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大元帥

 結果がどうであったかを率直に問われただけだ。

 それなのに、肩にも喉にも無用な力が入り、不覚ながら声音に緊張の色を塗してしまったと、アンゼルミは己の脆弱さを苦々しく断じた。

 外光を遮断し薄暗くした部屋には柔らかな質感の絨毯が敷き詰められ、精細な模様が部屋を幾分かは明るくしてくれている。絨毯の上に無造作に配置された机や椅子はどれも光沢を放ち、太陽の光が窓から刺せば部屋全体が華やぐはずなのに、この部屋の主人は敢えてぼんやりとした闇を選び無駄な色彩を払拭している。

 しかし、暗闇のなかでさえも、この部屋の主人の存在感が薄らぐことは無かった。圧迫感すら感じさせる。

 アンゼルミは椅子の一つを勧められたが、身に過ぎると固辞して直立したままを選んだ。安易に座って足腰を休めると、この目の前に存在する重圧に耐えきれないと考えたからだ。

 マルトー達と別れ、近衛兵団本部に帰城報告を済ませると、そこには出頭命令が待ちかまえていた。アンゼルミにもそれは予想していたことで、休む間もなく王城に登城し、指定された区画まで馬を急がせた。

 元々、自分の受け持った特務は、近衛兵団本部から下されたものではない。それは軍務司卿でも近衛兵団長からでもない。更に高位、皇帝陛下を補弼し帝国全土を総攬する元帥府、その長からの直々の命令だった。

 今、アンゼルミの目の前には、軍務政務の両翼を取り仕切り、大陸の将来を双肩に担う帝国の支柱、大元帥アントン・ラグラスが堂々たる姿勢で、執務机の椅子に座っていた。

 僅か一代で帝国騎士の末席から帝国随一の権力者にまで成り上がった男だ。帝政に影響を持つ有力な皇族による引き立てや、帝都を賑わせる大商人の後ろ盾も確かにあった。とはいえ、風を読む才覚、先を見据える胆力は常人から群を抜いており、独力であったとしても然るべき地位を得ていたことは瞭然と評される。他者を圧倒する天与の風格、対峙する相手をいとも簡単に押し潰す彼の鋭い眼光は、老いてもなお健在と感じられた。

 一方のアンゼルミ・ドゥランは下級貴族、代々騎士の家系に生まれた。常在戦場を一族の本分と定め、数々の白刃と血煙を経験し、生き延びてきたアンゼルミだが、《巨人》と称されるアントンの前に立つと自ずと手の指先が震えそうになり、負け戦で敵に囲まれた時よりも怯懦な自分を痛感していた。それは若き頃、東方辺境の戦で初めてアントンと知り合い、騎馬を並べて戦った時から全く変わらない、喉奥に突き刺さったままの棘であった。

 己の心の揺れをなるべく表にださぬように、強いて微笑みを絶やさず、穏やかに言葉を紡いだ。

「前任の《耳》の死因に関しては不自然な事ばかりです」

 一呼吸置き、相手の反応を見ながら続ける。

「酩酊状態のまま河に落ちた不慮の事故、と領府では処理したようですが、酒を一滴たりとも呑めぬ男が死ぬ当日のみ我を忘れるまで深酒し、しかも家からも自分が営んでいる宿場からも遠く離れた森に酔ったまま赴くとは考えにくい。やはり、相手側に正体を悟られ、《鼠》によって処分されたとみた方が良いと存じます」

「そうか」

 さして感情の読めない声だった。

「して、彼の地の様子は?」

「鉱山開発は我々の想像以上に進んでおります。こちらが後任の《耳》が急ぎまとめた鉱物の産出量です。フランドルの銅貨は周辺地域にも広く流通しております。翠原の民の紙幣も併用していますからカリモナ地方は帝国銀貨を必要としない一つの商業圏となりつつある。両替商も羽振りは良く、肥えています。加えて伯爵は人材の渉猟にも懸命な様子で、各地から幾人もの学術者、技術者、主を無くした私領騎士などが流れ込んでいました。中には帝都で活動していた者や、怪しげな自由主義思想家まで、と恐ろしく幅広い」

 アントンは逞しい眉を少しも動かさずアンゼルミの報告を聞いていた。口元をきつく結び、峻厳な眼差しで老騎士を捉えている。

 やはり、この程度のことはこの男にとって既知のものでしかないか。アンゼルミは焦燥に逸る内心を抑え、用意していた報告をそのまま続けた。

「あと三年の月日が経てば、潤沢な軍資金、膨大な兵力を持ってカリモナ地方一帯を制圧する事が可能となるでしょう」

「それほど緊張せずとも良い」

「は?」大元帥の意外な言葉にアンゼルミは驚き、それでいて表情を崩さぬように努めて平静を保った。

 アントンは頬をぴくりともさせず、難しい表情を続ける。

「貴卿が私を苦手としていることは知っている。また、一方で貴卿が信頼に値する高潔な騎士であることも知っている」

「畏れ要ります」

 なんと答えて良いか分からず、アンゼルミは無難な言葉を選んだ。

「私は楽観は好かぬ。貴卿を近衛兵団本部の閑職から内々に引き抜いたのは、その見識を見込んでのことだ。忌憚なき賢察を授かりたい」

「はい、それであれば」

 アンゼルミは恭しく頭を下げた後、一つ咳を打った。

「現当主ヴォルペにその気があれば、今日明日にでも東方辺境の貴族達を平らげるだけの余力があります。大威山嶺の向こうはどこも動乱の最中にありますから、障害となるのは帝国が配置した五つの各軍令と、そこに駐在する兵馬のみでしょう」

「だが、あの男は動かぬ。そうだな?」

「御意に」

 アンゼルミは一年程前に面会した、遙か東にいる貴族の顔を思い浮かべた。

「今のフランドル伯の軍隊は、近衛兵団を相手にまともに戦って勝てるだけの兵力には達しておりません。また帝国が動けば、良好な関係を作り上げてきたカリモナ地方の諸領主も途端に帝国へと靡き、敵に回る事は必定。若いながらも謀略と戦略で叔父を追い落とし、当主の座を略取した男です。愚は犯しますまい」

「十年前の戦では、我々も奴の奸計に踊らされたからな」

 大元帥は初めて表情を崩し、苦々しい笑みを浮かべた。アンゼルミの頭にも憂いの残った記憶が甦る。忌々しい過去を頭の外へと追い払うように、口を早めた。

「己の野心のために近衛兵団さえも意のままに動かした男です。手を打つならば迅速に、可能であれば今の時期こそが何よりも良手かと存じます」

 時期が遅れると、ますます敵の有利になる。地盤を固め、近衛兵団に負けない軍団を作り上げるだろう。会戦で一度でも帝国軍が負けたならば、カリモナ地方のみならず、東方辺境の領主達が一斉に反旗を翻す。それがアンゼルミの危惧だった。

 危機感は大元帥とて同じはず、そうアンゼルミは推察していた。目の前の英明な将軍はすぐに行動を起こすだろう。自分を東方辺境の東端、カリモナ地方のフランドル伯爵領に派遣したのは、帝国の斥候である《耳》の不可解な死について調査することが目的であtった。しかし目的にはもう一つ、当地の詳細な偵察も含まれていた。来るべき刻に、自分がフランドル伯討伐軍の水先案内人として先陣を務め、軍旗がたなびく中を老体に鞭打って駆け巡るだろうと弁えていた。

 だからこそ、アントンが眉間の皺をますます深め、渋い溜息を吐いた姿に、アンゼルミの胸中には言いようのない不安が頭をもたげた。

「閣下?」

「今は動けぬのだ」

「動けぬとは、その理由は?」

「貴族院が反発しておる」

「貴族院が、でございますか?」

「討伐軍を派遣するための、正当な理由がないのだそうだ」

 大元帥の言葉に驚き、アンゼルミは口を噤むと、瞼を小刻みに震わせた。

「浅はかな反論でございますな」

 強大な帝国に対し、大陸各地を分割して統治する貴族領主達が結束し、それぞれの主張を意見するための場が《貴族院》だ。構成議員は在都貴族のみではなく、地方領主からも選出される。そこで議決された意見は帝国の執政府、今であれば元帥府に提出され、それを参考意見として政務に生かさられる仕組みだ。しかし実態は貴族同士の社交の場に過ぎず、形骸化した存在は歴代の執政府、とりわけ大元帥が率いる元帥府には影響を及ぼすことが無かったはずだ。

 何故ここに来て貴族院に配慮をするのか、アンゼルミには理解できなかった。老獪な表情が崩れそうになり、皺の描かれた頬に溜まった萎みがちな筋を酷使し、必死で口の端を上向きに湾曲させ続けた。息を吸い、ゆっくりと吐く。感情を抑えた低い声が穏やかに絞り出された。

「フランドル伯ヴォルペは、再三の出頭要請にも詭弁を用いて抗拒している輩。その罪状、帝国と皇帝陛下に対する不敬罪が十分に当てはまりましょう。貴族院が如何なる理由で帝国の利益に逆らうのですか」

「伯爵は代理使をその都度送ってくる。大層な詫び状とふんだんな土産を抱えてな」

「その土産が貴族達に収められている、と」

「何十もの箱が在都貴族にも地方貴族にも分け隔て無くばらまかれておる。しかもあの狐めは、正当な理由なく自家が征伐されるならば、次は貴家の番だ、と地方貴族どもを脅し上げているそうだ」

「我々は既に遅れを取っておるのですな」

 アンゼルミの自嘲めいた口ぶりに、大元帥は眉を僅かにつり上げたが、その後は沈黙に浸った。

 帝国が地方の反乱軍へ軍を向け戦をする際、地理の不案内や兵站の都合からどうしても周辺の地方領主達に協力を仰がねばならない。だが、貴族院の議決として討伐軍派遣への反対がまかり通ると、地方領主達は大手を振って帝国軍の通行を規制できる。それは地方の長に与えられた正統な権利であり、帝国が貴族院に対して保証していたものだ。しかし、その権利を行使しようとする貴族はこの数百年間現れなかった。その権利は暗黙の禁忌となっていたのだ。

 だが、フランドル伯爵は禁忌を犯し、帝国の寛大さを逆手に取って、一兵も使わずにこちらの動きを封じようとしているらしい。

「私も長く軍務に携わっておりますが、まさか貴族院にご機嫌伺いをする必要がある事態が来ようとは、今日この時まで夢にも思いませなんだ。昨今は、近衛兵団の助力無くして、領地の治安も守れない有様だというのに」

 アンゼルミの言葉に、全くだ、とアントンは椅子を軋ませて立ち上がり、窓辺に近づくと厚い生地の窓掛けを手に取った。一条の斜光が床に突き刺さり、空中に漂う微細な塵の右往左往している粒子が鮮やかに見えた。

「貴族院に大きな顔をされる程、惨めで不愉快極まりない状況を許すつもりはない。近々、元老院での裁可を仰ぐ。狐の息がかかった地方貴族どもに口出しはさせぬ」

「なるほど、元老院でございますか」

 一度息を吸い、言葉に合間を置いた。

「しかしそれでは今度は、権門貴族達がつけ上がりましょう」

 振り返ったアントンの表情を見て、アンゼルミは大元帥が難しい局面に立たされている事を悟った。確かに元老院の決定は貴族院の主張など軽々と粉砕するだろう。しかし、元老院には有力皇族と共に、帝国の歴史と共に脈々と代を重ねてきた権門貴族が巣くっている。彼らは貴族院とは一線を画した思考で動いているが、一方で必ずしも大元帥と歩調を合致させていないのだ。

「権門の勢力を制するためにも、皇族方の協力を要請している」

「近いうちにウィンドルフ公が軍令から帰還する、という話は東方辺境で聞き及んでおりましたが」

「名目は次の叙任式典への出席だ。北方に派遣されていたマインツェホルン公にも時を同じくして帝都に帰城していただく」

「臣民にも理解あるお二人ならば、必ずや閣下にお力添え下さる」

「それでも権門貴族を抑えられない時は、陛下のご聖断を賜る」

「皇帝陛下のですか?」

 これには流石にアンゼルミの顔が固まった。

「恐れながら、陛下の御年は未だ十を数えたばかり。複雑な政務の判別に堪えうるものとは」

「判別して頂く」

 頑とした声音だった。何人たりとも反論を許さない、断然とした語気だ。

「事は帝国の存亡に関わる重大な案件だ。陛下のご聖断なくば、国が散り散りとなってまとまらぬ。御年を盾に悠長な事は言ってられぬのだ」

 アンゼルミは、されど、と口を挟もうとしたが、アントンは意に介さず言葉を続けた。

「もちろん、そのような事態に陥らぬためにも、我ら帝臣一同の努力が不可欠だ。権門貴族の要求にも、可能な部分には妥協する必要もあろう」


 妥協。


 その言葉が目の前の《巨人》の口から出たことに、アンゼルミは違和感を覚えた。

 この御仁に妥協などという後ろ向きな言葉は決して似合わない。しかし、巨人はいとも容易く不慣れな言葉を使ってみせる。それが器用さなのか、諦念なのか、老騎士には判別もつかなかった。

「その要求が、人地の道に外れるものでなければ良いのですが」

「流民に関する問題を迅速に解決する方策が間もなく提案されるそうだ。内容は詳しくはまだ聞いてはおらぬが」

 アントンが椅子に戻ると、獣皮の擦れる音が薄暗い室内に(おぞ)ましく響いた。

「まずは新設部隊を作るらしい」

「新設部隊?」

「貴族の子弟で、帝都の警備を固める戦力を整える。筋だけ聞けば立派だ」

「実態は貴族の影響が色濃い兵馬ですか。帝国騎士団にとっては獅子心中の虫。随分な妥協となります」

「今回の叙任式に合わせて活動を始めることになっている。暴走せぬように手綱を締めてやらねばならん」

 アントンの青黒い炎を燻らせる真っ直ぐな瞳が、不意にアンゼルミの心胆を貫いた。

「貴卿にご協力を願いたいと考えておる。如何か?」

「もちろん。微力ながら務めさせて頂きます」

 アンゼルミは一片の躊躇もなく、真摯に頭を下げた。

 接するのは苦手だとしても、大元帥アントンは騎士の鏡であり、尊敬すべき英雄だ。過去には同じ旗の下にいて、轡を並べ、背中を互いに預けて槍を奮った事もある。大陸の果て、極寒と飢餓に見舞われた地獄絵図の戦場から、共に剣を振り、生き延びた縁だ。何よりも、性に合わない事務方の仕事に倦み疲れていた自分を登用し、新しい刺激に溢れる任務を与えてくれた恩義がある。アンゼルミには、この男であれば自分を有効に使ってくれる、という確信があり、請われたならば最善を尽くそうと前々から決めていた。

「助かる」

 と頷いた大元帥は続けて口を開いた。

「そういえば、つかぬ事を聞くが」

 これからの展望を頭に巡らせていたアンゼルミは、アントンの口調が微かに柔らかくなっていることに気がつき慌てて頭を上げた。

「貴卿は道中、あれと共に行動していたそうだな」

「あれ? ああ、ご息女でございますか。巡察使隊の隊長から是非にと請われ、僭越ながらお側にお控えしました」 

「どうであった?」

 ここで答えを焦らすと、この大物はどのような反応を見せるだろうか。アンゼルミは年甲斐もない悪戯を思いつき、試してみようかと考える自分自身に呆れ、内心で苦笑した。

「虚飾なく申し上げますれば」

 心の裡を悟られないよう、一気に口を動かした。

「未熟な部分も見受けられますが、総じては炯眼(けいがん)に富み、剣の腕も相当。特に弓矢は達人の域と言っても良い。それに、不思議と人を惹きつける天賦の魅力をお持ちです」

「随分と高く買ってくれるものだ」

 大元帥の言葉に喜んでいる色合いは無かった。素顔を見せないまではアンゼルミの予想内だったが、口調に険が含まれていることは意外だった。

「血筋がなせる業でございましょう。遠からず、高名な騎士の一人として名を馳せると期待しております」

 これはアンゼルミの本心だった。丁寧な物腰に隠れた根本は木訥とした軍人で、不器用に生きてきた男だ。世辞など言えないことくらい、アントンも承知のはずで、だからこそ何も言わず、固く熟慮している面持ちで机の上を漠然と眺めながら、指先で肘掛けを忙しなく叩いているのだ。

「貴卿は子をお持ちか?」

 指を止めたと同時に、アントンは問いかけた。訝しむ間もなく、アンゼルミは反射的に答える。

「はい。娘が三人。それぞれ既に嫁いでおりますが」

「幸せに暮らしておられるか?」

 アンゼルミはふむ、と娘達の顔を思い返した。

「どうでございましょうな。他家の慣れない仕来りには思うところがあるようですが、それでも人並みには、と認識しております」

「そうか」アントンは満足げに目を細めた。

「あれも私の跡を追おうとはせず、相応しい伴侶を見つけて、娘として人並みの幸せを掴んでもらいたいのだがな」

「閣下はご息女の騎士叙任に反対のお立場で?」

 問いに対して、アントンはこちらを見ようとはしない。相変わらず、机の上に視線を這わせたままだ。室内の空気が断然に重くなった。アンゼルミは自分の口から出た言葉が口の周りに残り漂っているのを感じ、問いかけた事を後悔し始めていた。

 大元帥はもったいぶったように溜息を吐いた。

「あれの母親が憐れな身の上であった。娘には、な」

 唾液が絡まったようなくすんだ声だった。アントンが娶った相手が誰であったか、アンゼルミは思い出そうとしてすぐにやめた。深追いしたところで、そこに「幸せ」は恐らく無い。

「出過ぎた振る舞い、失礼しました」と謝罪した。

 それきり、二人の間で彼女の話は立ち消えとなった。


 今後の細かい話を詰めた後、アンゼルミは大元帥の執務室を辞去した。王城の汚れ一つ無い白亜に統一された回廊を歩きながら、知らぬうちに顔から微笑みが途絶え、皺が深く刻まれた頬を固く凍らせていく。茫漠として白く、先の見えない闇が老人の周囲に漂っていた。

 アンゼルミの目の前には既に巨大な敵がいる。その敵は白い霞のような闇の中で蠢いている。

 敵は地方の一貴族だけではない。数百と数えられる地方貴族領主、そして皇帝の周囲を取り巻く権門貴族。今や人民でさえ帝国に刃を向ける。舵取りを誤ると、巨大な帝国であっても簡単に座礁し、朽ち果てるかも知れない。

 大元帥は政務において、元帥府、元老院、貴族院という三すくみの緊張関係を作ろうとしている。そして三角形の中で常に元帥府が優位に立たなければならない。それは非常に難しい事だ。

 支えられるだろうか。

 打ち消してはこみ上げてくる疑念に、アンゼルミは唇を噛んだ。

 近衛兵団で一介の将校であった頃はある意味で楽だった。闇雲に剣を振り、馬を駆り立て、敵陣を切り裂いて旗を掲げれば良かった。敵は目の前にいて、味方は隣にいた。敵を駆逐すると、戦いも終わった。

 しかし、王城内の戦いは勝手が違う。この王城の闇は深く、根深い。誰が敵かが分からない。誰が味方かも分からない。周囲全てが敵かも知れないし、全方向が自分に対し無関心かも知れない。太陽に白く輝く城壁の影で、気味の悪い暗闘が二百十数年の間繰り返されてきた迷宮だ。王城の美しい中庭を吹き抜ける冷たい微風は、静けさの裏側に禍々しい悪意と敵意、惨憺とした悲鳴と嗚咽を隠して、密やかに咲く花や池の水面を揺らしている。

 今歩いてきた回廊を振り返り、執務室の黒光りする扉を見た。固く閉じられた扉には庭からの光も届かず、屋根から伸びる陰にぼんやりと浮かんでいる。部屋の主は暗い部屋の中でただ一人、白亜の王城を舞台に悪辣な影にも耐え、前途も見えない不利な戦いを続けている。

 アントンには敵が多すぎるのだ。

 しかし、彼は決して孤独ではないはずだ。

 鉄面皮と囁かれる大元帥の頬が、彼女の話に及んだ時、僅かに動いたように見えた。見間違いかも知れないが、アントンの表情に隙が現れ、人間味を感じさせる細波のようなものが見て取れたのは確かだ。

「人並みの幸せ、か」

 大元帥とその娘の顔を頭に浮かべた。二人とも、到底人並みとは呼べない資質を芯から溢れさせ、周囲を圧倒する。常人では太刀打ちできまい。それでも人並みを求めるのは人としての性か。

 常人から一線を隔てる彼らが考える「人並み」とは、何を指すのだろうか。

 アンゼルミは首を振り、益体のない問答を早々と終わらせた。

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