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斬撃の衝動

 外の空気はひんやりとした厳しさを増していた。

 主人の帰りを大人しく待っていた愛馬に近寄り、寒さに負けない暖かみを持った鼻筋の毛並みをさすった。酒店の磨り窓から漏れる淡い光が、馬の黒い瞳を煌めかせている。優しい愛撫にリュートも嬉しそうに顔を揺らし、マルトーの頬に自分の頬をすりつけてくる。マルトーは愛馬が満足するまで好きなようにさせていると、突然腹の奥から衝動的に嗚咽が込み上げてきた。

 泣いちゃ駄目、泣いたら駄目。

 口元を両手で覆い、感情を必死に抑えながら、何度も自分に言い聞かせる。自分がなぜ泣きたいのか、その理由さえ心の奥底に置かれた深い井戸の底へと押し込めようとした。

 マルトーは涙を流すまいと幼い頃に決めていた。

 泣くことは決して有意な感情では無いと信じ、どんなに辛く苦しい時期でも、今までその決意が揺らいだ事はなかった。今更、何故涙に唇を震わせなくてはならないのか。

 猛りに身を委ねて無謀な行動へ走ろうとする友を止めることもできない自分の未熟さ、無力さを思い知らされたからか。

 それとももっと大事な、幼い頃からの友人と袂を分かち、道を別にしたことが悔しかったのか。あの暖かい手を握り返すことがもうできないからなのか。

 大丈夫、時間が経てば君が心配している問題は解決するよ。

 これは誰の言葉だったろう。いつ言われた言葉だったろう。

 もう一度だけ、この暖かい言葉を聞きたかった。自分を安心させて欲しかった。けれども、朗らかに自分を見守ってくれていた、太陽のような幼馴染みの青年はもう目の前に現れない。愕然とした諦念が、満ち潮のように心を埋め尽くしていく。

 潤む目で空を見上げると、月が美しい弧を描いて浮かんでいた。巡察使の旅の間、野営の焚き火を囲みながら見上げた月は、自分を励ましてくれているように見えたものだ。

 今は遠く、寒々しい態度で、自分を見下している。

 いずれにしても、自分のこんな情けない姿を誰にも見せられないという一心で、マルトーは柱に結ばれていた手綱を解いた。すぐにこの場を離れたかった。家に帰りたかった。

 固く結んだ太い紐が細い丸太棒から離れた時、背後に人の立つ気配がした。

 振り返ると、銀髪の女性が立っていた。背光になった窓の橙色が、女性の髪の毛を照らす。彼女の表情は影になって見えなかった。

「まだ、何か?」

 声を抑え、警戒を露わにして問い質した。

 自然と身が固くなっていく。身を固くさせるだけの刺々しい雰囲気を、女性は闇に覆われた褐色の肌の裡から醸し出していた。

「ここで貴方を自由にさせては、隊長にとっても我々同志にとっても望ましくない影響があると判断しました」

 平淡な声だった。

 漆黒の中に浮かび上がった双眸にも迷っている色は無い。彼女の腕が腰から良く鍛えられた細剣をすらりと抜き取った。

「死んで下さい。今、この場で」

 切っ先がマルトーの顎に向けられた。刀身から躯の体幹まで、歪みのない真っ直ぐな直線が描かれている。決然とした意志が、常夜灯の淡い明かりに煌めく剣に走った。

 マルトーはゆっくりと息を吸い、そして吐いた。

 こめかみがひやりとする。

 女性の気配を察した時から、抑えきれない獰猛な炎が、腹の中で格段に大きくなってきているのを感じていた。

「それは、ギムナスの指示ですか?」

 刃向かう素振りも見せず、切尖に向かって一歩近づいた。顎と細剣までの距離はほとんど無い。もう一歩でも近づくとマルトーの肌が切り裂かれる。それでも女性の剣は揺れることが無かった。眉が訝しげに動いただけだ。

「いえ、これは私の一存です」

「そうですか。ならば」

 刃に吐息を吹きかけながら、マルトーは微笑んで見せた。

 満面の、どんな花の華麗さにも負けない、優雅で、繊細で、そして残虐な、自分の感情を全てぶつけた笑みだ。理性を激情にやつし、衝動に身を委ねた己の本心。

 今のマルトーの意志、マルトーの望みだ。

「ならば、抵抗します!」

 一瞬の閃光だった。火花が散り、甲高い金属音を聞いた時には銀髪の女性の剣が大きく跳ね上がっていた。驚きで目を見開く彼女の顔が見える。マルトーの右手には既に細剣が握られており、相手を貫くために、素早く次の動作に移っている。横に流れた剣を上段に構え、獣じみた咆吼と共に峻烈に落とす。

 迷いの無い一撃。

 敵も躊躇わず後ろに跳んだ。銀色の前髪が数条、風に漂って消えた。

 すぐに体勢を立て直した敵は細剣を寝かせ、足の位置を細かく変えながら素早い突きを見舞ってくる。マルトーはその一閃一閃を剣の腹で受け流し、攻撃の間の隙を見つけると再び上段から剣を振り下ろした。今度は躯を半身に逸らされた。完全に前のめりになったマルトーの横腹ががら空きになる。横目に見えた敵の顔はまさに山岳の狩人だった。感情を表にださず、雪にひそみ寒さに耐えて獲物を狩る、目的に徹底した行動者の引き締まった顔だった。狩人は好機を見逃さず、獲物目がけて残酷に剣を薙ぎ払ってくる。

 空気を割る音が聞こえた。銀色の輝きに目を奪われる。

 間一髪、マルトーは本能で躯を前方に投げ出し、これを躱した。

 さらに二度、三度と躯を回転させて距離を取る。片膝を立てて顔を上げると、武器を構えた狩人がもう目の前にいた。頭を狙った瞬撃を、水平にした剣の腹で防ぐ。鈍い音が響く。細剣を細剣で受け止めただけのはずなのに、岩石を落とされた程の衝撃があった。

 女性の剣は東方辺境で本物の戦乱を味わっている。こちらだって何度となく賊と戦っているが、彼女の剣が吸い込んだ血の量の分だけ、自分の剣と差があるようにマルトーには思えた。

 上から押し潰そうとする力と、下から押し返そうとする力の、不均等な拮抗が続く。マルトーは押し潰されまいと歯を食いしばって耐えた。だがじわりじわりと不利が明らかになってくる。張っていた肘が曲がり、腕全体が激しく震える。怜悧な刃が額に届こうとしている。剣は軋み、膝が大地に食い込む。圧力が骨にまで届き、躯の中から悲鳴が上がる。

 強い。

 マルトーは焦りながらも、素直に感嘆した。確実に追い詰められている中で、どうしたら良いのか、どうすれば危機を逃れられるのか、全く分からなかった。ここで死ぬのか。脳裏を掠めた考えに、マルトーは憤然とした。

 諦めてたまるか。こんなところで。

 まだ為すべきことがあるのに!

 マルトーがもう一度渾身の力を剣に込めた時、大地が揺れる音がした。いや、それは大地を叩く音。規則正しく、忙しなく、大地を叩き、それは近づいてくる。マルトーも、銀髪の騎士も、同時にその方向へと目を向けた。

 目の前に現れたのは白い大きな塊だった。激しい嘶きと共に、逞しい前肢が轟然と銀髪の頭部を目がけて振り下ろされる。

 紐を解かれたままのリュートが主の窮境に及んで放った、捨て身の一撃だ。

 突然の加勢に騎士は驚きを隠さなかったが、あわやの瞬間に身を捩って馬蹄を躱した。命を失うには充分な威力のある白い馬脚が、鼻先を掠めていく。

 狩人の圧迫が弛んだ瞬間をマルトーは見逃さなかった。剣を横薙ぎに払うと、全身を相手の懐に投げ出す。重心を相手に預け、二人は揃って地面に倒れ込んだ。マルトーが慌てて身体を起こすと、相手の腹に乗ったまま剣を下に向けて無我夢中に突き刺した。固い感触が剣の柄に響く。だが、血飛沫は上がらない。敵は首を捻って切尖を避けていた。剣は、首の肌をほんの少しだけ裂いただけで、残りの刃は踏み固められた街路へと突き刺さっていた。

 逃げる間も無く手が伸びてきた。褐色の指が獣の牙のようにマルトーの首をしっかりと捉える。五本の鋭い爪が、喉を食い千切らんとして蠢く。血管にまでじわじわ食い込んだ獰猛な指先は、行為とは裏腹にひんやりとしていて、金属よりも冷たい。しかし、込められた力には、離すまいとする凄惨な執念が籠もっていた。

 マルトーが剣の柄を横に倒せば、細剣は銀髪の騎士の首を刎ねることが出来る。だが、力を細剣に込めると同時に、マルトーの喉が砕かれるのは確実だった。二人は粗い息のまま、動けなくなった。 動いた瞬間が、互いの死だ。

「はい! そこまでね」

 不意に手を叩く音が響き、飄々とした声が届いた。

 反射的に組み合っていた二人の力が弛む。声の方へと目を向けると、暗がりの中、頬傷の男が相変わらずのにやけ顔で、馬留めの柱に背中を預けて立っていた。

「二人ともそこで終了。はい、終わり。お互い離れて。マルトー嬢は剣を納めてね。ラズゥはその狂暴な腕をさっさと引っ込めてくれ」

「ウェッタ! 余計な手出しをしないで下さい!」

「余計な手出しをしているのは君だろ、ラズゥ。ギムナスにもゲッベンにも言わずに勝手に行動するなんて。独断が過ぎると思わないのかい?」

 名前を呼ばれた銀髪の女騎士は、諭すような男の声に顔を歪ませ、渋々と首から手を離し、緩慢に腕を降ろした。

 マルトーもそれに応えるようにゆっくりと剣を地面から抜き、立ちあがって彼女の上から退いた。

 息を整えているマルトーに、背後からリュートが近づき、心配そうに頬をすり寄せた。安心させるように優しく叩いてやると、命の恩人である賢馬は二度、勢いよく息を吹いた。

 ラズゥは転がっていた自分の剣を拾い上げ、ウェッタという名の騎士の横に並び、殺し損ねた獲物とその窮地を救った愛馬を眺めた。獲物は穏やかな表情で馬の首筋を撫でている。無念さの滲んだ顔をウェッタに向け、憮然としながら口を開いた。

「いつからそこに?」

「全部見てたよ。君が出て行ってすぐに追いかけたんだから。周囲の気配に気がつかないなんて、君らしくないね」

「全くです。自分に呆れています」

「感情に囚われると、早死にするよ」

 ラズゥはウェッタの微笑に何も応えず、足早に酒店へと立ち去っていった。

 颯爽としたラズゥの後ろ姿を、マルトーは視界の端に捉えていた。

 彼女とウェッタの会話も聞こえていた。ふと、頬に痒みを覚えて触れてみると、指先に赤い血がこびり付いた。ラズゥの一突きが掠っていたのだろう。幸いにして傷は浅いが、胸中では底知れぬ恐れが溢れてきた。

 ラズゥの剣は、普段よりも鈍っていたのではないだろうか。

 それは推測ではなく、確信だった。

 彼女は感情に囚われていた。だからこそ、自分の未熟な腕でも戦えていたのではないか。そして、戦いに集中していたとはいえ、二人の騎士に存在を気づかせなかった、ウェッタの滑るような動き。彼も紛う事なき、戦士、だ。

 ウェッタはぞんざいな足取りで近づいてきた。ゆらゆらと揺れる躯のどこにも隙が見当たらないように思える。目の前で立ち止まった頬傷の男と対峙して、今更ながらに、自分は生き延びたのではなく、殺されずに済んだだけ、ということを思い知らされた。

「あのラズゥを相手にして一歩も引かないのだから、流石はギムナスが見込んだだけの逸材だね。大元帥閣下の血筋かな」

「いえ、この仔がいなければ、私は死んでいました」

 抑揚のない声でマルトーは答えた。

「馬と心を通わすのも一流騎士の証拠だよ。その馬の一撃は君の実力がもたらした成果だ」

 ウェッタは顎をなで回しながら、静寂に満ちた夜に不釣り合いの陽気な声を出した。

「ラズゥには言い聞かせておくから、今夜の事は全て忘れてくれ。君が僕らの道に立ち塞がらない限り、君に危害は加えないよ」

 立ち塞がらない限り、か。マルトーは首を振った。

「もとより、忘れると言ったはずです」

 乱暴気味に言い放ち、勢いよく鞍に跨った。

「あ、ねえ、ちょっと聞いてもいいかな?」

 ウェッタは片手を肩の高さまで上げ、導師に問いかける幼年学校の学徒のような、興味に光る瞳を浮かべた。

「まだ、何か?」

「ラズゥに向かってさ、君はギムナスの指示かどうかを確認したよね? 僕はそこから見ていたんだ」

「それが何です?」

「もし、ギムナスが君を排除するつもりだったら、君は大人しく命を差し出したのかな?」

 マルトーはゆっくりと目を細めた。

 無言のまま鐙を蹴ると、リュートは大きな嘶きと共に四肢を勇躍させ、騎手の意志のまま脚を早めていく。酒場の路地から出て常夜灯に照らされた街路を進む。クヴェレーヌ広場まで辿り着くと、後の道筋はリュートへの指示も不必要となる。賢き馬は、自分の帰るべき家を、美しい漆黒の瞳の中に刻み込んでいてくれている。

 鞍上のマルトーは、ひどく乾いていた。

 何故。どうして。疑問ばかりが頭を巡っている。

 ギムナスはどうして変貌してしまったのだろうか。ギムナスは父アントンを見限ってしまったのだろうか。

 どうしたら良いのだろうか。

 どうすればギムナスを止められるのか。

 とにかく今は父に会わなくては。マルトーの中で決心できたのはその一点だった。例え父が帰宅していなくても、王城の元帥府執務室を訪問してでも訴え無くては。

 会ってどうするのか?

 ギムナス達の事を告げ、彼らの危険性と排除を訴えるのか?

 それとも、ギムナス達の要求通りに父を叱咤し、改革への決意を促すのか?

 どちらも出来る気がしない。

 前者は彼らとの会話を「忘れる」という約束を破ることになるし、後者は既に改革の達成のために尽力している父を侮辱することになる。何を父に話せば良いのか分からない。それでも、父とギムナス、二人の関係が完全に断絶し、いがみ合う姿は見たくない。

 そうならないためにとにかく行動したかった。

 必死で何をすべきか考えている間に、ふと思い出した。ギムナスは昼に父と面会したと言っていた。それならば父もギムナスの存在や、その考え方も察しているはず。

 きっと父にも何かの考えはあるはずだ。

 期待を抱き、踵を軽くリュートの腹にあて、先を急がせた。

 家が近くなるにつれて、期待は大きく膨らんでいく。逸る気持ちを必死に抑え込みながら手綱を握った。冷たい風が吹きすさぶ道の上で、手が汗ばむのを感じた。

 自宅に戻ったマルトーを玄関で出迎えたのは、厳めしい表情のモンドレットだった。叙任を祝う言葉もそこそこに、アントンが帰宅していることを告げた。

「執務室でお嬢様をお待ちです。なにやらお話があるご様子で」

 モンドレットの低い声に、マルトーは息を呑んだ。

 父が家にいる。

 そして、私を待っている。

 マルトーは慄然とした。

 父に直接会って話す絶好の機会。だが、余りにも間が良すぎる。

 単純に考えれば、娘の叙任を祝うために多忙な執務を縫って家に帰ってきてくれたのだろう。だが、モンドレットの声は、そんな単純なものではなさそうだ、と言外に伝えている。

 自分が誰と会ってきたのかを、帝国大元帥たる父は知っているのではないだろうか。

 どうせ遅かれ早かれ、父には話さなければいけないことだ。

 マルトーは覚悟を決め、重い足を引きずるようにして、階段に向けて歩き出した。

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