14.冒険活劇でビンゴだと思ってました
漆黒の帳が世界を覆い、人々が一日の終わりを尻目に夢へと旅立ち始める夜分。レオガルドはベッドの上であるものと睨めっこをしていた。
開始から悠に30分が経過。不毛な睨み合いは未だ終わる気配を見せない。これ以上ないほどの憎悪が込められた視線を一身に浴びている、それは。
なんの変哲もない、一冊の本だ。
『次にお会いするまでに、この本の第一章まで読んできてください』
『はぁああ!?』
『というわけでこちらはお貸ししますね。面白さは保障いたしますのでご心配なさらず』
『ふざけんじゃねえ! どうしてこの俺がこんなものに時間を割かなきゃならないんだ!! 大体俺は本なんか読んだことねぇんだぞ!!』
『全く自慢にならないことを叫ばれるのはどうかと……』
『んだと!? とにかく俺はそんなことしないからな! 本なんか何が楽しんだが、あんなの根暗の現実逃避じゃねえか』
脳内でレオガルドにボディブローをくらわせながら、シュゼットは淑やかに微笑んでみせる。
『負けた方が勝った方の言うことをなんでも一つ聞く、という約束ですよね』
『それは、』
『まさかとは思いますが、約束を反故されるおつもりですか? 都合が悪いから“勝負”を無かったことにしろと?』
『そっ、そこまで言ってねえだろ! ただ俺はっ』
『そうですよね安心しました。騎士に二言はないとレオガルド様がおっしゃっていますものね』
『ぐ……っ』
『ではどうぞ。わたしの大切な本なので大事に扱ってくださいね。第一章まで、約束ですよ』
口で言い負かされ、ぐうの音も出ないレオガルドは引ったくるようにその本を受け取って苛立ちの収まらぬまま岐路に着いた。
そのまま記憶ごと引き出しに封印し、流れる月日の中ですっかり忘れ去っていた。が、シュゼットと会う前日の夜、もっと詳しく言えばベッドに潜ってまさに目を閉じようとしたその瞬間に思い出してしまったのだ、賭けの代償を。
どうしてこのタイミングで。レオガルドは己の間の悪さに頭を抱えずにいられない。
本当に忘れていたのであれば開き直ってシュゼットに本を突き返せた。が、なんとも不幸なことに思い出してしまった。明日がシュゼットに会う日という一番最悪なタイミングで。
このまま忘れたふりをして眠るのは簡単だ。けれど“約束”という単語がレオガルドの頭にこびりつく。賭けに同意し、勝負に負けたのはレオガルドである。意図的に約束を破るということは騎士の誇りを踏みにじることと同義。レオガルドの自尊心がそれを許さない。でも本なんて死ぬほど読みたくない。信念と本能がせめぎ合い、一方的な睨み合いという膠着状態に陥った。
レオガルドは観念したかのようにきつく目を瞑り、深い溜め息を吐く。
この睨めっこがただの悪あがきでいくら先延ばしにしても意味がないことくらい、自分でもよく分かっていた。
「……くそっ、読めばいいんだろ読めば!」
悪態をつき、半ば自棄になって本を掴む。
焦げ茶色の表紙に金字で施された題名。本体は年月の経過により多少の紙色の変化が見られるが、全体的な状態の良さは大切に保管されている証拠だ。
おそるおそる目次に開き、第一章が20ページほどだと確認する。そんなにあるのかよとげんなりしつつもさっさと終わらせるべく、腹を決めてページをめくった。
ある日、不思議な力を持った剣を手にした少年が紆余曲折を経て、仲間と共に魔王を倒す。
本の内容は大まかに言えばそんな感じだ。児童文学書らしくありきたりな設定ながら文章は読みやすく、登場人物も個性豊か。展開が早いため読者を飽きさせず、挿絵も美しく世界観を彩る。
今まで全くと言っていいほど本に触れてこなかったレオガルドも、段々とその世界に惹かれていく。
頬杖を付いていた手はいつの間にか本に添えられ、寝そべっていた身体は前のめりになり、流し読みしていた目は文章に釘付けになる。
(なんだこの男……特別な力を手に入れたくせにぐちぐち悩みやがって……)
主人公の動向にイライラしたり。
(おいおいおい、なんで気が付かないんだよそいつは敵だ! さっさと切り捨てろ!)
まさかの裏切りにやきもきしたり。
(ああもう、だから魔石をあの時使わず取っておけば……このままだと死ぬぞどうすんだよ!)
絶体絶命のピンチにハラハラしたり。
(こんな雑魚に手こずり過ぎだろ。でもまあ、結果的に倒せたんだから帳消しにしてやる)
魔王を打ち倒すラストに安堵したり。
ハッピーエンドを迎えた物語を見届け、レオガルドは充足の溜め息と共に本を閉じる。
ふと気付けば部屋がほのかに明るく、カーテンの隙間からは朝日が射し込んでいた。第一章どころか一晩かけて読破してしまったという事実に愕然とする。
「……この俺が……」
本なんぞにのめり込んでいただと……!?
読書など剣も振るえない根暗のすることと眼中にすらなかった。そんな読書に没頭してしまった自分が信じられず、陽光を遮るカーテンを呆然と見つめる。
居たたまれずに否定したい気持ちと、妙に腹立たしい気持ちと、それからほんの少しの爽快感。それらが反発し合いながら混ざり合って、レオガルドをなんとも言えない感情にさせていた。
本なんぞ根暗の現実逃避、その思いは今でもある。
――けれど。
レオガルドは手元の本に視線を落とす。
登場人物達と冒険を共にしているとき、レオガルドは確かにこの世界に居たのだ。
イライラしたり、ハラハラしたり、ドキドキしたり、ホッとしたり……主人公達と感情を共有し、共感した。本を開いている間はローグウェル家のレオガルドでなく、彼らの一員であり仲間だった。
想像すらしたことのなかった新たな世界が眼前に広がっていく感覚は、レオガルドの胸をときめかせた。まるで初めて剣を持ったときのように。
「……ふん」
手にしていた本をそっとサイドテーブルに置くと、レオガルドはベッドから起き上がりカーテンを開く。
寝不足の目に朝日は眩しすぎたが、不思議と悪い気分にはならなかった。
***
部屋に通されて腰を下ろすや否や、レオガルドは対面に座るシュゼットに放るようにして本を差し出した。
注意が口をつきそうになるのをぐっと堪え、にこやかに話を切り出す。
「いかがでしたか?」
「…………まあ、ちんけな話だが悪くはなかった」
お、とシュゼットは好感触を抱く。読んでいない可能性も考慮していたが、この口調ぶりからすると存外お気に召したようだ。
それによく見るとレオガルドの目の下にはうっすらと隈がある。昨晩に読んだとしても第一章だけならば隈が出来るようなことにはならないはず。ということは、もしかするのかもしれない。
「わたしは主人公が怪我をした仲間を魔石を使って治療するシーンが好きなんです」
「はっ、そのせいで魔王との戦いでピンチに陥ってたじゃねえか」
「ですがそこで仲間を見捨てなかったことが最後の大逆転に繋がっていくのも面白くありませんか?」
「そもそもあんな雑魚に手こずるところからして訓練が足りてない証拠、」
そこまで言って、レオガルドはハッとした。咄嗟に向けた視線の先のシュゼットは悪戯が成功したような笑みを浮かべている。
上手く乗せられて読破したことを白状するという失態に、レオガルドの顔に血が集まる。
「勘違いするなよ、たまたま時間があったから読んでやっただけだからな!!」
「はい」
「決して本が面白かったとか夢中になったとかそういうんじゃないからな!?」
「はい」
「~~っ、その顔止めろ!!」
言い訳するほどに墓穴を掘っていくことに彼は気が付かない。その反応にシュゼットはにやにやが抑えきれなかった。
本嫌いを元より明言していたレオガルド。しかし本当に活字が苦手だとかそういう部類ではなく、身体が動かすことを好む性格と勝手な偏見により根ざした考えなのだろうとシュゼットは感じていた。
本から学べることは多い。思考力、語彙力を培えるのはもちろんのこと、他者の感情にも触れられる。将来的には行き詰まったとき本を頼る、という選択肢を見出せるのも大きいだろう。
物語の中では何にでもなれるし、何だってできる。本は心を豊かにし、育ててくれる。思い込みで遠ざけるなんて勿体ない。
元々の地頭は良く、関心があるものにはのめり込むタイプなのだ。きっかけさえ与えれば後はどうにかなる。必要なのは単なるきっかけ。
そこで賭けを利用してレオガルドの好きそうな物語を選んで提示した。“約束”で縛っておけばその言葉に弱い彼のこと、嫌々ながらも本を開くだろうと目論んで。
最初はまず文章に目を通すことに慣れてもらおうと第一章までと指定したのだが、まさかレオガルド自身が一晩で読み切ってくれるとは。それだけ物語に熱中したという証だろう。これ以上ない最高の結果だ。
「この本、兄様からいただいた大好きな物語なんです」
「……」
「でも家族以外とこの物語について話したことがなくて……だからレオガルド様とこんな風に語れて本当に嬉しいです」
嘘偽りない言葉だ。シュゼットが知っている限りの女の子は冒険活劇でなく、お姫様や王子様が出てくる話を好む。それはセレナにも当てはまる。誰かとこのドキドキ感を共有できないことをほんの少し寂しく思う気持ちがあった。
レオガルドが読んでくれたら、語り合えるようになるかもしれない。そんな下心がなかったとは言い切れない。当分先だろうと思っていたから、嬉しい誤算だった。
いつもよりも素に近いシュゼットの笑みの中に本音を感じ取ったレオガルドは、目を逸らしたまま僅かに肩の力を抜いた。拗ねたポーズは続けたまま。
「レオガルド様、実はこの本には続きがあるんですよ」
「!」
「良ければチェスの前に本棚を見て行きませんか?」
本棚へと誘うシュゼットに舌打ちしつつも、仕方ないという体で立ち上がる。一ヶ月前ならあり得ない行動だっただろう。続きがあるなら読んでやってもいい。そんな思いが生まれていた。レオガルドの目の中に輝きを見つけ、シュゼットは微笑む。
この様子なら続きも借りていくだろう。それが終わったら別のシリーズを勧めて、少しずつジャンルの幅を広げていこう。
本棚に並ぶ本を簡単に説明しながらシュゼットは確かな手応えを感じた。