37.だからお願い
小気味良い音につられるように目を覚ませば、食欲を誘う良い匂いが鼻孔をくすぐる。状況を確認すれば、自分の部屋でベットに寝ていたようである。どうなっているのかと思考を働かせれば、情けなくやられてしまった自分の姿が徐々に思い出されて来た。
「カッコわる」
溜息と共にこぼれた言葉に自嘲する。
助けたくて間に入ったくせに、結局助けられたのは自分の方だった。強がって虚勢を張ったところで、何が出来る訳でもなかったのだ。なんて情けないんだと思わずにはいられない。何気なく時計を見れば、時間は八時前。
げっ!
慌ててスマホを確認すれば、仕事が始まる僅か六分前だった。俊介は、諦めたように登録した番号を呼び出すと、会社に電話をかけたのだった。
休みは思った以上に簡単に手に入った。ほんの数日前に有休を使ったばかりであるにも関わらず、上司が俊介の仮病をあっさりと信じてくれたのだ。いや、実際問題として前日に大怪我を負ったわけではあるのだが……。とにもかくにも、普段真面目な事が功を奏したのだと思う事にした。せっかく休みを手に入れたのだから、有効に使わなければ勿体ない。
俊介は、ゆっくりと深呼吸をしてから、日課である寝起きのストレッチを開始した。身体を伸ばしながら、怪我をしたはずの個所をチェックする。しかし予想通り、怪我一つ見当たらなかった。それどころか、以前よりも肌が綺麗になっているように思えてならない。もしかしたら、これは治癒魔法の副次効果なのかもしれない。
確認を終えた俊介は立ち上がって大きく伸びをした。そして、料理をしているだろう音の方へと歩き出した。
「何作ってるの?」
エプロンをしたレベッカの後姿に声を掛ける。グツグツと鍋を火にかけている横で、リズムよく包丁を動かしているレベッカ。意外にも家庭的な面を垣間見て俊介は小さく驚いた。
「良かった。目が覚めたんだね。キッチン勝手に借りてごめんね。大した料理じゃないけど、すぐ出来るから待ってて」
一瞬だけ振り向いたレベッカは、泣き腫らしたような目をしていた。俊介は申し訳なく感じると同時に、レベッカの優しさに心を打たれていた。正直言えば色々と聞きたい事はあったのだが、それは後で良いだろう。
「ありがとう。楽しみに待ってるね」
それだけ言って俊介は元いた部屋へと戻っていった。
レベッカの作った料理は素朴ではあったが、俊介の口に良く合った。失った血を取り戻せるようにと、しっかりと栄養が考慮されている上、どれも薄味で、朝食にはとても向いているように思われた。朝からたっぷりと食べて俊介は十分に満足する事ができた。こんなに満たされた朝はいつぶりだろうかと思わずにはいられない。
「ごちそうさま。ありがとう、美味しかった」
「お粗末様でした。お口に合ったみたいで良かった」
そう言ってレベッカは安堵の表情を浮かべていた。
「それで昨日の事を聞いてもいいかな?セリナに治して貰ったんだよね?」
片づけを終えた後で、俊介はレベッカへと問いかけた。
「うん、他に方法が思いつかなかったから」
レベッカの話によれば、婚活パーティーの休憩の時に、セリナと会話してプロフィールカードを見せて貰ったのだと言う。その時に治癒魔法を持っていた事を覚えていたらしい。
「でも良く俺がセリナの連絡先を知ってるってわかったね?」
「女の勘かな。なんとなく俊介の好みに近そうだなって思って覚えてたのよ」
「俺の好みね……」
視線を逸らした俊介は、小さく息を吐き出した。
――それにしても。
助かったのは、幸運だったと言わざるを得ない。
もし、レベッカがセリナの存在を知らなかったら?もし、俊介がセリナの連絡先を知らなかったら?もし、レベッカがセリナに助けて貰う事を思い付かなかったら?そう考えると、いくつもの偶然が重なって助かったのではないかと思えてくる。
「心配かけてごめん。本当にありがとう」
「本当に心配したんだから……」
そう言ったレベッカの目には薄らと涙が浮かんでいた。
「ごめん」
他の言葉は出てこなかった。
俊介はただ、レベッカを助けたかった。
しかし、そうするだけの力も知恵も持ち合わせてはいなかったのだ。ただただ、無様に逃げ惑い、ボコられた上に捕まってしまった。あまつさえ、助けようとした相手に助けられ、他の人にまで迷惑をかけたのである。なんて情けないのだろう。
俊介の思考はひたすらに暗く、ずぶずぶと深みへと沈んでいってしまう。
どこまでも。
どこまでも。
不意に手を握られた。
驚いて顔を上げれば、すぐ近くにレベッカの顔があった。一晩泣き腫らしたであろう、充血した目で俊介を真っ直ぐに見つめて来る。
「凄く心配したけど、庇って貰えて嬉しかった」
美しい表情だった。
「失敗しちゃったけどね」
レベッカが首を振る。
「そんな事ない。私一人なら今頃はきっと、もっと酷い目にあってたと思う」
「そんなはずは……」
「あるのよ。あいつらが嫌いなのはサキュバスで、人間は別。俊介が助けようとしてくれたから、私に何かあると思って様子見をしてたのよ」
レベッカの住む世界では、性に対して厳しい戒律を持つ宗教が力を持っていた。その宗教では生涯をかけて一人の人を愛し続けなければいけないという教えがある。それは人の精を命の糧とするサキュバスの存在と真っ向から対立してしまう。いつの頃からか始まったサキュバス狩りは、年々力を増していき、今ではかなりの規模になっているのだという。
「酷いな」
「仕方ないのよ。それに今は昼の周期で、サキュバスである私達の力が弱まってるから余計にね」
「でも、だからって……」
溜息を吐き出した俊介に、レベッカは優しく微笑んだ。
「優しいのね。ねぇ知ってる?サキュバスって呪われた種族なんだよ」
「どういう事?」
予想だにしていない話の流れに俊介は困惑する。
「サキュバスってさ、半精霊みたいなものなの。人を愛する事も愛される事も無く死んだ人の魂が、姿を変えた存在なのよ」
レベッカが手を握る力が、ほんの少し強くなった。そして「ちなみに男はインキュバスね」と小さく笑った。
「レベッカはサキュバスになる前の事を覚えている?」
「ぜーんぜんっ!覚えてる訳ないじゃん。気付いた時にはサキュバスだったんだから」
「そっか。それでその呪いは解けるの?」
「うん」
「それってどう……」
続けようとした言葉は、レベッカの唇によって遮られた。突然重ねられた唇の、柔らかな感触に俊介の思考が停止する。ゆっくりと離れたレベッカの少しだけ厚い唇が、触れるか触れないかの距離で停止した。漏れ出た温かな吐息が互いに触れ合う。
「簡単だよ。本当に好きな人とエッチすればいいの。だからお願い、私を抱いて」
熱を帯びたレベッカの声に、俊介の心臓が大きく跳ねた。




