本当の名前を俺に教えて?
自分が思っている以上に侵食されていたようだ。自分の軸と思っていたものや立場が全て異形な存在へと変化していく。その中で私はいるはずなのに、いない、視界や思考、体さえも自分のものじゃない感覚が全身を駆け巡り、覚醒への道へと後押しするのだ。
表情が見えていたはずの顔は長い髪によって隠れた。私の瞳は髪に隠れていて、相手からは見えない。彼から見えるものは歪んで笑う口元だけだった。
『どんな気分かな? 俺に教えてくれない?』
「……」
返答する様子もない私を見つめてくる視線が痛い。観察対象を見るような視線に近いだろう。普通の人間からしたら、そのような異様な空間は居心地が悪いかもしれないが、現在の私にとっては『快楽』に近いものを感じた。
私を纏う空気が淀んでいく。天井に浮いてしまった本物の私は、その光景を見つめながら、唾を飲みこむ。そんな事しか出来ない。
──嫌な予感がする……
人間の直観と言うものは真実を見抜く目を持っていると考えている。自分を守る為の『防衛本能』に近いかもしれない。
『……副社長、いや『イシス』と呼んだ方がいいかな?』
何の反応もしなかった私の身体がピクリと反応する。
「……私は、どちらでもないわ」
『と言うと?』
初めて返ってきた返事が余程、嬉しかったのだろう。いつもの笑顔とは違う本当の表情で、岬は質問をした。その質問に答えるように、私の前髪から目つきの鋭い、まるで別人のような私の姿が、彼の瞳に映る。
「器でしかないのよ、その名称は。私には別に名前がある」
『なら、君の本当の名前を俺に教えてくれないか?』
「名前を聞きたいのなら、貴方から名乗るべきではなくて? それが人間の礼儀なのでしょう?」
『クスクス。君は本当に面白いね』
私と岬の体の距離感がどんどん狭まっていく。彼が私にゆっくりと近づいてくるからだ。何かを確かめるように、彼自身の感情を確かめるように、ゆっくりと動く時間が流れ続ける。それは現実の時間軸とは少しずれていて、現実感を感じれなくなっていくような錯覚を覚えてしまう程だ。
『俺の名前は『岬 啓介』君の成長を導く研究者って事かな? 現在の所は……ね』
「岬……啓介」
『いい名前だろう? 俺の名前は伝えたよ、次は君の番。教えてくれないかな?』
幼子をあやすような口調に少し優しさが混ざっているように感じたのは私だけだろうか。私の体を乗っ取った『イシス』と言われている細胞達も、人間と同じような感覚を持っているかは定かではないが……
「私の名前は『しおり』何故、この名前がついているのかは分からないけれど、私達『イシス』の完成形はそう呼ばれている。私はこの名前……好きじゃない」
岬は『しおり』その名前を聞いた瞬間に表情が一瞬消えた。そしてジロジロと何かを確かめるように、私を観察している。
その視線が気持ち悪い、そう『しおり』の考える事が私の心に流れ込んできたのだ。