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帰城

 昼を告げる鐘楼の音色が荘厳に重なり合う。

 空気の揺れは緩やかな風に流され、石造りの高く聳える壁を乗り越え、城門の外に身を寄せて並ぶ人々の耳にまで轟く。白亜の石を積み重ねて築かれた城壁そのものが、典雅な楽器の一つの機構となって、薄く強靱な金属同士を叩きつけただけの(かまびす)しい濁音に、時の支配という崇高な権能を付与していた。

 だが、この音を有り難いと拝むのは初めて帝都を訪れる者か、よほど帝国の統治と皇室の存在に心酔している一部の主義者だけだ。普段から帝都に暮らし、日々の安寧を教授する一般の臣民にとっては平凡な生活の一音でしかなく、目の前の相手との会話の方が大事とばかりに声を大きくする。ただでさえ人が混み合う場所で一斉にけたたましく会話をするものだから、騒然とした空気は一層の混沌を増す。


 二年ぶりに帝都へと帰城したばかりの少女マルトーは、目の前の群衆の動きに戸惑い、目を見開いて呆然としていた。人も荷車もごった返しで立錐の余地もない中、人々は押し合いへし合いしながら、ぞれぞれの目的のために絶え間なく行き来している。時には立ち止まって人と話し、露店の軒先に並んだ品物を物色し、人いきれの中をもがきながらも足早に次の場所へと移っていく。まるで増水した大河の濁流だ。泳ぎの達者な者でも、ふと油断すると凶暴な水流に体を持って行かれるし、頑丈な建物もなぎ倒されてしまうだろう。水練にも慣れていない上に線が細い体躯の自分がこの流れに飛び込んだら、間違いなく目的地とは見当違いな方向へと流されていくだろう。マルトーはあれよあれよと体を持って行かれる自分の姿を想像し、恐懼した。せっかくの凱旋帰城だというのに、そんな情けない醜態を同行している仲間達に晒したくは無い。しかも自分達は馬を連れている。この二年間一緒に旅の苦楽を共にしてきた愛馬達だが、人混みに驚いて暴れ出さないとは限らない。万が一放馬でもしようものならどれほどの大事になるだろうか。両手でも数え切れない程の怪我人がでるだろう。最悪死人も出るかも知れない。そんな事を考えると、どうしてもこの激流の中に入ろうという勇気が湧かなかった。

 帝都の玄関口である南大門を通過し、馬止めの大きな壁を左右に避けると、その向こうには区画二つ分の市場が広がっている。古くには門前市と呼ばれ、最近では東西市とも呼ばれるこの大所帯の商い場は、帝都や近郊に暮らす住民の生活を潤してきただけではなく、大陸全土、あらゆる人種の暮らしを支える品々の源泉となっている。遥か遠方から品物が届き、金銭や物と物とが交換され、遥か遠方へと運ばれる、まさに大陸の中枢と呼ぶに相応しい交易の場だ。


「これは壮観ですな」

 立ちすくんでいるマルトーの背後から老騎士アンゼルミの嗄れた声が届き、マルトーは振り向いて頷いた。

「人、人、人。どちらを向いても人だらけです」

 マルトーが覚えている二年前の記憶の中では、この市は活気に満ちていたものの、もう少し落ち着いて歩けたはずだ。自分たちが帝都を出発した頃よりも、市場は拡大し、客も多くなっている。

「あまりゆっくりしてられないようですよ。後ろが詰まってきた」

 同行の一人、ウィットゥの冷たい声は喧噪の中でも不思議とよく響いた。

「私たちの後ろには、この市場で一戦交えて儲けたいと考えている隊商の皆さんがお待ちかねです。ぶつくさ文句を言い始めてますよ」

 マルトーは自分達の更に後ろに控えているという隊商の様子をみようとしたが、同行者達とそれぞれが付き従えている馬の影に隠れてしまい、目的の姿は見えなかった。

「マルトー様、どーんっと行きましょうよ。歩き始めたらきっと何とかなりますよ」

 一行の一番後方に位置して一番視界の邪魔になっている大柄なクラースヌイが言う。

「クラースヌイはまたそうやって適当な事を」

 お気楽な発言をする同胞を窘めるウィットゥは、実は二番目にマルトーの視界を狭めてくれている。二人とも、マルトーと歳に差はないが、身長でいえば頭一つ分の差があった。

「クラースヌイの言うことはもっともだ。いつまでもこのまま立ちすくんでいる訳にはいかないだろう」

 クラースヌイの発破に頷いたマルトーは、強張る体を解すために深く深呼吸した。剣を抜いた相手と対峙した際でもこんなに緊張したことは無かったのに、と歯がゆい思いだ。覚悟を決めて泥流へと飛び込むための一歩を踏み出そうとした矢先、アンゼルミがマルトーを柔らかく制止した。

「お待ちを。ここはウィットゥ殿とクラースヌイ殿に先導を任せましょう。二人の方がよく目立つし、万が一はぐれた時の目印にもなりましょう。二人の馬は古馬ですし、人混みに揉まれても大騒ぎするような事もありますまい。三番目がマルトー殿、私は殿を務めます」

 マルトーはその申し出を断る事ができなかった。自分の愛馬リュートを脇に寄せ、どうにか人一人、馬一頭が通る幅を確保する。そこをすり抜けたウィットゥが、人混みの中の僅かな隙間をとらえて流れに飛び込んだ。続いたクラースヌイは全く躊躇せず、迷いもなくずかずかと人の流れをかき分けていく。自分も遅れまい、とマルトーも流れの中に身を委ねた。

 実際に中に入ってみると、流れは混沌としているように見えて、実は方向性を持って動いている事がわかった。右から左から、と無秩序に人が流れているのではなく、長い長い列が無整形に蛇行を繰り返し、歪な流れが生じているように見えているだけのように思えてきた。だからこそ、この市場で買い物をしている人々はその法則を知っているから、敢えて流れに逆らう事はせずに周りと一緒に動き、奔流の一部となる。そして目的の露店が近づくと流れの端へと器用に移動し、そして離脱する。取引が済めばまた流れに合流して、次の目的の店を探す、という案配だ。実に合理的だ、とマルトーは関心した。この流れに乗った方が楽に市場を抜けるのではないかと考えたが、先導する二人の同輩は考え方が違うようだ。ウィットゥは持ち前の冷静さを発揮し、馬の手綱を巧みに誘導して、障害となりそうなものを上手く避けて進んでいた。次に続くクラースヌイは、さっさと馬の先導に疲れたのか、あれこれと気を遣う事をやめ、ウィットゥが通った道を忠実に追いかけ、後は周囲が避けることを期待して闊歩している。

 何と頼りがいのある同輩だろう。

 頭に若白髪の目立つウィットゥの背丈は、周囲から頭一つ分飛び抜けている。朱砂の民独特の紅髪を伸ばし放題にしているクラースヌイは、色合いだけで周囲から見事に隔絶している。

 マルトーははぐれないように、前を行く二人の背中を目の端で追いかけた。


 二人はマルトーと同輩の騎士見習いだ。出身学舎は違うが同じ歳であり、同じように帝国騎士を目指している。だが、何故か彼らは二人揃ってマルトーに尊称を付け、敬語を持って接する。自分の出自を考えると致し方ないのかもしれないが、マルトーは少し不満だった。

 もう少し、砕けた間柄でも良いじゃないか。

 もう少し、仲間らしく振る舞っても良いじゃないか。

 旅先でのある晩、そう訴えるとウィットゥは、「他校の学徒には敬意を持たなければならないという古い慣習が《賢者の塔》にはあるんです」、と静かに笑った。「別にマルトー様のお父上がどうのこうのという話ではありません。例えばマルトー様のご同輩に領民出身の方がいても、我々はその方に尊称をつけて呼びますよ」

「しかし、お互いに学舎を卒業しているのだから、学舎の慣習に縛られる理由もないでしょう? 共に帝国騎士を目指す仲間なのよ」

 マルトーの不満顔を見て、クラースヌイが大きく「そうですよね」と頷いた。マルトーの言い分はよく分かると、と体全体で表現している。

「ただ、これまで慣れ親しんだ振る舞いをすぐに変えることは無理です。ゆっくりと馴染んでいきたいと思うのですが、それでも宜しいでしょうか」

 彼の申し出に、マルトーは快く頷いた。

「ええ、もちろん。明日からも宜しく頼むわね」

 笑ってその夜は別れた。

 それから一年半。帝都に着く今日まで、二人の態度が変わった兆しは無い。

 彼らが丁寧な態度を崩さない代わりに、マルトーの彼らに対する態度はぞんざいになった。いつの間にか、マルトーは馴染めないと思っていた無骨な武人口調を淀みなく話すようになっていた。


 物思いに囚われ油断していたマルトーは、人混みの中でもよく目立つクラースヌイの赤髪の頭が見えなくなっている事に気がついた。太い材木を肩に掛けて露店から露店へと渡ろうとする男の影に隠れたらしい。

 門前市の露店の密度が益々増し、声高に売り買いの注文を投げ合う人の密集具合も更に高まってきた。昔ながらの帝都の臣民に混じって、見たこともない異郷の装束を着た偉丈夫や、髪肌の色の違う四大部族の民の姿も見える。色で判別しようとしても同じような色合いがそこら中に氾濫していた。

 後ろを振り返ってもアンゼルミの姿すら見えない。自分たちの良き見守り役だった老騎士も、この人混みの中ではぐれてしまったのだろうか。左右に首を傾け、人と人の間から何とか前を見ようとするが、これほど密集していると隙間を見つけることも難しい。クラースヌイの赤い頭だけに集中していて目を動かしていると、視野の中で何かが不意にマルトーの意識を捉えた。

 何かがあった。誰かがいた。ただ、その意識が何を捉えたものなのか自分でも分からない。前方ではないからクラースヌイやウィットゥの後ろ姿では無いだろう。もやもやした疑念の正体を明らかにするためあちらこちらと目を配っていると、自分達とは逆方向へと進む人の流れの向こう側に、一件の花屋を見つけた。色とりどりの花を飾った棚の中央は、艶やかな青紫の一群によって占めている。

 その花屋の軒先には客だろう女性が一人立っていた。花の一つ一つをじっくりと矯めつ眇めつ熱心に見定めている。その女性の横顔に目を凝らすと、その女性もマルトーの視線に気がついたのか、不思議そうな顔の唇を弓なりにして、確かに微笑みを浮かべたように見えた。しかしその微笑みは、前へと進んでいくマルトーの視界に長く留まることはなかった。花屋は隣の粉物屋が高々と掲げる幟に隠れ、女性の微笑みもまた、青紫の絨毯に包まれるようにして消えていった。


 もう一度マルトーが前を向くと、クラースヌイの図体はすぐ目の前にあり、マルトーは慌てて愛馬と自分の足を止めた。ウィットゥの馬もクラースヌイの目と鼻の先にいて、興奮した筆状の尾が軽やかに跳ね回っている。混雑の一種の頂点でもある十字路がウィットゥの進路を塞ぎ、互いの間隔が狭まったらしい。それでも後ろからの波は前へ前へと押し寄せるので、凝結した人の山を無理矢理乗り越えるしかなかった。マルトーは肩と肩、腕と腕とがぶつかり合う感触に閉口し、我慢してくれよ、と愛馬に優しく低く声をかけた。騎士用の乗馬用に訓練されているから大丈夫だと思うが、こんなのところで愛馬の暴発だけは勘弁して欲しい。

 しばらくの窮屈を我慢すると、だんだんと人の流れは疏らになった。露店は姿を消し、落ち着いた雰囲気が通りを支配している。人通りも少なく、先ほどまでの密集が夢か幻かと思えた。

「さて、ようやく聖大路ですかな」

 疲労を感じさせぬ足取りで、アンゼルミがまぶしそうに通りの向こうを指さした。

「凄かったですね、門前市のあの混み具合。何だってみんなはあんな所で買い物ができるんだろ?」

 クラースヌイは素早く自馬の鞍上に跨ると、後ろの黒々とした一画を眺め首をひねった。

「欲しいものがあるからだろ。しかもたくさんの露店があるから価格も安くなる。押し合いへし合いに我慢しても、得るものが充分にあるのさ」

 同じように鞍上に腰を落ち着けたウィットゥが乾き切った声で回答すると、自分の馬をマルトーの側に近づけた。

「あの利益が国庫に入り、窮状が少しでも改善に向かえば帝国も安泰なんですがね」

「ああ、そうだな」

 顔を門前市に向けながら顔を寄せるウィットゥに、マルトーは力強く頷いた。

「安泰にさせなければ、な」


 門前市の終わりからは途端に道が広くなる。市街を貫く目抜き通り、《聖大路》には綺麗な石畳が敷かれ、石材と木材によって組み立てられた多様な建物の並びは、色彩が豊かで且つ穏やかな気品を保っている。ここら辺りには高級品を扱う商家や宿場兼酒場が営まれており、玄関としての南大門、踊り場としての門前市を通り抜けて、旅人がようやく一息つける応接間といった趣だ。ここからまっすぐ進むと、住民の憩いの場であるクヴェレーヌ広場があり、そこからそれぞれの方角に向かう各大路に入れば、技師街や一般の臣民達が暮らす区画、さらに北の王城に近づいていけば、貴族の城館が密集する区画や帝国政庁の建築物が並ぶ区画に行き着く。

 一行は道なりに北へと進んだ。各々の双眸は自然と周囲に四散し、街並みの変わった所、変わっていない所を具に見比べ、互いの記憶と照らし合わせた。大きく変わったところは見あたらなかった。二年間で帝都は様変わりしているのではないかとマルトーは危惧していたが、変貌したのは東西市だけなのだろう。

 四人は聖大路を抜け、樹木や花壇に囲まれて噴水が湧く十字路の広場に出た。帝都の中心に位置する《クヴェレーヌ広場》だ。三段状の丘陵に作られた帝都において、二段目の高台に位置し、東西には《風大路》が伸びている。ここから東に向かえば一般の民家が建ち並ぶ地域に入る。噴水の周りには木立の影に入るように幅のある椅子が数組置かれており、これから門前市に出かける人々や、逆に門前市から帰る人々がそれぞれの憩いを楽しんでいる。婦人達は椅子に車座を囲み、家での不満を(かまびす)しく笑う。子どもが三人、染み入るような寒さにも動じず、広場で一番の大樹に取り付き、頂上を目指して茶色い葉の残る枝に手を伸ばしていた。その木の枝を隠れるようにして錬鉄でできたひょろ長い柱が暗い緑という地味な色合いでひっそりと立っている。帝都の大路であればどこでも見受けられる常夜灯だ。柱の頂点に置かれた寒々しい硝子箱の中には蝋が敷かれ、夜毎の火灯し番人が種火を分配しては、帝都に迫る夜の闇をせめてもの慰みばかりに払拭してくれる。太陽が落ちると常夜灯の明かりを一心に浴びることになる噴水の清流は、帝都の東を走る氷姫河から引かれており、そのまま風大路の水溝を流れ、帝都の西を流れる月姫河へと注ぐ。帝都の住民にとって大切な生活用水だ。温月から風月の初めまで続く暖かい季節には、噴水の中を子ども達が水遊びに興じるものだ。

 広場から仰ぐ空には、様々な色形の屋根と共に、皇帝の居城であり帝国の中心である王城の巨大な姿が隆起していた。帝都のどこにいても王城の姿を拝めるが、このクヴェレーヌ広場から仰ぐ勇姿こそが王城の本来の美しさだと、帝都に住む皆が口を揃える。

 堂々と構えた大門の向こうには、城壁と同じ白亜に染め上げられた塔が大小構わず複雑に絡み合い、天まで届けとばかりに尖塔を伸ばす。昼の強い日差しに晒された白い壁面は練り込まれた硝石が光を撹拌し、帝都の四方に七色の輝きを放っている。

 皇帝陛下の頭上に輝く冠を彷彿とさせる王城の姿も、その中央に突き出た剣のような影を帝都に刻む鐘楼の高さも、マルトーの記憶と何も変わっていない。広場を包み込む平穏も昔のままだ。幼い頃のマルトーは、はしゃいで水の流れに興じ、友人や弟と無邪気に絡み合っては、疲れると黙って王城の気高さを眺めた。渾然と湧き出る水が石造りの配水溝に流れ込む冷ややかな細流(せせらぎ)もそのままに、瞳に映る風景は二年前と同じ面持ちで自分を受け入れてくれる。

 帰ってきたんだ、と全身で実感出来た。

 ウィットゥも、クラースヌイも、皆が光に(まみ)れた王城の美麗な影に見とれていた。帝都に住み続けるだけでは理解できない、荘厳な麗しさが白亜の城にはあった。二年間王城を見ずに、今改めて素晴らしい王城の姿を眺め、その他の何者にも比較することが出来ない美しさがマルトーの心を奪った。

「帝国騎士となった暁には、一人ひとりがあの美しい王城を守る石壁の一枚となるのです。それはとても誇らしいことです」

 数十年の歳月を帝国騎士として生きてきたアンゼルミの言葉には、矜恃とも自負とも取れる想いが感じられた。アンゼルミは時折口にする言葉によって、マルトー達騎士見習いは益々帝国騎士への憧れを強めるのだ。

「私はここから近衛兵団本部に向かいます」

 まだ北へ進もうとする三人の機先を制して、アンゼルミが一人だけ馬首を西へと向けた。

「自分には別の務めがありますので」

「それって、特務っていうやつですか?」

 好奇心を隠さない顔でクラースヌイが問いかけると、ウィットゥが冷徹に幼馴染みを罵倒した。

「いつまでも無礼な奴で申し訳ありません」

 幼馴染みの代わりに謝罪するウィットゥを朗らかに笑い、アンゼルミは首を振った。

「いや、若い皆さんに混じり、老輩ながら面白い道中を楽しませてもらいました。叙任の日まではまだあるかとは思いますが、いずれも素晴らしい帝国騎士になるでしょう。その日を心待ちにしております」

 アンゼルミは丁寧に頭を下げてから鐙を蹴り、石畳に馬蹄を響かせて行った。去りゆく背中を三人は黙って見送った。

「ああ、そう言えば」

 急に手綱を引かれた馬が、首を持ち上げ、いきり立って甲高い鼻息を吹き出した。アンゼルミは不満げな馬を宥めながら、マルトーに振り向いた。

「マルトー殿のお父君には宜しくお伝え下さい。無理を重ねずご自愛下さい、と」

 一瞬面食らったが、老騎士の万事を見透かす優しい眼差しに、マルトーは力強く頷いてみせた。

「はい。必ずやお伝えします。アンゼルミ様のお心遣いに父も必ずや喜ぶことでしょう」

 アンゼルミは満足そうに頷き、馬の歩を促した。

「さて、我らも務めを果たしに行こうか」

アンゼルミが見えなくなってから、マルトーは二人を従えて長い旅の終着へと歩を進めた。


 三人が王城のすぐ近く、火大路沿いにある国務司庁舎に入ったのは昼も過ぎて、太陽が一番高くにある時刻だった。

 帝国騎士の証である紋章石を細剣の柄にはめ込んだ官吏達が右へ左へと奔走している脇をすり抜け、マルトー達三人は国務司庁の中の目的の部屋に辿り着いた。中に入ると、やはり気忙しそうに何人もの官吏が机に座って顔の幅ほどある分厚い書類と向き合っていた。奥に座る担当官の席の前まで進むと、世話役担当官である老騎士カントールは、細密に動かしていた筆を置き、顔を上げてにやりと笑った。

「ご苦労、稚魚の諸君。二年ぶりの再会かね?」

「担当官殿もますますご清祥のことと存じます」

 マルトーは威儀を正し、丁寧に頭を下げた。

 二年前、巡察使隊への派遣の段取りを淀みなく整え、出発の手筈まで何かと世話をしてくれた人物だ。これまでの先輩騎士達がそうであったように、マルトー達も彼から相当の恩義を受けている。

 カントールはマルトーの言葉に気怠そうに肩を揺らした。

「清祥なもんかね。忙しすぎて、大好きな釣りにも行けん。諸君らは騎士叙任を受けても、官吏にはならん方が良いぞ」

 マルトーは言われて表情に困った。近くの席の官吏は手を止めずに目元だけで笑っていた。自分も笑えばいいのだろうか。ウィットゥは生来の仏頂面を固めていたが、クラースヌイに至っては眉と頬を苦しそうにぴくぴく痙攣させていた。

 カントールは長年の間、帝国騎士団に優秀な若い人材を送り込んでいる登用担当の事務官長だ。時折冗談とも本気とも判断しかねる言葉を吐いては、その反応で帝国騎士への適正を審査していると噂されている。彼の前で気軽な言動は命取りだという話は、帝国騎士を目指す若者達には真実として流布している。彼に報告書を提出し、部屋から出るまでが叙任審査なのだと、先達は後輩へと大袈裟に伝えるのが慣わしである程だ。

「一番のお勧めは聖山の派遣管理官だよ。駐在するだけの暇な仕事だから楽に好き勝手できる。山の中だから静かだし沢での釣りは最高だ。出世とは程遠いがね」

 勝手に熱弁を奮い始めた担当官にマルトーは曖昧に頷き、ともかく報告書を提出すると、つまらなさそうな鼻息に書類が揺れただけで、これが受理された。

 この瞬間、マルトー以下三名は二年間続いた巡察使隊での叙任審査を無事に終了した。それと同時に、彼らは騎士見習いという身分からも解放された。審査での成績が認められて正式に騎士叙任されるまでは、王城とも帝国騎士とも縁のない、ただの臣民として暮らすことになる。

「また、再会できることを願っているよ。川瀬で釣り竿を抱えた諸君とではなく、王城で剣に紋章石を輝かせている諸君らと、な。まあ、私は前者でも文句はないがね」

「我々はもちろん後者の再会を期待しています」

 淡々とした口調のカントールに騎士の礼を返し、三人は国務司庁を後にした。 


 胸に疼くこの解放感を最初に爆発させたのは、やはり直情に逸るクラースヌイだった。国務司庁の建物から出るや否や、入り口に設えた僅かな石段の上で、腹の底からありったけの空気を震わせ、獣にも似た雄叫びを街路に向けて発した。風大路から更に北を東西に進む火大路は、まっすぐ王城へと続いている人通りの激しい街路だ。往来の人々の注目の的となっている赤毛の青年の足下を一匹の野良猫が横切り、琥珀色の瞳を驚きに開いてこちらを睨んだ。街のどこからか、呼応するかのような犬の遠吠えも聞こえてきた。マルトーまでも目を丸くして、前のクラースヌイの背中に目を見張った。

「貴様、もう少し野性を抑えろと何度言えば分かる? これから戦いにでも行くのか、野蛮人め」

 ウィットゥが刺々しい横目で、冷淡に幼馴染みを批判した。しかし、興奮させたまま頭上に拳を掲げて腕を伸ばしたクラースヌイに、全く悪びれた様子は無かった。

「いや、だって素直に嬉しいじゃないか。二年間の努力が報われたんだぞ。許されるなら、ここで俺の美声の歌を一曲披露したいくらいだ」

「まだ、報われたんじゃない。試験が一つ終わっただけだ」

「相変わらず冷めた奴だな、お前は。今日くらい仏頂面を崩して素直に喜べよ。ねえ、マルトー様だって嬉しいですよね」

「当然だ」

 マルトーは振り返ったクラースヌイに頷いて答えると、朗らかな笑みが自然とこぼれた。

 この二年間、自律と緊張を自らに課してきた。それが終わった今、下腹部の底にずしりと横たわっていた重たい岩が溶けて無くなり、躯が一段と軽くなった気がする。その解放感はまさに至福だ。頬を撫でる風はすっかり冷たくなっているが、マルトーの胸の内は寒月を通り越して花月が来たかのように、(うら)らに暖かくなっていた。

「お前は嬉しくないのか? ウィットゥ」

「嬉しいですよ。ただ、私の場合はもう少し上品に喜びを表現したいだけです。私の故郷では感情をみだりに外に出すのは良いこととされませんでしたから」

「たまには羽目を外して感情を表現することも大事だと思うぞ。我慢していると息が詰まるだろう」

「別に我慢しているわけではありませんが。それよりもマルトー様の言いぐさはまるでクラースヌイの言葉みたいですね」

 マルトーは小難しい表情をしたウィットゥの皮肉めいた小言ににやりと笑った。

「私はとても嬉しいんだ」


 国務司庁と道を挟んで設けられた馬の預け小屋に着くと、それぞれの房に分けられた愛馬を受け取りに向かった。、預けている間世話をしてくれた馬丁に預けていた間の様子を聞き、飼い葉代を渡してからリュートの手綱を受け取って街路に出ると、ウィットゥもクラースヌイも既にそれぞれの馬の背に跨っていたマルトを待っていた。

「マルトー様はこれからどうするのです?」

 マルトーに気がついたクラースヌイが、馬上から声をかけてきた。

「そうだな、本当はこのまま三人で酒場に行って、太陽の下で祝杯を交わしたいところなんだが」

 マルトーは愛馬の足並びを揃えると鐙に足をかけ、なるべく優しく鞍に跨った。リュートが荷の感触を確かめようとして身体をぶるりと震わせる。マルトーが愛馬の首筋を軽く叩いてやると、賢い葦毛の馬は何事も無かったように端然とした佇まいに戻った。

「やはり父上の前に参上しなくてはな」

「そうですか。俺も一度故郷に帰り、親族に報告しようかと思います。預けていたアイツらにも会いたいし」

「アイツら?」

「クラースヌイには、人じゃない友達がたくさんいるんですよ」

 ウィットゥの揶揄めいた口調にマルトーは旅の道中で何度か聞かされていた話を思い出した。

「ああ、犬と猫か?」

「俺の家族ですよ」

 クラースヌイは帝都の小さな下宿で五匹の猫と三匹の犬を飼い、世話ができない旅の間は帝都近郊に住む縁戚に預けているらしい。マルトーの家では馬がリュートを含めて三頭いるが、犬や猫の類は飼ったことがない。それはウィットゥの家も同じで、帝都に暮らす人々の営みを俯瞰してみても、犬や猫を飼っているのは半数を超えない。更に、飼っていたとしても一つの家に一匹ないし二匹程度で、クラースヌイが面倒を見ている犬猫の数は平均から頭一つ分抜けている。

「故郷の連中は動物なら何でも飼うんです。俺の姪なんて、まだ小さいのに虎とか蛇とかとも仲良くやってるんですよ」

「襲われたりしないのか」

「やったらやり返すぞ、ってことを最初に教え込むんです。そうすればどんな猛獣だって大人しくなります」

 快活な笑顔でクラースヌイは答える。簡単に信じられない話で、猛獣と共に暮らすという事態がマルトーには想像もできなかったが、クラースヌイの褐色の肌に収まった紅の瞳を見返すと納得もできた。彼の両親は、混血となった自分たちの子どもに里の生活ではなく《朱砂の民》の生活を教え込んだ。大陸北部に位置する不毛の土地《熱雲の大砂海》での生活は、里と比べると極めて厳しい。それは他の異境に住む四大部族全てに言えることだ。

 だが、だからこそ里の民が忘却した様々な秘技を受け継ぎ残していると聞く。朱砂の民にとって、動物との親交もその秘技の一つなのだろう。

「だからそうだなぁ、五の、七の、九の、十日後くらいには帝都に帰っていますので」

 指折り日数を弾き出したクラースヌイに頷き、マルトーは振り返って、ウィットゥにもこれからどうするのかを尋ねた。

「私は帝都に残っています。故郷に帰るには少々遠いですし、何より賢者の塔から借りている本と史料を整理して、返却しなくてはならない」

「二年も借りたままで、爺さん方は怒らないのか? 俺たちは賢者の塔をもう修了してんだぞ」

 クラースヌイが心配そうに訊ねた。

「心配は要らん。俺が学舎を出た後でも、帝国騎士になるまで借りる契約だったから問題ないさ。準導師達には酒、正導師様には酒か珍味、竜導師様にはお茶か菓子。それでこの世はこともなし、だ」

 得意気な色を匂わせながら、ウィットゥは言葉を句切り、顎に指をかけて少し考え込んだ。

「本の整理と土産の準備で、三日程かかりますね」

「お互いに多忙だな」

 マルトーは仕方ない、と肩を竦めた。

「では、クラースヌイが帝都に戻ってくる十日後あたりに改めて祝宴を開こう。私から使いをやるので、帰城したら大人しく家にいてくれよ」

「その時には是非着飾って、美しいお姿を拝見させて下さい」

 クラースヌイは愉快気な声で、幼稚な笑みを浮かべながら気取ったお辞儀をした。

「何故私が着飾らなければならないんだ?」

 マルトーは不意に大声を出した。

「何故って、宴での女性の衣装といえば、着飾った美しい姿が定番ではありませんか」

 まるで当たり前の事を当たり前に述べている、といった表情のクラースヌイだった。マルトーが助け船を求めてウィットゥを見ると、「マルトー様の美しい姿というのも見てみたいものです」と能面で追随した。

「私は女である前に騎士でありたいんだ。わざわざ衣装にこだわる必要もないだろう」

 マルトーは帝国騎士となる自分に女の容姿はいらない、と本気で考えている。子どもの頃から少年のような動きやすい格好を好んていた。町娘のような格好を最後にしたのはいつの頃だったか、はっきりした記憶もない。

 期待に満ちた視線を送ってくる男二人に、マルトーは頭を抱えながらやれやれといった具合に首を振った。

「その時の気分で身支度を整えるかも知れないが、大きく期待するなよ。私はその手の姿が似合わないと分かっているんだから」

「そんな事無いですよ。絶対綺麗になりますって」

「戯れ言はそれくらいにしておいてくれ。むず痒くて逃げ出したくなる」

 クラースヌイは何かにつけてマルトーに女の容姿を求めるが、本気で言っているのか、自分の反応をからかっているのか、マルトーには分からなかった。きっとこの冗談は慇懃な振る舞いを手放さない彼らにできる精一杯の親愛の証なのだろうと、勝手に解釈していた。

 三人は火大路まで進み、三叉に分かれている交差点でお互いに向き合った。

「では、しばらくお別れだ。互いに壮健を」

「ええ、再会を心待ちにしています」

「お元気で」

 三人は互いに頷き合った。

 それでは失礼、とクラースヌイが馬の首を巡らせ、手を振りながら去っていった。ウィットゥもマルトーに向かい丁寧に一礼し、先を行くクラースヌイを追うように馬を促した。

 マルトーはリュートの鬣を撫でると手綱を勢いよく叩き、彼らとは逆の方向へ、懐かしい我が家へと向けて愛馬を歩ませた。


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