12.何事も最初が肝心です
穏やかな昼下がり、シュゼットはテラスで本を読んでいた。たおやかな風や陽射しの心地よさについ欠伸が漏れそうになり、口に手を当てて噛み殺す。
眠気覚ましにお茶でももらおうと振り返るより先に、カップが目の前に置かれる。微かな湯気が立つ紅茶に笑みが零れた。
「ありがとう。ちょうど喉が渇いていたの」
「お役に立てて光栄です」
「この本、まだ途中なんだけど面白いわ。読み終わったらミーシェも読んでみない?」
「お嬢様から御本を貸して頂くなど畏れ多いです」
「……紅茶、とても美味しいわ」
「有り難きお言葉、恐悦至極に存じます」
どこまでも他人行儀な返答にひくりと喉が引き攣る。
もしかしなくても、これは……。
「ミーシェ、まだ怒ってる?」
「私なんぞがお嬢様に腹を立てるなどとんでも御座いません」
「怒っているのね……」
そっぽを向くミーシェの背後にはありありと不機嫌オーラが漂う。本来なら侍女が主にこんな態度を取れば懲罰ものだが、シュゼットとミーシェの付き合いは長い。気が置けない関係だからこそのやりとりだ。
シュゼットは困ったように苦笑を浮かべ、どう機嫌を直してもらおうと思案する。
誕生パーティーから一週間後、シュゼットとレオガルドは正式に婚約を結んだ。
両親ともに突然の申し込みに驚きを隠せず、おまけに性格がよろしくないと評判のレオガルドが相手ということが承諾を躊躇わせた。しかし他ならぬシュゼットが婚約を望み、説得に全力を尽くした結果、最後には了承してくれた。
が、ミーシェは当然ながら最後まで反対していた。パーティーに現れた少年があの雑貨屋で出くわした男と同一人物だと気付いたためだ。『あんな無礼な子息が婚約者になるだなんてお嬢様が可哀想です』と解雇覚悟でシュゼットの父へ直談判にまで赴いたが、結局はシュゼットの意向が尊重された。
シュゼットはミーシェにも再三説得を試みたが、納得してくれることはなく。結果、完璧にヘソを曲げてしまい現在に至っている。
「ごめんね、相談もせずに決めてしまって」
「……出過ぎた真似をしているのは重々承知しております。ですが、シュゼット様ならもっとお似合いな方がいくらでもいらっしゃるはずです」
「ミーシェ……」
「旦那様が少し前におっしゃっていたんです、ヴィンセント王子との婚約話が持ち上がるかもしれないと」
その言葉にぞっとする。やはりもう話は上がっていたのか。
間に合ってよかったと心底安堵する。あと一歩遅かったら王太子との婚約が優先されていたかもしれない。いや、間違いなくされていただろう。
「ミーシェが心配してくれているのは分かっているつもりよ。でもわたしにとってこの婚約は必要なことなの」
「レオガルド様でなければならない理由があるのですか?」
「ええ、あるわ」
強い意志を放つ瞳にミーシェも諦めの溜め息をつく。
こう言い出したときのシュゼットが決して引かないのはよく知っている。
「……シュゼット様がお決めになったことならもう口出しは致しません。過ぎた態度を取り、大変申し訳ありませんでした」
「ううん、いいの。ありがとうミーシェ。これからも助けてくれると嬉しいわ」
「もちろんです」
ようやくミーシェの表情に明るさが戻り、シュゼットも胸を撫で下ろす。姉のような彼女に嫌な思いをさせたい訳じゃない。結果としてそうなってしまったのは申し訳ないと思いながらも。
しかし今でこれなら、婚約解消した際にはどれだけ怒り狂うことだろう。何かしらの対策を取っておかねばと心に決める。
ひとまずはこれからやって来る自己中俺様坊ちゃんを迎えるために支度を整えるとしよう。
***
「どうぞ一息ついて下さい。お疲れになられたでしょう?」
「当たり前だ。この俺に敬語なんか使わせやがって」
むしろ敬語使えたんですね。
喉の奥まで出かかった本音を何とか押し留め、紅茶とお茶菓子を勧める。
婚約の挨拶にシュゼット宅へと訪れたレオガルドは目に見えて機嫌が悪い。両親の前ではきちんと体裁を保っただけマシだろう。ちなみにシュゼットもレオガルドの邸へと足を運び、すでに挨拶を終えている。
不穏な空気を醸し出しそうな侍女を早々に退室させ、ティーサロンには2人きり。頃合いを見計らい、淡々と切り出す。
「この度は婚約を結んで下さってありがとうございます」
「勘違いすんなよ。お前なんかと結婚するつもりは微塵もないからな」
「ご安心下さい、わたしもです。つきましては今後のために約束事を決めたく思うのですが」
「約束だぁ?」
数年後、王太子と黒髪の少女は惹かれ合う。その未来はおそらく変わらないだろう。2人に近付きさえしなければ、シュゼットに害が及ぶことはない。
けれど、レオガルドは? 大した面識が無さそうな今でさえ対抗心を燃やしているのだ。王太子より優れていると示すため、黒髪の少女を自分のモノにしようと動いても不思議ではない。シュゼットの忠告が逆に彼を焚き付ける――そんな事態だって大いにあり得る。近付いた結果は言わずもがなだろう。下手すればレオガルドの婚約者という立場上、シュゼットが巻き込まれる可能性だってある。それは切に、心からご遠慮願いたい。
ならばどうすればいいか?導き出した答えは至って単純。
今のうちにレオガルドを矯正すればいい。
18歳のレオガルドは自尊心と傲慢の権化だった。幼少期より骨の髄まで染みこんでしまった横柄さは他人の諫言でどうこう出来る部類の歪み方ではなく。自分以外の正しさを認めず、意に反する者は徹底的に排除する。そんな悪魔のような男だった。
しかし、まだ8歳である現在ならまだ手の打ちようがある。目に余る身勝手さはあるものの、子供ならまだぎりぎりで許される範囲。逆を返せば今しか彼を矯正するチャンスはない。名門侯爵家の長男にして剣の才能に溢れ、眉目秀麗。素材はダイヤモンド級なのだ、性格の矯正さえ成功すれば黒髪の少女だってレオガルドに振り向く希望は生まれる。
もしもレオガルドと黒髪の少女がくっついてくれれば、シュゼットの未来は安泰も同然。だからこそ彼女は意気込む。
(必ずや立派な好青年に仕立て上げてみせるわ。たとえ今がどれだけ俺様で自己中な度が過ぎるクソガキだとしても!)
そのためにここでの決め事が重要になってくる。
シュゼットは人差し指を一本立てる。
「1つめ。一ヶ月に一度はお会いしましょう」
「げっ、俺は絶対にご免だぞ!!」
「いいんですか? レオガルド様にとって有益な情報をお伝えする機会をと思ったのですが」
「て、手紙でもいいだろうが」
「手紙では細かい部分が伝わりきらない可能性もあります。いちいち疑問が生じる度に手紙をやりとりする方が手間だと思いますけれど」
「大体の内容が分かればどうにかなる!」
「そうですか。詳細が不明なために手遅れになってしまう事態が発生しても構わないと」
「なっ」
「事故、病気、災害……一刻を争うような状況にならないとも限りませんが、レオガルド様が必要ないとおっしゃるのなら仕方ありませんね。分かりました、手紙でのやりとりに――」
「ああくそ、会えばいいんだろ会えば!!」
投げやり気味に叫ぶレオガルドにシュゼットは笑顔でもって応える。
「そうそう、緊急を要しそうな夢を視た場合はこの約束を別として直接伺いますのでご安心ください」
「はぁ!? じゃあ最初から、」
「では2つめ。レオガルド様の親交関係には一切口を挟まないことをお約束します」
「親交関係……?」
人差し指に続いて中指も立てる。
ぴんと来ていない彼のため、解釈を付け足す。
「つまりレオガルド様がどんな方とお付き合いされても干渉しないということです。それが男性でも、ーー女性でも」
「……へぇ、余所の女と仲良くしてもいいって?」
「ええ、ご自由に。ですが、外聞的にはわたしと婚約しているということはお忘れにならない範囲でお願いします」
「ふぅん。なら、お前も別の男作っても許してやるぜ?」
「お気遣いをどうも」
そもそも恋愛なんぞに現を抜かしている余裕があるなら最初から貴方となんか婚約してませんけど?
表面上は笑顔を保ったまま心の中でそう続ける。
浮気をあらかじめ公認にしたのはレオガルドを縛る気はないと、暗に示すためだ。特に行動を制限されるのは嫌いそうなので先手を打っておく。
シュゼットとしてもレオガルドが他の女に手を出そうと特に何とも思わない。どうぞお好きに。が、本気になられるのは世間的に面倒くさいことになるのでほどほどに釘は刺しておく。
薬指を立てる。立てた指はこれで3本。
「3つめ。わたしの力は秘密にして下さい」
「予知夢のことか」
「はい。この力のことを話したのは正真正銘レオガルド様だけです。今後も誰かに明かす気はありません」
「何でだ? 話せば周囲から崇められるんじゃねえの?」
「そんなものわたしは要りません。周囲の人達のほんのちょっと笑顔にしてあげられる……そんな風に力を使いたいんです」
「よく分かんねぇな。俺なら見せびらかしてやるのに」
「お願いします、約束して下さい」
身を乗り出し、訴えるようにレオガルドの手を握る。思いがけない接触に少年はぎょっとして身体を強張らせた。
「お、おい、俺に触るな」
「もしかして、もう誰かに話してしまいましたか?」
「話してねぇけど……」
「レオガルド様、一生のお願いです。どうか……」
「っっ!!」
顔を寄せられ、レオガルドは余計に固まってしまう。男兄弟の長男で、剣の稽古でも周りは男ばかり。そんな彼が女性と触れ合う機会など皆無。慣れていない故にどう対応すべきかも分からず、自然と頬に熱が集まる。動揺を悟られないよう、シュゼットの手を強引に振り払った。
「わ、分かった、言わなきゃいいんだろ!」
「本当ですか?」
「騎士に二言はない!! それからっ、気安く触ってんじゃねえ不愉快だ!!」
「あ……た、大変失礼しました」
自分の行動を振り返り、シュゼットは素直に頭を下げた。いくら必死だったとはいえ、自ら異性の手を握るなんて。恥ずかしさをどうにか押さえ込み、令嬢スマイルを貼り付ける。
「ありがとうございます、レオガルド様ならそう言っていただけると信じていました」
「ふん」
「わたしからの提案は以上になります。レオガルド様からのご提示はありますか」
腕を組んでそっぽを向けたまま、目だけでじろりとシュゼットを睨みつける。精一杯の照れ隠しだとお互い気が付かない。
「俺に偉そうな口を利くな。俺に関する予知夢はどんなことでも漏らさず教えろ。俺の婚約者だろうが何だろうが思い上がった態度は取るな」
「承知しました。以上ですか?」
「あと、気安く触るな! 次に同じことしやがったらタダじゃおかねぇからな!!」
「……神に誓って」
シュゼットは用意していた誓約書を出すか一瞬悩んだ末、止めた。信頼はまだ出来そうもないが、信用したい――否、出来るかもしれないと思ったからだ。“騎士”という単語を口にした彼の瞳は、確かな輪郭を持っていた。
そういう意味では安心した。まだ大して親しくない他人との約束も守ろうとする意思をきちんと持ち合わせていたことに。口が悪くて自己中心的だが、それだけではない一面もほんの少し垣間見れた気がした。
「改めまして、これからからどうぞよろしくお願い致します。一緒に破滅を回避しましょう」
「そのために手を組んだんだ。ただし、少しでも不審に思うことがあった容赦しねぇからな。覚えとけよ!」
少年はどこまでも傲慢に言い放つ。シュゼットがそれにいちいち腹を立てることはもうない。なにせもう婚約者という立場は手中に収めたのだから。
さあ、徹底的に矯正してやろうじゃないかと令嬢らしからぬ表情でほくそ笑むのだった。