珈琲の匂いに包まれて
ふと色々思う事があった、考える時間が欲しかった。何度もヒスに言われた時の事を頭の中で迷走しながら、自分がどうしたいのか決める必要がある。すぐにどうこうする訳じゃなく、自分の人生の分岐点だと感じたからだ。
(ふう……落ち着く)
いつもは入る事がない喫茶店に一人でいる。少しヒスと距離を開けた方がいいと感じたからだ。ヒスの言いたい事は分からなくもない。でも、今まで私の生き方の中心には父さんがいるのも事実。実質『裏切る』事になるから、余計に考え込んでしまう。
コクンとコーヒーで喉を潤すと、少しだけ気楽になれる気がした。気がするだけで何の解決にもなってないけど、今はそれでいいと思っていた。
「初めて見る人だね、兄ちゃん」
「はぁ……」
間抜けな返答をしながら、お辞儀をする。考えている最中に声をかけられたものだから、変な声が出てしまった。少し上ずった返事だったと思う。そんな私に気づきながら、ケラケラと笑う初老の男。少しムッとしたが、ここは合わすのが一番いい。
(ここは冷静に、冷静に……)
早く去ってくれないだろうか、こちらは考えたくて、一人になる時間を作っているのに、邪魔しないでほしい。ここで私は後で気づく事になる、この初老の男との出会いが生きる道を変えるきっかけになるとは思いもしなかった。
「わしはよくこの店に来る『常連』や。ここのコーヒーうまいだろう? 何か考えたい時や迷っている時に頭をすっきりさせてくれるからな」
「美味しいですね」
まるで考えている事を見透かしているような言い方だ。初対面なのに何が分かるのかと思ったのだが、男の言う事は事実だから否定は出来ない。ここのコーヒーは美味しい、悩みさえかき消してくれる。コーヒーに詳しくはないが、酒と同様美味しいと感じたのはこの店のコーヒーだけだった。
コーヒーの苦ったるい匂いに包まれながら、ふと視線を落とした。ゆらゆらと踊る水面のように波紋を作り出す姿に幻想を抱きながら、自分の人生を振り返ってみる。すると、伏し目がちだったのだろうか、険しい表情をしていたのかもしれない。男は一言いい、離れていった。
「何を悩んでるのか分からないが、自分の心に従えばいい、それじゃわしはコーヒーを愉しむよ、兄ちゃんも楽しみな」
すっと入ってくる訳じゃないのに、私の気持ちなど理解出来るはずもないのに、何故か心に従うという言葉が頭の中で響き渡り、消えてくれはしなかった。
コクリ──
逃げる事が出来ない現実に向き合いながら、また一口含んだ。