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「そうだ、窪田さんは、WBCって何の略かご存知ですか?」
今日の市民講座で習ったばっかりなんですよ、と胸を張る。
「あれだろう、ほら、野球の世界大会。ワールド・ベースボール・なんちゃら。あれ、ボクシングにもあったっけねえ」
「野球もボクシングもそうですけど、ほかにもあるんですって。白血球で、ホワイト・ブラッド・セル。ほら、健康診断の血液検査の紙なんかに書いてある」
なるほどねえ、と窪田さんは頷く。このときの声の調子はやわらかで心地よくて、聞いていていつも嬉しくなる。
そうそう、と窪田さんは何か思いついたようにほのかな笑みを浮かべる。
「上村さんはSHRってわかるかい?」
「えーと……なんだろう。シングルヒットランナー? なんて言わないか。SH、R……S、HR、でソロホームラン? あ、サヨナラホームランもいけますね。なんだか野球ばっかりですけど」
「うん、野球とは関係ないねえ。うちの孫にはショートホームルームだって言われたけど」
「うわ、忘れてた。お孫さんって中学生でしたっけ。そういえばこの前、っていっても夏ですけど、高校の同窓会で誰かが教室のことホームルームって呼んでるの聞いて、懐かしいはずなのにすごく新鮮な感じがして、死角を突かれたみたいな感じだったんですよね」
毎朝のサヨナラホームランとは、なかなかにドラマチックな時間割である。
「それで、本当はなんなんですか?」
ふふ、と笑みをこぼして窪田さんはジャンパーの片袖をぱらりと広げる。
「そっか、シルバー・ヒューマン・リソース」
「それがねえ、シルバーじゃなくてシニアなんだよ」
「え、引っ掛けですか」
「なんでも英語では年寄りのことはシルバーっていわないらしいねえ」
でも確かロマンスグレイは英語でシルバーフォックスでしたよ、と記憶から拾ってみると、襟巻きにでもされそうな呼び方だねえ、と窪田さんは首を竦めて苦笑した。
「そういえば待ち合わせしてるんですけど、それらしい車見かけてませんか?」
「さあ、ぐるぐる回ってるのなら何台かいるけど、違うかねえ。上村さんのお兄さんの車だったら、たぶんわかると思うけど」
うちの兄さんは、私が通勤にバスを使うようになると帰りは時間が合ったら車で拾ってくれる。高校時代は冬だけバスの定期券を買っていたものだが、今は兄さんを当てにしている部分もあって回数券を利用している。
「いえ、今日は兄じゃなくて」
「上村さんの、イイヒトかい?」
良い人、ではなく、好い男、の色気を含ませて窪田さんはイイヒトと口にする。こんな恰好をしていてその選択肢がまず出てこないのはなぜなんだろう。
「違いますよ。叔父と馴染みの乾物屋に行くんです」
きっちりと訂正しておく。
「お歳暮を選ばなきゃいけないんですよ。選ぶと言っても、毎年似たようなものになるんですけどね」
「ああ、もうそんな時期だねえ。どうもね、勤めを辞めてからそういうのに縁が薄くなって」
「そんな時期といえば、駐車場いっぱいですね。今日って何かありましたっけ?」
「ホールさんで第九のリハーサルがあるんだよ」
ホールさん、とは市民ホールのことで、市民プラザ市民ホール市民公園、と市民権を主張する公共施設が並んでいるこの区画の職員特有の呼び方だ。
ちなみに、ごく近くに県民ホールはあるわ駅前ショッピングプラザはあるわ、ただでさえ善良な市民の混乱を引き起こしているので、あくまで略称は仲間内だけのものである。
「ああ、そうか。リハーサルでこれなら本番は大変ですね」
「本番は臨時バスも出るし、これよりちょっと多いくらいかねえ」
そうなんですか、と他人事のように相槌を打つ。
実際市民プラザ職員の私にとって、年末のベートーヴェン第九番交響曲演奏会は他人事である。将来市民ホールへの異動があれば話は別だが。
「プラザさんが大変なのは、確定申告だよ。駐車場だけじゃなくて、道路も整理が必要なくらいだからねえ」
「第九より混むんですか?」
確定申告は市民プラザが受付会場のひとつとして指定されている。といっても、対応する専門の職員の方は来ていただけるので、流れが滞らないように協力するくらいだ。
「ああ、上村さんは今年入ったんだっけねえ。ほら、最後の週なんか特に車の出入りは激しいし、みんな切羽詰まってるからねえ」
「覚悟しておきます」
演奏と合唱も市民なら観客も市民と言う第九よりも混雑するとは、確定申告は末恐ろしいものだ。
「ああでも、その前に成人式があったっけねえ」
「成人式ですか? 実際の人数としてはそんなに多くないですよね」
成人式は、集まってせいぜい中学校一学年の人数だ。中学校全体に保護者を加えた合唱コンクールが収められる市民ホールに何を恐れることがあるのか、と成人式で控室とソフトドリンク提供予定の市民プラザ職員として訝しむ。
「みんな動きにくい晴れ着姿だし、送り迎えが同じ時間に集中するからねえ」
「振袖火事ならぬ振袖渋滞ですか。大変なんでしょうね」
またしても他人事のような私の感想に、あれ、上村さんのときは、と言いかけて窪田さんは小首を傾げる。
「上村さんはまだ二十前だったっけねえ」
成人式に出ていない、ではなく成人していないという選択肢がまず出てくるのはなぜなんだろう。