金木犀
甘い甘い金木犀の香りは、私の思考を狂わせる。
貴史は隣の席だった。
就職が決まらず、親のコネでなんとか潜りこんだ会社で出会った。
若い人が少ない会社で、私たち二人は自然と仲良くなった。
仕事帰りに食事をしたり、休日に一緒に出かけたりするうちに、気が付けば付き合うようになっていた。
最初のキスは、自宅近くまで送ってもらったとき。
甘い金木犀の香りに包まれて、幸せだった。
***
「お帰りなさい。」
リビングに入ってきた貴史に声をかけると、ギョッとした表情をした。
「遅くなるから、先に休んどけって言ったよな。」
そう言って、常夜灯から普通のライトに切り替える。
「良いじゃない、待ってたって。」
「待つにしても、待ち方ってもんが有るだろ。薄暗い部屋で何にもせず待つって…。」
「なら、まっすぐ帰った来ればいいじゃない。毎日遅くまで、どこで何してるの。」
貴史が溜め息をついて言った。
「寝る。」
以前はよく言い争っていたが、最近は言い争いにまで発展しない。貴史が溜め息をついて、おしまいだ。
寝室ではなく、隣の和室に向かう貴史からは、酒とたばこの入り混じった、悪臭としか言いようのない臭いがした。
***
貴史には付き合ってる女性がいる。
それを知ったのは、初キスの後、すぐだった。
学生時代の友人と久しぶりに会った帰り、女性と腕を絡ませて歩く、貴史を見かけた。
貴史を目で追いながら電話してみたら、スマホの画面を確認はしたものの、そのままポケットに突っ込んだ。
翌日、すぐにでも問い詰めたかったが、昼休みまで我慢した。
お昼のチャイムと同時に、貴史を非常階段まで引っ張り出し問い詰めたところ、別れ話を持ちかけているが、相手の女性がなかなかうんと言わない、と言われた。
「お願い。ちゃんと別れて。もう一度話をして。」
「わかってるよ。今週末、会ってくる。」
週末、貴史の事を信じていない訳ではなかったけど、どうしても落ち着かなかった私は、こっそり跡をつけた。
貴史の向かった先は、学生街の隅っこにあるアパートの二階だった。
インターフォンのボタンを押すと、この間見た女性が笑顔でドアを開けた。
笑顔?別れ話をしてるんじゃないの?
貴史は女性の腰に手を回すと、仲むつまじく、としか言いようのない様子で、部屋の中に消えた。
私は、今見た光景が信じられないまま、その場を後にした。
それから半月ほど経っただろうか。
結花、あの女がいなくなったと聞かされたのは。
職場での人間関係がうまく行かず、退職して実家へ帰ると言っていたそうだか、退職はしたものの実家へは帰っておらず、行方が分からないとのことだった。
その話をする貴史は、少し憔悴しているように見えた。
二股かけてた相手に話す内容では無いよね、と思いながらも、母性本能をくすぐられた私は、手料理で慰めることにした。
メニューはビーフシチューだ。
「何にも言わずにいなくなった女のことなんか、さっさと忘れちゃえば良いのよ。男の人って、なかなか忘れられないのかしら。女は、忘れられるのよ。ほら、出産の痛み。忘れられるから二人目・三人目を産めるの。だからあなたも、早く忘れて。」
あの、アパートの部屋へ二人が仲良く消えた日から、どことなくギクシャクしていた私達だったが、その日を境に、また元のように仲良く、いや、以前よりもずっと親密な関係になった。
***
洗濯物を干そうと窓を開けると、どこからか金木犀の香りが漂ってきた。
匂いは、記憶を呼び起こすって、どこで聞いたんだっけ。
付き合い始めた頃の私は、こんなに独占欲の塊のイヤな女では無かったはずだ。
いつからこんなになってしまったんだろう。
結婚を機に、退職して家にこもってしまったのが悪かったんだろうか。
貴史を束縛しすぎたかもしれない。
もう一度、あの頃に戻りたい。
そう思った私は、今の気持ちを貴史にLINEで送った。
すると
『今日は早く帰る』
とだけ、返事がきた。
だから、夕食は腕によりをかけて作ることにした。
メニューはビーフシチュー。
あの女がいなくなったときに、私の中ではお祝いの気持ちを込めて作った料理だ。
サラダに使うリーフレタスは、ベランダのプランターで育てているのが、まだあったはずだ。
テーブルに飾る花も、プランターから切ろう。ポットマムが良いかな。
ちょっとだけ奮発して買った、和牛のスネ肉がホロホロになった頃、貴史が帰ってきた。
「お帰りなさい。」
満面の笑みで、出迎える。
「今日は、ビーフシチューにしたの。貴史、好きよね。」
「晩飯、要らないから。」
「え…?」
「早く帰ってきたのは、お前にちゃんと伝えるべきだと思ったからだ。」
そこで貴史は一呼吸置いた。
「別れてくれ。」
頭の中が、一瞬真っ白になった。
「お前には、もううんざりだ。仕事で疲れて帰ってきたら、毎日陰気な顔見せられて。今日はどこで何をしていたか、誰と会ったのか、事細かに訊いてくるだけじゃない。スマホも全部チェックしてるよな。」
「だって、それは貴史が…。」
「そんなに信用出来ないんなら、何で一緒になった。俺だって、お前には悪いことしたと思ったよ。だから、面倒でも全部答えたし、これからは誠実になろうと、」
そこまで聞いて、急に可笑しくなってきた。それが顔に出てしまったみたいだ。
「何、笑ってる。」
「誠実?ふざけないで。あなたみたいな優柔不断な男、あの女がいなくならなかったら、未だに二股かけてるわよ。」
「何だと。」
「それも似たような見た目の女に二股って、バカじゃないの?」
「っ…!」
頭に血が上った貴史が、胸ぐらを掴んできた。
その時、キッチンの細く開けた窓から、金木犀の香りが漂ってきた。
そうだ、思い出した。
「そうよ、だから、私が一人減らしてあげたのよ。」
「え…お前、何言って…。」
「何で私、忘れてたんだろ。ちゃんと覚えてたら、毎日笑顔で、貴史のこと出迎えてあげれてたのに。」
思い出したら、笑いが止まらなくなってきた。
「お前、結花に何をした。どこへやった!」
胸ぐらを掴んでいる貴史に、揺すぶられる。
私は笑いながらゆっくりと右手を伸ばし、貴史の頬を撫で上げた。
「ここにいるじゃない。」
「え…?」
貴史の手がゆるんだ。
「だから、あなたの中にいるでしょ。」
私から手を離し、貴史は床に崩れ落ちた。




