3.破滅に向かう恋なんてまっぴらです
シュゼットは自分の未来の婚約者らしい、ヴィンセント・ニカロスについて調べた。勘違いや同姓同名であるという可能性を求めて。
しかし調べれば調べるほど金髪の少年はニカロス王国第一王子だという現実を突き付けられる結果に終わった。
がっくりと項垂れるシュゼットの前に、ミーシェはティーカップとお茶菓子を差し出した。
「また考え事ですか?」
「……ねぇミーシェ、ヴィンセント様のことなにか知ってる?」
「王太子様の、ですか? 気立ても優しく聡明で、とても見目麗しい方と噂に聞いたことがあります。確かお年頃もシュゼット様と同じでしたよね」
「…………そうね」
盛大な溜め息をついたシュゼットに、ミーシェは首を傾げる。
侯爵家当主であるシュゼットの父親は領主としても人間としても非常に優れた人物だ。日照りで農作物が不作の年には税を軽くしたり、特定の地域で受け継がれる工芸を特産品として王都に卸したり。また、いち早く陸路や海路を整え流通を発展させたりとその功績は他国にも名高い。有能で忠義にも厚いアウディガナ家当主を、王も高く評価していた。
そういった背景がある中で王太子のヴィンセントと侯爵令嬢のシュゼットが同い年となれば、婚約者に仕立て上げられてしまうのも当然の流れと言える。
しかも入手できる範囲内の情報では、ヴィンセントの評価はミーシェの述べた通り。天使と謳われる容姿に、幼いながらもすでに非凡さを発揮している頭脳や才能。まさに絵本で見る王子様そのもの。彼との結婚を夢見る少女は王都内に溢れ返っているという。
しかし、シュゼットにとっては大問題だ。金髪の青年の正体が分かれば、徹底的に避けるつもりだった。そうすれば少なくともお邪魔虫としての立ち位置は変わるはず、そう思っていた。
けれど相手が婚約者で、しかも王太子となれば話は別だ。避けることはほぼ不可能。下手な態度を取ればアウディガナ家や父の名を傷付けるばかりか不敬罪になりかねない。よって婚約解消も絶望的。
「シュゼット様もヴィンセント様にご興味が?」
「とっ、とんでもない! わたしなんかが王太子様と釣り合うわけがないわ」
「そんなことありません、シュゼット様はとてもお可愛らしく聡明なお方ですし家柄的にも文句なくお似合いかと思います!」
ミーシェにしては珍しく熱い主張に、シュゼットの頬がひくりと引き攣る。擁護してくれているのだと分かってはいたが、笑えないし洒落にならない。
消え入る声でお礼を伝えてクッキーを頬張る。程よい甘さのはずのそれが、何故だが少ししょっぱく感じた。
『シュゼット様、まだ起きていらしたんですか』
『今日やったところが難しくて、復習しておきたいの』
『でももう夜も遅いですよ。お休みになられた方が……』
『うん、一区切りついたらすぐに眠るわ。ありがとう』
『……分かりました。けれど早くお休みになって下さいね、明日も朝から授業が入っていますよ』
『分かっているわ。おやすみ、ミーシェ』
『お休みなさいませ、シュゼット様』
困り顔で下がっていく侍女を見送ってから少女は机に向き直る。ペンにインクを付け、再度滑らせ始めた。
王妃となるための知識、作法、立ち振る舞い。家庭教師に付き添われ勉強に明け暮れる毎日。膨大な量の予習に復習は深夜までかかることも少なくない。
ペンを握る手のタコは幾度にも渡って潰れ、動かす度に痛む。長時間書物と睨めっこを続ける副産物とでもいうように頭痛や眼痛が少女を襲う。
けれど少女の心は軽かった。
机の脇に飾られた写真立てに視線を移してわずかに頬を染める。
『ヴィンセント様……』
暗闇の中、自分の所在を確かめるように瞬きを繰り返す。覚醒を促しながらゆっくりと身体を起こした。ぼんやりした頭のまま、シュゼットは思考を巡らせる。
自分にはよく分からない感覚で。まだ持ったことのない気持ちだったけれど。名前を付けるとしたら、多分。
「恋……?」
シュゼットは片目をこする。眠くて考えがまとまらない。珍しいと思った。未来の夢を視たときはその後眠れなくなることがほとんどだったから。それぐらい、穏やかで温かくてふわふわしていて、心が満たされている夢だった。
眠気に耐えきれず、ぱたりとベッドに沈む。未来の内容を記さず眠りに落ちたその後は夢さえ視なかった。
それから何日も、同じような夢を視た。
未来の彼女はいつでも机に向かっている。怠けもせず、遊びもせず、勉強している。それこそ学園に入学するまで、してからも毎日努力し続けていた。けれどいつだって彼女は苦しそうな表情などしておらず、瞳には意志を灯していた。
ヴィンセントの隣に立つ、恥じない自分で在りたいという確かな情熱を。
「『いつまでも二人は幸せに暮らしました。』……か」
読み終えた恋愛小説を閉じる。何冊か読んでみたが、あっさりとしたものがほとんどであまり参考にはなりそうにない。幼児向けの本なのだから当然と言えば当然だが。
頬に心地よい風が滑っていく。行儀の悪さを承知の上で木の幹に寄りかかっていた背中を草むらに寝転ばせた。中庭の片隅にある大きな木の下。木陰が気持ち良くて、お気に入りの場所の一つだ。土の匂いを感じながらシュゼットは思う。
(だからあんな馬鹿な真似をしたのかしら)
少し前まではさっぱり分からなかった。未来の自分がどうして黒髪の少女をあんなにも目の敵にして執拗な嫌がらせを行っていたのか。そんなことをしても嫌われるばかりで、状況は悪化するだけなのに。そんなことも分からないほど愚かなのか。そう思っていた。
けれど長年してきた努力も募らせた想いも報われず、さらに婚約者が別の誰かに恋い焦がれていたとしたら。
どれだけ屈辱的でどれだけ悔しくてどれだけ悲しかったのだろう。“シュゼット”の味わった絶望はどれほどのものだったのだろう。
積み重ねてきた分だけ溢れ出た想いは怒りに憎しみに妬みに容易くベクトルを変える。その矛先はただ一人、ヴィンセントが思いを寄せる少女だ。
「そのくらい、ヴィンセント様が好きだったのね」
どうしたって他人事にしかならないはずの呟きは幼い胸をちくりと刺した。
周りが見えなくなるくらい、自分を見失うくらい、黒髪の少女が憎くて憎くて堪らなくて。ヴィンセントの心をなんとしてでも取り戻したい。振り向いてほしい。ただそれだけだった。
そこまで追い詰められていた彼女の心に触れて、シュゼットは初めて“シュゼット”を理解できた気がした。
本では恋は素晴らしいものだと描かれていた。きらきらしていて、優しくて、幸せなものだと。
――現実ではどうだ。未来の自分が恋敵に行った嫌がらせは決して許されるものではない。それは変わらない事実だ。けれど彼女はずっと努力していた。ヴィンセントに愛されるために懸命に努力し続けた。
しかしその努力は報われることも認められることも無く、それどころか最期はみんなから疎まれ、嫌われ、慕った婚約者にさえ蔑まれて。独り絶望に沈んで息絶えた。
そんなものが誰かを好きになった結末だと言うのなら。
「わたしは要らない」
お腹の上に抱えていた本を地面に落とす。向き合った男女が幸せそうに微笑み合う表紙が、今はこんなにも白々しい。シュゼットは目を瞑り、深呼吸で思考を切り替える。
最優先事項は、ヴィンセントとの婚約を回避すること。一度婚約が結ばれてしまえば解消はほぼ不可能。だとするなら、最初から婚約ができない状況にしておく必要がある。しかしこのまま何もしなければヴィンセントと婚約させられてしまう可能性は極めて高い。
それなら――初めから別の誰かと婚約しておけばいい。婚約済みの令嬢に新たな婚約話が持ち込まれることはない。それが一番確実な回避方法だ。
しかし相手は? アウディガナは侯爵家。当然、相手にもそれ相応の家柄が求められる。シュゼットにとっても将来結婚しなくてはいけない相手なのだ、その辺の貴族の子息を適当に選ぶわけにもいかない。
どうせなら、最悪な未来を回避した後に婚約解消ができればもっといいのに。
シュゼットは自嘲する。虫の良すぎる話だ。相応の身分を持ち、しかも結婚適齢期に婚約解消まで応じてくれる相手なんて存在するわけが――
ハッと目を見開いて飛び起きる。いるではないか、とびっきり適した相手が!
「あのブラウンの髪色の青年……!」
そうだ、あの青年ならば。仮にも王太子に大きな態度が取れるということは、それなりの身分の高さが背景にあるはず。未来では黒髪の少女に恋していたが、あれほど自分勝手で傲慢でいけ好かない性格なら本来は従順な女性が好みだろう。自分が対象になることはあるまい。最悪の結末を回避できれば婚約解消もスムーズに運ぶかもしれない。
会ったこともない相手に大分失礼な考えが巡っているが、興奮状態のシュゼットがそれに気付く余裕はない。
(ならいっそのこと……手を組めないかしら)
シュゼット同様、お邪魔虫な立ち位置にいる彼もこのままいけば破滅を辿る。それを望む者なんていやしないだろう。だからこそ手を組むメリットがある。
この方法ならヴィンセントと婚約せずに済む。破滅への恋は始まらない。
「こうしちゃいられないわ!」
服に付いた葉っぱも払わず、シュゼットは駆け出す。恋愛を謳った本をその場に置き去りにして。
ようやく差し込んだ希望に頬を紅潮させながら。