイツか、とか。
わざわざ来ておいて何でそんなに不機嫌そうなのか、とか。
他にも疑問は尽きないが、一旦置いておこう。探していた『茶髪の青年』が見付かった。それならばシュゼットのすべきことは一つだけ。
呼吸を整え、一歩ずつ彼へと近付いて行く。シュゼットに気が付いたレオガルドと目が合うと令嬢らしい完璧な笑みを作り、完璧な動作でお辞儀をする。
「初めまして。アウディガナ侯爵の娘、シュゼットと申します」
「…………」
どくどくと鼓動が鳴り止まない。震える指先を誤魔化すようにスカートの裾をよりきつく握り込む。
覚悟していたつもりでも、緊張しない方が無理な話だ。シュゼットの人生を大きく左右するかもしれない相手。下手は打てない。
「先日は大変失礼致しました。心からお詫び、」
「誰だお前」
「え」
「お前なんかと会ったことも話したこともない。人違いとは無礼な女だな」
…………覚えていないと? 虫けらを見る目で「どけ」と吐き捨てた相手を? 先ほどとは別の意味合いで震えそうになる手を握り締める。
(大人に、大人になるのよシュゼット。相手はちょっと口が悪い子供なの。クソガキなの。往復ビンタは全てが終わるまで我慢よ……!!)
そう自分に言い聞かせながら、引き攣りかけた口角にもう一度綺麗な笑みを載せる。
「それは大変失礼致しました。勘違いとはお恥ずかしい限りです」
「分かればいいんだよ。俺は寛大だからな、ちゃんと謝るなら許してやる」
「……ありがとうございます」
「俺はレオガルド・ローグウェル。侯爵家の嫡男だ」
脳内でレオガルドの横っ面を一発殴ってから世間話を続ける。
「こちらの紅茶はお飲みになられましたか。味も香りもとても素晴らしいものでしたよ」
「いらねぇ。子爵家の茶なんて飲んだら舌が腐る」
「でしたら、お菓子はいかがでしょう。程よい甘さが口の中でほどけて……」
「はっ、子爵家に仕える料理人なんぞたかが知れてる」
脳内のレオガルドに更に4、5発ビンタをお見舞いし、ついでに急所も蹴り上げてやる。
「レオガルド様はこの誕生会にあまり気乗りではいらっしゃらないのですね」
「当たり前だ。どうしてこの俺がわざわざこんな成り上がりの子爵家なんかに来なければならない? 父の命令で仕方なく来ただけだ」
なるほど、とシュゼットは思う。
レオガルドの父にしてローグウェル家の現当主は近衛騎士団の団長を務めるほど腕が立ち、才覚に富んだ人物だ。厳格で義を重んじることに有名で、受けた恩は爵位の優劣など関係なくきちんと返す人格者。
おそらくヒルシャー家になんらかの恩や繋がりがあり、返礼として息子にセレンディーナの誕生会に参加するよう命じた、ということなのだろう。
つまり今日この場でレオガルドに遭えたのは僥倖に他ならないのだ。下位貴族をこれだけ見下し、且つ自己中心的な考えをもつレオガルドが茶会や誕生会など自ら出向く訳がない。
もしかしたら、セレナと友達になっていなければ遭うことすら無かったかもしれない。そう思うとセレナには感謝しか浮かばなかった。
たとえどんなに俺様で我儘で自己中で口が悪くても、シュゼットにとっては一筋の希望。このチャンスは絶対に逃さない。
「退屈しのぎにわたくしと少しお話しませんか、レオガルド様」
「断る。お前が俺の興味を引くような話ができるとは到底思えんからな」
「それなら、こちらはどうでしょう」
取り出したのはなんの変哲もないトランプ。中身を箱から出し、テーブルの上に弧を描くように広げる。
レオガルドは胡散臭そうにしながらもその光景に視線を落としている。食い付いた。シュゼットはカードを一纏めにしつつほくそ笑む。