ギムナス・アールセン
誇らしげに髭を伸ばした猫が一匹、内務司庁の玄関口から続く階段に座り込む一人の男に忍び寄った。それまで空を見上げて調子の外れた歌を口ずさんでいた男は、珍客の背後からの来訪にも目敏く気がつき、先手を打って指を伸ばし、喉を転がしてやった。猫は男の優しい指先を気持ち良く受け入れ、か細い鳴き声を嬉しそうに零した。
しばらく男が猫と戯れていると、また一匹猫が近づいてきた。男は最初の猫を膝の上に抱き、新しい客の相手をしてやった。この猫もまた愛嬌たっぷりの声を震わせた。楕円形の目を一杯に広げると、艶やかな声で鳴く。
また猫がやってきた。今まで相手していた猫を肩の上に置き、男は新しい訪問客の受け入れにかかった。
また猫がやってきた。今度は頭の上に猫を置き、空いた手を新しい猫に向けた。
また猫がやってきた。
また猫がやってきた。
また猫がやってきた。
道行く人々や、建物を出入りする人々に奇異な視線を向けられるのも構わず、男は猫の大群と一つの固まりになった。
「お前、動物使いの大道芸人にでもなるつもりか」
背中から棘のある声が響いた。男は頭の上の猫を落とさないように慎重に振り向き、頬を撓ませた。
「可愛いだろ? こいつら、俺に懐いちゃってさ」
猫の巣と化したクラースヌイは甘ったるい声を出して、自分の赤い髪の上で体を丸くしている猫の毛並みに指を沈めた。
「猫に鼻の下を伸ばす帝国騎士があるか、この馬鹿」
ウィットゥは呆れた表情でクラースヌイの隣に進み、頭の上で得意げに丸まっていた猫の首をひょいと持ち上げた。
灰色の毛並みに気品さえ感じさせるこの猫は、乱暴な扱いに抗議し、尖った爪でウィットゥの手を僅かに切り裂いた。痛みに顔を顰めたウィットゥが猫を落とすと、猫は他の猫達と共に蜘蛛の子を散らす勢いで逃げ出した。
クラースヌイは慌てて立ち上がって追いかけようとしたが、すぐに猫の姿は一匹も見えなくなった。嘆息にも似た声が漏れる。
「何てことするんだよ。可哀相に、怯えて逃げ出しちゃったじゃないか」
「見事な一撃を残していってな」
白い肌に赤い線がくっきり浮き出た手を軽く振りつつウィットゥは、油断した、と舌打ちをし、クラースヌイをにらみつけた。
「お前の配属先はどこだ? 通達があったろう」
「俺は近衛兵団で帝都勤務らしいよ。しかも本部詰めの警備」
「クラースヌイほどのお調子者でお気楽者を本部の警備に当てるなんて、近衛兵団もよほど人材が不足しているんだろうな」
「そういうお前は?」
「同じく帝都勤務。河岸警備隊だ」
「河岸警備? お前らしい辛気くさい部隊じゃないか。行く船来る船にいちいち難癖つけるんだろう」
「帝都の治安を守る最前線だ。お前みたいな閑職じゃない」
ウィットゥは極めて冷静に、冷徹にクラースヌイをあしらった。
二人が配属された帝都勤務は、まず優秀さを認められたものとみて良い結果だった。
ウィットゥが配属された《河岸警備隊》は王城のすぐ東を流れる氷姫河の船着き場の警備を担当する。氷姫河は大威山嶺を源泉としており、東方辺境から山を越えてきた数多くの人と物が河を下って船で運ばれてくる。東の船着き場は帝都にとって南大門と並ぶ交通の要衝であり、重要警備区域だ。
一方のクラースヌイは本部詰めと呼ばれる、近衛兵団本部警衛隊に配属された。治安を預かる組織の中枢の警備とあって、こちらも重要な任務だ。
「お互い帝都勤務とは、腐れ縁もなかなか切れそうにないな」
「こっちはいつ切っても良いんだが、運命は中々思うとおりにならんものだ」
全くだ、とクラースヌイは笑った。
「後はお姫様の行き先だな」
「誰がお姫様だって?」
投げかけられた声に二人が驚いて振り返ると、そこには内務司庁から出てきたばかりのマルトー・ラグラスが立っていた。黒い帝国騎士団の制服の胸には白い花の飾りが留めてある。
「私も無事に近衛兵団への配属が決まった。第一師団だ」
「第一師団!」
二人は声を揃え、視線をぶつけ合った。
「第一師団といえば、帝都に駐屯する主力部隊じゃないですか!」
クラースヌイの声に、ウィットゥは耳を塞ぎながらも頷いた。二人の驚嘆を、マルトーは浮かない表情で受け止めた。
「これが、自分の実力を評価されてのことであればいいのだが」
マルトーの張りのない声に、二人は再び顔を見合わせた。
「マルトー様はご自分を過小評価しているようです」
「我々はマルトー様の第一師団配属になんら疑念を持ちませんよ」
「ありがとう。そう言ってもらえると、僅かでも気が休まる」
騎士叙任の式典が終わったこの日、揃って胸に白い花飾りを添えた三人は晴れて帝国騎士となった。マルトーが帝都に帰城してから二十日ばかり経った頃で、空には幾重にも連なる薄雲が垂れ下がり、風の冷たさが一層厳しさを増した時節となっていた。
三人だけでは無い。総勢二十一名の若者が帝国騎士として叙任を受け、近衛兵団の兵士もしくは官吏として、帝国への忠義を果たす義務が与えられた。若者達は王城での叙任式典に出席し、血判が押された誓文を提出した。幼帝の名代として戦場から帰還したばかりの皇族将軍、ウィンドルフ大公ジルフェンが新任の騎士達に訓辞を送り、叙任式典は短く終わった。大元帥ラグラスも式典に出席していたが、大公の横に座するだけで言葉は何もなかった。
式典の後、新人騎士達は王城から内務司庁へと移動し、ここでそれぞれの配属先を通達された。三人は今まさに近衛兵団への入営と帝都勤務の内示、そして所属を示す紋章石を受け取ったところだ。
「いやしかし、大公殿下の迫力は凄かったですね。戦わずして勝つと謳われる英傑公の噂に偽り無しだ」
憂鬱な雰囲気を払拭するように、いきなりクラースヌイが大声を出した。ウィットゥもその言葉に乗って頷く。
ウィンドルフ大公家は皇族の中でも特に尚武の家名で名高く、帝国騎士ならば誰もが敬意を抱く家柄だ。その当主であるジルフェンは英傑公の尊称を持ち、臣民からも厚く慕われている。マルトーもその例に漏れず、壮麗な雰囲気を身にまとった皇族将軍の訓辞を真剣に聞き入った。クラースヌイに至っては、大公の姿を見ただけで褐色の肌を興奮させて、目を輝かせていた。
「ウィンドルフ大公が率いる部隊は鉄騎師団という名前でしたっけ。東方辺境でも無類の強さを誇っていると聞きますよね」
「近衛兵団の中の精鋭集団《親衛隊》から更に優秀な騎士を選りすぐっているのだ。強いのも当たり前だろう」
マルトーは階段を下りながらクラースヌイに応えた。紋章石が填められたばかりの剣の柄に手を伸ばす。
「我々も早く認められて、親衛隊や鉄騎師団に選ばれるような身になりたいものだな」
「マルトー様ならなれますよ。期待してます」
クラースヌイの晴れるような笑顔を見て、「簡単に期待などするな」とマルトーは呆れ返ってしまった。
「今夜の祝賀会ですが、マルトー様は出席されるのですか?」
ウィットゥの問いかけにマルトーは躊躇いもなく頷いた。三人の足はすでに階段を下りて、思い思いの場所に向かう手前だ。
「当然だろう。我々は祝ってもらう立場なのだから、出席せねば先輩方に失礼に当たる」
「では今度こそ、麗しい装いで来場下さるのですよね」
「何故そうなるのだ」
クラースヌイの勢い余る問いにマルトーは顔を顰めた。
「祝賀会にはご婦人方が多数来場し、会場は百花繚乱咲き乱れると聞いております。その中に是非マルトー・ラグラスという名の香しく美しい花を添えたいんですよ」
クラースヌイは恥ずかしげも無く言い切った。
「クラースヌイが花を愛でる趣味があったとは知らなかった。だが、残念ながら私は花では無いぞ」
「まぁ、花よりも美しいかも知れませんね」
「ウィットゥまで何故乗ってくるんだ」
マルトーは二人の戯言に頭が痛くなった。
「今回は帝国騎士の一員に加えられたことを祝福して頂くのだから、私は騎士の礼服を着る。何ら間違いではないだろう?」
「いや、マルトー様は女性の礼服を着飾った方が、人々の注目を集めますよ」
「集めたくもない」
クラースヌイの進言をマルトーは素気なく却下した。
「自分の働きで人の賞賛を浴びるのならば喜びもするが、容姿のみで判断されたところで、自分にとって何の得になるというのだ」
「全くですな。そもそも、戦場を駆けめぐる男装の麗人の方が吟遊詩人は喜びます。単に着飾った女性なんてありきたりで面白くもないでしょうね」
「それも違うだろうが」
澄まし顔のウィットゥをきつく睨んだが、能面を保つ男には何の効果も無かったようで、抗議も面倒になりマルトーは空を仰いで深々と息を吐いた。
「私はお前達の期待には応えないぞ」
マルトーの赤ら顔に疲れ果てた口調を聞き、クラースヌイとウィットゥはお互いを見やった。
やり過ぎたか?とクラースヌイはウィットゥに無言で尋ね、ウィットゥは肩をすくめて応えた。
「何はともあれ、マルトー様。今夜会場でお会いするのを楽しみにしています」
「我々は今夜の礼服を受け取りに仕立て屋へと参りますので、お先に失礼しますよ」
二人は早々とマルトーの目の前から姿を消した。
置いてけぼりとなったマルトーは自分も一度自宅に戻ることを決め、内務司庁から立ち去ろうとした時、後ろから自分を呼ぶ声が聞こえた。最初は空耳とも思ったが、その声ははっきりと近づいてきた。
「マルトー、マルトー・ラグラスだろ?」
振り返ると声の主はすぐに見つかった。内務司庁の玄関から、帝国騎士の簡素な制服に身を包んだ金髪の青年が駆け寄ってきた。
「ギムナス!」
マルトーは思いもかけない人物との再会に声を高くした。青年はマルトーのすぐ前まで、溢れんばかりの笑みを一杯に広げて近づいてきた。
「良かった。五年ぶりだったから見間違えたかと思って、声をかけるのがちょっと不安だったんだ」
息も声も弾んでいる。青年の嬉しくて仕方ない、という感情が直截にマルトーへと伝わってきた。
「すっかり大きくなって。今日の叙任式で正式な騎士になったんだろう? おめでとう」
ギムナスはマルトーの顔から足先まで眺めて、目を細めた。
「あの小さかったマルトーお嬢さんが立派な帝国騎士になっているなんて、思ってもみなかったよ」
「ギムナスがどうして帝都に? 東方辺境の軍令にいると思っていたのに」
「軍令で働いていたなんて二年も前の話じゃないか。今はウィンドルフ大公の部隊に在籍しているんだ。鉄騎師団って聞いたことないかな」
目を丸くするマルトーに、ギムナスは首から下げている紋章石をを取って見せた。剣の柄に填める石とはまた別の、特別な部隊に所属していることを証明する石だ。そこには二本の大剣に挟まれた狼が彫り込まれていた。皇族将軍直属の部隊にして最強の兵団、《鉄騎師団》の証である。鈍く光る紋章石の赤銅色はギムナスが鉄騎師団の中でも将校の一人として位置していることを雄弁に物語っていた。
「突然、元帥府から帰還命令が出たんで大公に従って帰城したんだ。戦場じゃ最強の鉄騎師団の兵士達が、今日から帝都で事務労働さ」
彼の明るく、そして時々頼りない笑顔と快活な喋り方は初めて会った頃から全く変わりなかった。
ギムナス・アールセンはかつて元帥アントン・ラグラスの専属下士官として、マルトーの身近にいた青年だ。ラグラス家の館を何度も訪れ、幼年学校に通っていたマルトーの話し相手や遊び相手になることもあった。幼いマルトーは自分を対等に扱ってくれる十も年上の青年を好ましく思い、良く懐いていた。マルトーが高等法院に入学する直前に、東方辺境のカリモナ軍令に小隊長として配属され、それから実に五年ぶりの再会となる。
「昨日の内にアントン閣下にはご挨拶申し上げたのだけど、屋敷じゃ何も話して下さらなかったのかい?」
マルトーは首を横に振った。
「父にはしばらく会えてないの。今日の式典でも、目すら合うことがなかったわ」
マルトーが帝都に帰ってからもう幾日も経っているというのに、アントン・ラグラスは王城からなかなか家へと帰宅しなかった。マルトーが王城に出向けば会うことも叶うかも知れないが、元帥の執務室は一介の新人騎士が立ち入ることなんてできない場所だ。今日の式典でも、こちらは父の姿を捉えていたが、向こうは硬い表情のままこちらに一瞥すらしなかった。もはやマルトーが父親と対面するためには、父親が家に帰ってくるか、王城の執務室に自分を呼び出すかを待つしかなさそうだ。
マルトーの表情に影が差したのを見て、ギムナスは「そうか」と簡単に頷いた後、すぐに明るい声を出した。
「もし今時間があるのなら軽く食事でもしないか? どうせ昼食はまだなんだろ? 積もる話もあることだしさ」
「それはかまわないけれども、ギムナスの仕事は良いの?」
「大丈夫」
ギムナスは右脇に抱えていた茶色い皮の封筒を、軽々と持ち上げて見せた。
「この中に入っていた書類を内務司庁の役人さんに届ければ終わりだったからね。僕たちの部隊って戦地にいる間はとにかく休む間もなく働くんだけど、その反動で帝都にいる間はすごい暇なんだ」
ギムナスはマルトーを促して火大路を東へと歩き出した。
二人が入った店は火大路から脇道に一本入った路地にある、簡素な店構えの食堂だった。朝早くに氷姫河の水運に乗って門前市まで運ばれてくる肉や魚、野菜、穀物などを、安い値段で量も多く食べられる。下級から中級の官吏や騎士が利用している店なのだと、ギムナスは説明してくれた。愛想の良い爽やかな笑みを振りまく彼は店の人とも顔馴染みだった様子で、案内に来た給仕と久々の挨拶を交わし、給仕は店内の一番奥、窓際の席に二人を案内した。
「ここは僕が閣下のお側にいた頃から利用していたお店でね。一度だけ閣下も利用されたことがあるんだよ」
「お父様が?」
「ああ。僕が専属士官を離れる直前だったかな。昼の食事に下がろうとしたとき、君は普段どのようなところで食べているのかね、て閣下が訊ねてきたから、ここを良く利用していますって言ったんだ。そうしたら、じゃあ一度食べてみよう、って。その時の店は丁度混雑の極みで騒然とした中での食事だったのに、愉快そうに笑って料理を平らげてたよ」
喧噪の中で愉快に食事をしている父アントンの姿を、マルトーは想像できなかった。マルトーが巡察使の旅にでる前の父は相変わらずの威厳を保ち、端然とした雰囲気を常に身に纏い、隙も弛みも見せなかった。食事時も穏やかに微笑を浮かべることはあっても、愉快気に笑うことなど無い。
マルトーが帰ってきてからの父は政務に追われ、食事を一緒にすることが無いから分からないが、マルトーが旅に出ている間の父は黙々と手を動かし、痩けた顔で料理を口に運ぶだけだった、とラーニアからこっそり聞いた。
「ちょうどこの席だったな。君が座っている椅子に閣下も座っていたんだよ」
「そうなの? 何だか変な気分だわ」
「どうしてさ?」
「椅子が急に暖かくなったみたい」
マルトーは自分の座っている木製の椅子が暖かい鼓動を打ちながら、自分をやさしく抱いてくれている感覚を覚えた。マルトーを見るギムナスが笑ったので、マルトーも思わず笑った。
「お父様はその時、どんな話をしていたの?」
「もう曖昧な記憶しか残っていないけど、そうだな。閣下の戦場での失敗談とか、僕が新米だった頃の勘違いとか、くだけた話題の方が多かった気がするな。閣下は職務中でも良く冗談を言うことがあったから」
「冗談ですって?」
それはマルトーの知らない父の姿だった。ギムナスはマルトーの知らない父親の姿をたくさん知っている。それがひどく羨ましく思えてきた。父の冗談なんてどうしたら聞けるのだろうか。抱腹絶倒している父の姿を想像しようした所で、丁度良く料理が運ばれてきた。
二人の目の前に置かれたのは川魚の炙り焼きと山菜の盛り合わせ、そして山鹿肉の塩汁だった。
「閣下も器用な人だからね。家族の前ではまた違った人柄なのかな?」
器用に川魚の身を捌きながら、ギムナスは食器に手をつけようとしないマルトーに問いかけた。しかし、マルトーは応えず、逆に料理からギムナスへと視線を上げた。
「ギムナスの目には、今のお父様がどう見えて?」
「今の閣下? どう、と言われても執務の合間に少しだけ時間を割いて頂いてのご挨拶だったからなぁ」
ギムナスは料理を口に運ぶのを止めて、腕組みをして考え込んだ。
「顔色は良いとは言えなかった、かな。昔より疲労が溜まっている感じはした。年月が経っているから当然だけどね」
それに、と言いかけた所でギムナスは一度区切り、羮汁を掬って呑み込んだ。
「よほど切迫しているのは確かなようだね。鉄騎師団が帝都に呼び戻されるくらいなのだから。ほら、食べないと料理が冷えるよ。ここの料理は熱いうちが桁違いに美味いんだから」
「え、えぇ」マルトーは薦められるまま山菜に手を伸ばし、口に入れた。
美味しい、と思わず言葉が漏れた。控え目であっさりとした酸味が新鮮な歯応えの山菜そのものの味を引き立てている。一噛みするごとに味わい深くなる。マルトーの素直な反応を見て、ギムナスは子どもみたいに誇らしげに笑った。
「閣下もその山菜の盛り合わせを気に入って下さっていたよ」
「当然でしょうね。このしゃりしゃりした歯応えは父の好みですもの」
マルトーは続けて二口目、三口目を食べる。他の料理に手を伸ばそうと考えた矢先に、ふと我に返った。
「よほどの切迫って言ったけど、鉄騎師団の帰還とお父様がどんな関係にあるの?」
近衛兵団内でも最強を誇る鉄騎師団に対して帰城命令を出したのは元帥府、つまりアントン・ラグラス本人だとギムナスは言った。その事実を鑑みればアントン・ラグラスと鉄騎師団とが無関係であるはずがない。
それはマルトーにとっても明快だ。
しかし、父が鉄騎師団を呼び戻さなければならない程の切迫とは何なのか。マルトーにはその点が痼りとして喉元に支えた。数日の前、ドリから存在だけ聞いた過激な騎士達の事が脳裏に過ぎり、もやもやとした不安が去来した。
ギムナスの答えは、マルトーの心の暗雲を散らすような、明るい声だった。
「鉄騎師団が帰ってきても、その武力が閣下の周囲に直接影響を与えるような変化はないだろうね。だけど、師団の中には一人だけ力強い援軍になれる人がいるんだ。君も今日の式典で見たんじゃないかな?」
「もしかして、英傑公?」
「ご名答」
ギムナスは幼子を褒める様に手を叩いた。
「閣下にとってウィンドルフ大公は、皇族の中でも数少ない庇護者なんだ。大公家の当主が先代の頃からの関係さ。そもそも臣民出身のラグラス閣下が元帥にまで上ったのも、ウィンドルフ家の後ろ盾と、アルクィン家の強力な後押しがなければ実現していなかったと言われているんだから」
「アルクィン家って?」
「昔あった皇族の一つ。後継ぎがいなくなって断絶したけどね。君がまだ生まれる前の話だよ」
「そうなの?」
マルトーは確かにどこかで聞き覚えがある様な気がしたが、それが何時で何処だったか思い出せない。記憶を総ざらいしているマルトーの姿に、ギムナスは穏やかな微笑みを浮かべて話を先に進めた。
「貴族院の連中が閣下の改革に良い顔をしないのは君も知っているだろう?」
「ええ、伝統と前例を大事にする貴族達ね」
「そうだ。それに帝都には巨大な領地を治める権門貴族もいる。奴らと対等に渡り合うために、閣下は大公の力を必要としているんじゃないかな。あくまで僕の推測だけどね」
「推測? 事実じゃないの?」
「アントン閣下の真意は測りかねるよ。昔と違って今は閣下の専属士官ではないのだから」
でも、と口にした後、ギムナスは杯に入った水を口に含み、味わうように飲み込んだ。
「もし仮に閣下が貴族達に屈することがあったら、僕らはいつでも立ち上がるし、その覚悟も準備も出来ているつもりだ」
胸を張り堂々とした姿勢でギムナスは言い放った。余人の干渉を許さない気迫の籠もった声音だった。突然の、彼には似つかわしくない精悍な表情に、マルトーは見惚れてしまった。
「ああ、ごめん。思い出話とは全然関係ない話になっちゃったね。料理も冷めない内に口に入れなきゃ」
黙ってしまったマルトーの視線を勘違いしたのか、ギムナスは慌てて取り繕った。
それからの二人は、たわいない過去の思い出やお互いのこれまでの事を話題に興じながら、料理を口にした。ギムナスは何かを口にする度に太陽の穏やかな陽光にも似た笑みを見せた。その朗らかな微笑みは昔からマルトーを安堵させてくれる。お互いが笑う度にマルトーは嬉しくなり、心の底から食事を楽しむことができた。
食事が一通り片づいて、食後のお茶を飲んでいる時、マルトーは先ほどの会話で気になった点があったことを思い出した。
「ねえ、ギムナス。アルクィン、ていう名前が何だか気になるんだけど、どんな家だったの?」
「気になる? なんでまた?」
「思い出せそうで思い出せないの。どこかで聞いたことがあるはずなんだけど」
「そりゃ九支家にも名を連ねていた名前だからね。聞いたことはあるだろうさ」
「九支家?」
マルトーが問い返すと、ギムナスは高等法院の導師のような丁寧さで、彼女の疑問を解消してくれた。
帝国の始祖ルーヴィン・アルハイム大帝の血脈を後世に残すため、帝国初期の皇帝達は様々な努力と工夫を重ねてきた。その結果完成したのが、いずれも血統の始まりがルーヴィン大帝に行き着く皇族十三家だ。
それらは四主九支家と呼ばれる家格に分けられ、皇帝として即位する資格を有する家柄《四主家》には筆頭皇族のクラインフェルト大公家、ウィンドルフ大公家、マインツェホルン公爵家、クラウフォーベン公爵家が設置された。一方の《九支家》は四主家に跡継ぎがいなかった場合、その家の嗣子として養子を送り出すことができる資格を持つ家柄だ。運が良ければ養子に入った家から皇帝に即位する可能性もあり、実際に九支家出身の者が皇帝になった例も歴史上には残っている。
しかし、いくら思い出しても、マルトーが知っている皇族の中に、アルクィンという名は見あたらなかった。
「アルクィン家というのは元皇族九支家の男爵家。常に戦場にあって親衛隊の先頭を走る。一族は男も女も皆戦場に立つんだから、ウィンドルフ大公家よりも戦好きな血筋だったんだろうね」
「随分と過激な皇族様もいたのね」
「当主は軍神、女主人は戦女神なんて呼ばれていたんだよ」
「どうして断絶してしまったの? 養子縁組もせずに」
皇族も貴族も自分たちの血統を残すために労を厭わずに努力するものだ。後継者がいなくなれば近い血筋の家から養子を迎えるのは当然の慣例で、大帝を始祖とする尊貴第一等の血族が、あっさりと断絶している事にマルトーは不思議でならなかった。
「アルクィン家の跡取り候補は何人もいたんだけど、戦死、病死の連続で急に皆いなくなっちゃったんだよ」
「それだけで皇族の一つが消えてしまったの? 何だか納得いかないわね」
「そう言われるとそうなんだけどね」
不満げな顔でお茶を飲むマルトーに、ギムナスは顔を近づけて声を潜めた。
「アルクィン家の断絶に関しては色々噂が流れているんだ」
「噂?」
「そう、あんまり聞いても楽しくない、黒い噂だよ」
「聞かせてくれる?」
ギムナスは頷くと、辺りの様子を窺ってから話し出した。
「僕がまだ幼年学校に通ってた頃の話で、僕も親衛隊に入隊してから知ることが出来たんだけど」
「前置きは良いわよ」
「まあ、ともかくそれくらい昔の話なんだ、アルクィン家の断絶は。そしてその背景には貴族院の圧力があった」
「貴族院が? どうして?」
「アルクィン家は反貴族の改革派だったからね。近衛兵団に影響力を持つあの家は、若手の有能な、しかも臣民出身の近衛兵を次々と要職に推薦して登用した。アントン閣下もその中の一人なんだ」
「それが貴族達の不興を買った、と?」
「近衛兵団には貴族の子弟もたくさんいる。彼らを飛び越えて臣民が出世するのは面白くなかったのさ」
「じゃあアルクィン家の後継者達が次々と戦死していったのは」
「アルクィン家の人間はいつも戦場にいた。さぞ狙い易かっただろうね」
得体の知れない気味悪さが一瞬背筋を走り、マルトはびくっと身震いをした。言葉を失うマルトーにギムナスはを顔を上げて、明るく笑いかけた。
「あくまで噂だよ」
「でも有り得る話だわ。限りなく黒に近い灰色でしょ」
「確かにそうだけど、王城やら貴族院やらには陰謀奸計が山みたいに幅をきかせているんだ。真偽を確認するのは無理だよ」
二人は揃って嘆息をもらす。暫くの沈黙の後、マルトーは顔を上げた。
「ねえ、アルクィン家の人々は皆死んでしまったの?」
「いや、令嬢が一人残っていたはずだよ。戦いが大嫌いで趣味は庭園っていう、アルクィン家にしては風変わりな人だったそうな。彼女が何処に行ったのかは不明だけど」
「不明、ね。誰も知らないのね」
「アントン閣下なら何か知ってるんじゃないかな。僕には訊ねる勇気もないけどね」
ギムナスは金色の前髪を触りながら頼りない声を出した。マルトーは頬を膨らませて彼を軽く睨んだ。
「私にも無いわよ、そんな勇気」
揃って食堂を出た時、ギムナスが率先して代金を払った。
「今日はありがとう。久しぶりに話ができて本当に嬉しかった」
「こちらこそ付き合ってくれて感謝してるよ。暫くは帝都にいると思うし、また食事に誘ってもいいかな?」
「ええ、もちろん。私が忙しくなければだけれどもね」
マルトーはわざと意地の悪い笑みを浮かべた。ギムナスも苦笑いを返す。店の中でゆっくりし過ぎたため太陽がかなり西に傾いていた。急いで準備をしなければ祝賀会の始まりに間に合わなくなる頃合いだった。
「そうだね。まずは今日の祝賀会だ。君がどんな美しい格好をしてくるのか、楽しみにしているよ」
「貴方も祝賀会に来るの?」
「当然だろ。僕は帝国騎士で君の先輩だ。新人の祝賀会に行く権利は持っていると思うよ」
そう言えば鉄騎師団は近衛兵団内でも上級の扱いを受け、更にギムナスは将校の地位にいるのだと、マルトーは今更ながら思い出した。再会してからずっと、小さい頃の幼なじみという感覚しかなかったのが不思議に思えてきた。彼は自分よりも上の階級で、彼に対して上流社会の催しの誘いが来るのは当たり前の事なのに。
「私の服なんてどうでもいいじゃない」
「折角の晴れの舞台なんだ。記念の服ぐらい綺麗なものにしても罪は無いと思うよ」
マルトーは口ごもりながら、頭を素早く働かせて、自分が祝賀会に着ていく服を幾つか思い浮かべた。手持ちの婦人用礼服は余りにも少ない。思い倦ねて頭を抱えていると、背後から大きな声が路地に響いた。
「ギムナス隊長!」
二人が身体をびくりとさせて振り返ってみると、そこには呼吸を荒げ膝に手をつき肩で息をしている女性が立っていた。女性は顔を上げるとギムナスを睨みつけ力強い足取りで近づいてくる。
「ギムナス隊長、ようやく見つけましたよ。どうして書類を届けるだけで半日も時間が過ぎるんですか?」
女性は声を荒げて、ひたすらばつが悪そうに謝るギムナスに早口で詰め寄った。銀色の短髪に飾り布を巻いており、褐色の肌には桃色の口紅が良く映えている。身につけている軽装甲の右胸には帝国の紋章が描かれており、更にギムナスと色違いの紋章石を首から下げていた。
女性はふと横で呆然としているマルトーに気が付きいた。
「こちらの方は?」
「ああ、彼女は」
ギムナスが紹介しようとすると、マルトーは慌てて口を挟んだ。
「ご、ごめん、ギムナス。急ぐ用事を思い出したから私はもう行かなければ」
不自然にどもりながらマルトーは二人に別れを告げた。
「そ、そう? じゃあまた後で」
ギムナスも目をきょとんとさせながら手を振る。マルトーは暫く歩いた後、足を一度止めて後ろを振り返った。
ギムナスが先程の女性に引きずられるようにして去っていく姿が見える。女性の両腕がギムナスの腕に巻き付いているのを見ると、胸が締め付けられるような、刃物で削られるようなそんな痛みを感じて、また足早に歩き出した。
二人の騎士が見えなくなったのを確認してから、マルトーは立ち止まり、深く溜息を吐いた。腹の底から澱んだ自己嫌悪がざわざわと押し寄せてくる。
なぜあんな不自然な別れ方をしたのだろう。
ギムナスは昔から全く変わっていなかった。彼は優しい笑顔を向けて、マルトーの話を聞いてくれた。彼はアントン・ラグラスを助ける準備と覚悟ができている、と言ってくれた。父が苦しい立場に陥ったとき、彼なら自分と一緒に父のために戦ってくれるだろう。悩みだって苦しみだって打ち明けられる。そう信じられることが、マルトーには何よりも嬉しかった。
なのに。それなのにこの胸の痛みは何なのだろう。
初めて感じる苦痛に不快感を募らせながら家路を進む。食事中に感じた嬉しさはどこかに消えていた。代わりに理由の分からない焦りがあった。帰路の途中、何度も仕立て屋の前に立ち止まり、女性用の礼服を一つ用意してみようかと考えたが、その一歩が踏み出せずに邸宅まで行き着いてしまった。
ラーニアなら、何か持っているのではないか。
そう考えたマルトーは、玄関の扉を開けるや否や彼女の名を呼び、階段を駆け上った。
階段を上りきると、上空に何かが輝いた気がして、顔を上げると、抗えずに瞳が壁に吸い寄せられた。そこにあるのは幼い頃から自分を見守ってくれる母親の肖像画だ。
母ならば、どうするだろうか。縋るような疑問が立ち上り、マルトーは暫く母の絵を見つめた。母は着飾っているが派手な服ではない。柄も飾りも控え目で、服だけを見れば地味な印象も否めない。しかし、その服を絵の中の女性は、地味さを感じさせず艶やかで美しい。女性にとってこれが自然な姿なのだ、とマルトーには感じられた。
ラーニアが小走りに階段を上ってきた。
「どうなさいました?」
「柄にないな」
「え?」
自虐的な、それでいて恥ずかしげな笑みを浮かべてマルトーは首を振った。
「いや、着替えを手伝って欲しいの。礼服は慣れてないから」
ラーニアは素直に従ってマルトーの部屋へと入っていた。




