13.チェスは令嬢の嗜みの一つなので
ビショップをマスの斜め前へ。
逃げ道を塞ぎ、王の首元に刃を突き立てる。
「チェック」
「ぐ……っ」
眉を顰めたレオガルドは盤上をしばらく見つめ、やがて消え入りそうな声で負けを認めた。苛立ちをぶつけるように拳がテーブルに突き立てられ、振動で駒のいくつかが倒れる。
「もう一回だ! 次は絶対勝つ!!」
「ではもう一戦」
駒を並べ直しながら、シュゼットは内心で溜め息をつく。今回は何度再戦を受けることになるのやら。
2人が興じているチェス。元は会話のきっかけにでも、とシュゼットが誘ったことがきっかけだった。
やったことがないというのでルールを説明し、試しに一戦と始めてみればレオガルドはすぐにのめり込んだ。いや、正確には持ち前の負けず嫌いが発動した。
シュゼットに勝てないことが心底悔しいらしく、負ける度に再戦を申し込む。それはもうしつこいくらいに。再戦がその日に留まらず次回に及び、そのまた次回……という流れでもはや恒例になってしまった。
今よりも幼い頃から家族や使用人とチェスをしていたシュゼットに比べ、レオガルドはまだまだ始めたばかりの素人。勝てないのも無理はないのだが、彼にそんなことは関係ない。
勝負事に勝ちたい。負けたままなんて絶対に嫌だ。そんな信念が伝わってくるからこそ、シュゼットもわざと負けることが出来なかった。
気付いたこともある。ポーンを一つ前へ。
「正直なところ意外でした」
「は?」
「レオガルド様はチェスの勝敗を有耶無耶にしたりしないんですね」
レオガルドは負けをきちんと認めて口にする。いちゃもんをつけて勝負を無かったことにしようともしなければ、自分には向いてないだけだとチェスを切り捨てようともしない。
てっきり『俺が負けるなんてあり得ねぇ、こんなもん無効だ!!』と盤をひっくり返してくるかと身構えていたのに。
レオガルドはぎろりとシュゼットを睨み、盤上に目線を戻す。
「……勝負から逃げるヤツに成長はない。そう言われた」
「まぁ、大変素晴らしいお考えですね。どなたからのお言葉なのですか?」
「父上だ」
挨拶の際に対面したルイズを思い浮かべる。整った目鼻立ちに切れ長の瞳。赤みがかったブラウンの髪色。非常にレオガルドによく似た面立ちで、彼が成長したらこうなるのだろうと容易に想像できる美丈夫だった。
取り巻く空気は冷たい威厳に満ち溢れ、シュゼットでも一目で分かるほど圧倒的なオーラは思わず唾を飲み込んでしまうほどだ。
「近衛騎士団の団長様をしていらっしゃるんですよね。確か史上最年少で就かれたとか……」
「父上は本当にすごいんだ。剣も槍も銃も何でもこなせるし、頭もすごくきれる。父上に敵うヤツなんてこの国にいないからな」
興奮で微かに赤らむ頬やトーンの上がった声からも、ルイズのことを心から尊敬しているのだと分かる。だからこそ父からの言葉はレオガルドにとって絶対的な意味を持つのだろう。
ルイズがレオガルドを一言咎めてくれたら矯正なんてあっという間だろうに……シュゼットはそう思わずにいられない。けれど彼の両親がそうしてこなかったからこそ、現在の俺様自己中坊ちゃんがいて、未来では悪魔に成り果てたのだ。当てになど出来ない。
やはり頼りになるのは自分のみ。ルークを敵陣へと斬り込ませる。
「だぁあああっ、くそ……!!」
頭を掻き毟った後、盤上に伏せるレオガルド。悔しさと苛立ちで彼の手がぶるぶると震えている。
それを視界に納めつつ、つかの間の休憩にシュゼットは紅茶で喉を潤す。カップの中身はすっかり温くなってしまっていた。
レオガルドと月に一度会うようになってから分かったことはそれなりにある。
負けず嫌いなこと、父親を尊敬していること、約束は守ること。それから、そこまで頭は悪くないということ。
口は悪いが察しはいいし、チェスもどんどん上達している。“お”と思わせる手を使ってくることも増えた。元々持っている地頭は良いのだろう。
しかし彼はそれを伸ばす努力をしていない。聞けば座学はサボり、剣の訓練ばかりに精を出しているという。勉学が嫌いというより関心がない。興味があるものにはかなりの集中力を発揮するが、そうでないものには見向きもしないタイプのようだ。チェスがいい例だろう。
それではいけない。視野の狭さは思考の狭さに繋がり、思考の狭さは物事の価値基準を歪める。あの未来のように。
「もう一回だもう一回!!」
「レオガルド様、今度は賭けをしませんか」
「賭け?」
「負けた方が勝った方の言うことをなんでも一つ聞く、なんてどうでしょう」
「ふざけんじゃねえ、ずいぶんお前に有利だろうが」
「つまりわたしに勝てる気がしないと。あら、それは気遣いが足りず申し訳ありません。ではハンデをつけましょう」
「〜〜っっ、必要ねぇよ! 今までの分も合わせてぎったぎたに叩きのめしてやる……!! 後悔すんじゃねえぞ!!」
「わたしも手加減いたしませんよ」
チョロい。すでにレオガルドの性格を掌握しているシュゼットには彼を乗せることなど造作もないのだ。
本来ならばさっさとねじ曲がった性格や礼のなっていない口の利き方の矯正に取りかかりたいところだが、一朝一夕で直るようなものでもない。
治療と同じだ。悪い箇所を治すとき、いきなり身体にメスを入れる医者はいない。まずは診察してどこがどう悪いのかを見極める。その下準備が何よりも大事で、怠れば無関係な部位を傷付けてしまったり、悪化してしまうことだってあり得る。じっくりと時間をかけなければ確かな成果は表れない。
焦りは禁物。自分に言い聞かせるように、シュゼットは下準備に取りかかる。
30分後。撃沈したレオガルドがそこにいた。
言葉通り手加減なくこてんぱにされた。いつもは手加減されているのだと嫌でも気付かされ、憤りたいのにもはや物に八つ当たりする気力すら起きない。
反対にシュゼットはご機嫌だ。レオガルドの傲慢さに慣れたとは言え、鬱憤は溜まる一方だった。賭けのためという口実で遠慮なくぎったぎたにしてやれた開放感に心が洗われる。
「レオガルド様、賭けのことは覚えておいでですよね?」
「…………」
シュゼットは立ち上がって棚の前で止まると、あるものを手に取って席へと戻ってくる。そしてそれをレオガルドの前へ置いた。レオガルドは目だけで置かれたものを不審げに見やる。
「これがわたしからの指令です」