今、そこにある成分
生きていくのに大切なものは多々とあるけれど、普段だれも気に留めないもののひとつが空気ではないだろうか。成分は七十八パーセントが窒素であり、酸素は粗二十一パーセント。空気は窒素と酸素であるといっても過言ではない。それがなければ人間は生きていけない。否。人間だけではない。他にも多くの生物が生きていけない。そしてまた、そのような当たり前のことを毎日気にしながら生活している人は多くない。
都内にある自宅マンション寝室のベッドで私は目を覚ました。厚手のカーテンの合わせ目から漏れる朝陽によって、自然と目が覚めたのであればどんなに気分の良いことだろう。 だが、生憎違った。その理由は少し重い玄関扉の閉まる音が耳に届いたからだった。
大きな体躯の彼に合わせて購入したキングサイズダブルベッド。昨晩、横たわった視界には見慣れた顔があった。その横顔は、以前感じていた安心感というものはなく何の思いも抱くことのない見慣れた横顔だった。
ぱちりと音が鳴りそうな勢いで目をひらいた私の視界には、昨晩の横顔は見当たらず壁に備え付けられたクローゼットの白い無垢な扉が見えるだけだった。
心臓がキュッと締まった。
ローボードの上の小振りな置時計を見た。午前四時三十分。太陽が顔を出すほんの少し前の青白く淡い光が絶え間なく廻る秒針を照らし、私の深層にある憂虞を剥き出しにすると同時に、下腹部から心臓に至るまでを締め上げた。
ふかふかと熱を蓄えたベッドからするりと抜け出し寝室の扉を一瞬躊躇いながら開ける。開け広げられた扉の向こうに彼がいることを祈りながら――
――昨晩夢を見た。怖い夢というよりも寂しい夢だったと思う。
普段、私は家事の一切をやらない。お互いに働いていて早く帰った方が食事を作るという約束をしたのに。
大抵、私が帰ると食事が出来ていて温かいものは帰宅してから作ってくれる。下ごしらえは終わっているから十分か十五分で「いただきます」と言えるように毎回なっていた。
なのに私が先に帰ったときは、まずソファーに座り寛ぐ。ふーっと大きく息を吐きだした時には根が生えてしまって立ち上がることができない。そうしているうちに彼が帰宅して「疲れているみたいだから俺が作るよ」と言って夕飯を作ってくれた。
土日の休みというと、眠い目を擦りながら起きたときには掃除も洗濯も終わっていて彼は朝食の準備をしていることが多かった。それが日常となり、当たり前のことのように毎日が過ぎていく。いつの間にか私は家事のすべてをやらなくなっていた。
――朝起きると彼はいなかった。無垢のテーブルの上に一枚の用紙だけを残して静かに消えていた。なのに、いなくなった彼を探すこともなく、私はいつものように会社に行き夕刻に帰って来た。それがルーティーンだったから何も考えずにそうした。
帰宅してからソファーに腰を下ろそうとしたが、いつものように立てなくなってしまうと思い直し座らずに台所へと向かう。
つらい。身体が重い。なんで疲れて帰って来たのに食事を作らなければいけないのだろうと不満ばかりが胸を突いた。誰かが作ってくれればいいのにと思った。けれど作らなければ食べられない。仕方なく途中で買った食材を調理しよう重い足を引きずっていった。
この手に持っている肉の名前なんだっけ。知っている。絶対に知っている。だけどわからない。なんでだろう。
私は無意識に彼の名前を呼び肉の名前を訊いた。
返事がなかったのでもう一度大きな声で訊いた。
だけど返事は返ってこなかった。
静かな室内に冷蔵庫のサーモスタットが入る音がした――
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扉を開けるとリビングに併設してある向かい合わせのキッチンに立つ彼がいた。カウンター越しの換気扇の下で菜箸を左手に握っている。その姿を目の当たりにした私の体は、玄関扉の乾いた音に憂虞して緊張していた筋肉を一気に弛緩させた。寝室出入り口のドアパネルに手を掛けていなければその場にへたり込んでしまうくらいに。
「おはよう」
横目でチラリとこちらを見てフライパンを細かく揺すりながら菜箸を動かす彼。横顔の口端が微かに上がっているのを見て、私はこの時この瞬間の何とも言えないあたたかな空気はどんな成分で構成されているのだろうと思った。
「おはよう」
私は挨拶の返事をした。彼の顔がこちらに向く。口端が上がっているのが正面から見えた。
「いままで、ごめんなさい」
一言私は彼に聞こえないように、小さな声で言った。
- FIN -