父娘
帝国中枢を担う顕職を預かり、大陸全土を総攬する大元帥にして、マルトー、ミシェリ姉弟の父親でもあるアントン・ラグラスは、貴族の出自ではない。
帝都の裕福な商家に生まれ、帝国三大学舎の一つ、高等法院を優秀な成績で卒業後、帝国騎士の叙任を得て近衛兵団に入営した。各地の貴族間紛争や賊の討伐などに従事し、順当に武勲を立て出世を続けた。また、武官としての才能のみならず、紛争地の調停官や民政官などを歴任し、交渉や行政の分野まで持て余すことなく能力を発揮した。
十年前には、東方辺境の南東部で起こった貴族の大規模な叛乱を平定し、この功績により四十を過ぎたばかりの若さで帝国元帥の職に任官された。更に二年前、マルトーが巡察使隊に派遣され、大陸周回の旅にでた直後、それまで長く政務を統括していた前任の執政が急逝したため、代わって司政の権限を持つ大元帥に任命された。
現在の帝国において皇帝を差し置けば、行政・軍務に君臨する最大の権力者であり、白亜の城の輝きを一身に纏う、大陸の守護者でもある。
その権力者が革の椅子の上に腰を落ち着け、マルトーの目の前にいる。
上着を脱いで襟元を緩めてはいるが、背筋は木板のごとく伸ばし、眉間に皺を寄せ、眼光は鋭く、髭に埋もれた口は固く横一文字に結んでいた。
目の前の机に置かれていた書類に鳥毛筆で書き込むという流れ作業を止め、久方ぶりに再会した娘に目をやると、ほんの少しだけ頷いた。
筆台の横に添えられた硯のすぐ傍には、湯気の立ったお茶が置かれている。恐らくモンドレットが淹れたものだろう。そして、机の隅にはマルトーの部屋にあったのと同じように、青紫の花が暗がりに紛れてひっそりと佇んでいた。
「本日、無事に帝国騎士へと叙任されました」
マルトーは若干の緊張と共に威儀を正して頭を下げると、アントンは、ご苦労、と感情の薄い声で応えた。
部屋の中は燭台の上に蝋燭が数本立っており、乏しい光でも難儀する程ではない。それでもアントンはマルトーを近くに呼び、マルトーも素直に従った。マルトーが机の前まで来て、父娘は二年ぶりにお互いの容貌を確認しあった。
やはり、老けられた。
それが間近で見る父への印象だった。
叙任式典の折に、遠目で見た姿から多少は予想できていたが、実際に変貌を目の当たりにすると驚きを抑える事はできなかった。黒々としていた髪には白い線が幾本か混ざり、額と眉間には見覚えの無い深い皺が掘り刻まれている。
蝋燭の火に照らし出された頬も著しく痩け、二年前にはあった肌の艶も今では消え失せて見る影もない。逞しく大きかった体は、大きさだけはそのままに、筋肉は見窄らしく萎んでいるようだった。
父であるアントン・ラグラスが大元帥の職に就いた時、マルトーは今の帝国において父ほどその役職に相応しい人物はいない、と活躍を期待した。どんな責務も見事に果たしてくれるだろうと、父の役職拝命を喜んだものだ。
旅先では、風の便りに父の活躍を聞いた。
秘匿されていた国庫の危機を暴いた。
貴族の反発を乗り越えて、交易自由化を柱とする重商政策を実現させた。
父の改革へ注ぐ情熱と姿勢は娘の心を躍らせ、アントン・ラグラスの娘であることは誇りでさえあった。
だが、目の当たりにしている父の姿は、自分が思い描いていた強く逞しい父親の像と似ても似つかない。
これがあの大きな背中の、自分が追いかけた背中の正体だったのだろうか。
枯れ木のように細く窪んだ頬の上でぎらついている二つの眼光だけが昔と変わらない。目の前にいる人物が自分を厳しく育て上げてきたあの父親なんだと生々しく訴え、娘を益々動揺させた。
「帰城してから、長く無沙汰になってしまったな」
アントンは娘の当惑にも頓着せず、にこりともしないまま彼女の顔を見つめた。
「頬の疵はどうした?」
言われてから慌てて頬の疵に触れた。
「どうやら宴の余興の最中に、紙か何かで切ってしまったようです。お恥ずかしい限りです」
どうにか下手な嘘を思いついた。
父の目の前で嘘を吐くのはいつ以来だろうか。不思議な感慨が胸をくすぐった。昔から父は娘の嘘を嘘を容赦なく見破ってきた。だが、今は厳しい叱責ではなく冷笑が返ってきた。
「成長してもお転婆は変わらぬか。我が娘だな」
マルトーは自分の中の感情を表に出さぬように必死に動揺を抑え込みながら、もう一度深く頭を下げた。
「お父様も、お変わり無きご様子で安心しました」
「心にも無い言葉で父を甘やかすな、マルトー」
アントンは軽く鼻を鳴らした。
「私は見ての通り、無様に老醜を晒しておる。まったく、歳月には勝てぬものだ」
「お戯れを」
父にはとうてい似合わない弱々しい言葉に、マルトーは慌てて食い下がった。
「お父様はまだご壮健でいらっしゃる。私にはそう見えます」
「マルトーは父贔屓だな」
アントンは喜ぶ様子もなく、視線を手元の書類に戻した。
「大陸を支えるべき大元帥の職責が、この小さな男を押し潰そうとしている。それだけのことよ」
アントンは投げやりに口を動かしながら、大陸の端で人や物を動かすことになるのだろう書類に次々と筆を走らせる。
マルトーはその姿をただ呆然と見つめるしかなかった。
何と返せばいいのだろうか。今の父には何を言っても、軽くあしらわれるだけではないだろうか。
本当は、東方辺境で見聞したこと、新月地区のこと、ギムナスのこと、自分自身の想い、それらを父に報告し、父と共に対処方法を考え、解決するための糸口を見つけ出したいと思っていた。だが、これは時を改めた方が良いのではないだろうか。そんな考えが頭を過ぎった。
多忙の極みにいるアントン・ラグラスがせっかく家にいるのだ。ゆっくりと休息を取ってもらった方がよいのではないだろうか。月もかなり西に傾いている頃だろう。今日は朝早くから叙任式があり、今は夜も更けた。父も自分もお互いにすっかり疲弊している。父が弱々しい言葉を吐くのも、疲れを感じている証拠だろう。それであれば、帝国の問題を並べ立てて話し合っても、有益な結末には至らないのでないだろうか。
椅子に取り付けられている年代物の金具が軋んだ。マルトーが意識を父に戻すと、アントンは怠そうに椅子の背もたれに体を預けていた。お互いに時間は有限だぞ、と呟いたその声音は柔らかかった。
「無為にするには時間は貴重すぎる。そなたは私に話したいことがあるのだろう」
落ち着いた声とは裏腹に、娘を試すような光が瞼から覗く。
容姿が老いてもその眼だけは衰弱を知らないかのように鋭い。夜の帷に一つの穴を穿つ月のようで、圧倒的な存在感がマルトーを押し潰そうとする。
マルトーは自分が逃げようとしていた事に気がついた。父の聞き慣れない言葉を理由に、正当性を主張してこの場を離れたかったのだ。無意識のうちに、自分は悪くない、という理由を添えて。
マルトーは拳を握りしめて、息をゆっくり吸い、背中を一杯に膨らませて自分を奮い立たせた。
「この度、お父様に意見具申させて頂きたく参りました」
弱腰になってはいけない。父に全てを伝えなければ。
無言でこちらを凝視する父の視線を、真っ向から受け止めた。
「この旅の間、帝国の混迷が極まっていることを実感しました。何よりも、領民の困窮は目に余るものがあります。東方辺境の領主達は自分の領土を守るために搾取を行い、その苛政に多くの領民が明日の食べ物にも事欠く程逼迫しております。土地を捨て逃散する輩も後を絶ちません。土地を離れた領民は匪賊か流民となり、その一部は帝都にまで押し寄せています。これは輝かしき帝国の姿とは到底思えません。早く手を打たねば、帝国は土台から崩れてしまいます」
もう知っているのでしょうね。その言葉はぐっと喉の奥に堪えた。
「お父様が大元帥となられて、様々な改革が行われているとも耳に及んでおります。私たちはその改革の成果を待つしかない。すぐに成果がでるものでは無いのでしょうし、不断の努力を継続すれば、時間と共にゆっくりと改善に向かうのだと信じています。けれども、飢えた民達に時間はありません」
私がこんなことを言っても良いのだろうか。一介の、今日騎士に叙任されたばかりの、政道の事など何も知らない自分が。
それでも言わなければいけない。今ここで言わなければ、この後機会を得ることができるか分からない。何よりも、次に機会を得る前に、あの陰鬱とした瞳を持った騎士達が蠢き、父の進む道と交錯してしまうかもしれない。
お互いが帝国のためを考えているのに、無闇に衝突するのは不幸だ。
「不幸に堕ちた民は、目に見える救済を求めています。如実に成果を感じられる、分かりやすい救済を」
「救済、か。何か具体的な案はあるのだろうな」
アントンの鋭い視線に息を呑みながらも、マルトーはゆっくりと頷いた。
マルトーが提案した具体案は大きくまとめて三点。
一つ目は東方辺境領主達の苛政を取り締まること。
巡察使に今よりも強い調査権と裁判権を付与し、悪政を行う領主には厳罰を持って応じる。
二つ目は流民の対処。
帝都において取り締まりの対象となっている流民を本格的に保護し、黙認されている新月地区を正式に開放し、炊き出しなどの食料援助を行うこと。
三つ目は賊徒の徹底的な討伐。
街道や各地方領に出没する賊徒を取り締まり、また殲滅すること。大陸の東西を行き来する隊商の安全確保と共に、賊に堕ちても幸せにはならないことを民に知らしめること。
これらはマルトーが東方辺境の旅をしている頃から暖めていた考えだ。実体験から得た着想と言っても良い。
「巡察使隊は騎士見習いに対する騎士叙任試験という側面が強く、裁量も小さいため地方領における領主の行状を事細かに調査することが出来ません。領主側に不利な面は全て隠されてしまいます。その結果、領民は圧政の下に苦しみ、流民や賊徒を増やす結果になっています」
帝国の財政は地方領主である貴族と帝国直轄領に住まう臣民から税を取り立て、出費の嵩む国庫を賄っていた。臣民の大半は商いに精を出し、帝国に支払う税を稼ぐ。対して貴族達は帝国が臣民に行うように、自領の領民から税を取り立て、帝国に収める。その税の搾取が苛烈さを増している。
本来は巡察使が領主達の横暴を抑制しなければならないのだが、今の巡察使達には領主が搾取を行っている証拠を押さえる手だてすらないのだ。
さらに、地方領内での武力の行使は、自衛手段以外制限されている。訪れた地方領で賊徒が跋扈していても、剣を抜くことができない。
領主が賊を放置していれば、その分だけ領土がすさんでいく事になる。
マルトーが巡察した東方辺境では、幾たびも悲惨な光景を眼にした。
賊に焼かれた集落。実りもなく荒れた田畑。親を失った子ども。子の亡骸を抱きかかえる母親。何かをしなければならない。マルトーの正義感、義務感が胸の中で激しく疼いた。しかし巡察使には、しかも一介の帝国騎士見習いには領民を助けることはできない。領民は領主貴族の支配下のものであり、帝国騎士といえど領主の許可なく領民に手を差し伸べることができない。
それに、助けるといっても目の前の領民に食べ物を与えて良し、とするだけでは不十分だ。もっと大きな何かをしなければならない。
東方辺境を蝕んでいる問題は、マルトーが初めて見つけた問題ではない。ここ数年続いている病魔であり、既に帝国の上層に報告されていて、大元帥府も熟慮を重ねて対応を考慮しているはず。であれば、既に対応策がまとめられているのではないか。
アントン・ラグラスはどんな難問でも、朗々と響く鐘の音のように理路整然と答えを出す。大きな障害だって何度も乗り越えてきたのだ。ギムナスは父の様子を倦み疲れていた、と評していたが、そんなことあるはずがない。父ならば、大陸全土の民に大きな救いの手を差し伸べられる。
「父上!」
マルトーは期待のこもった眼差しを前に向けた。
しかし、アントンは違った。
叩けば響くはずの鐘の音は返らず、ただじっと考え込むばかりだった。蝋燭の火は揺れることもなく次第に短くなり、灯心草の焦げ付く音さえも耳に届いた。
ようやく息を吸い込む気配があり、続いて重く嗄れた声がマルトーの耳に届いた。
「的確で模範的な提案だな」
その声は寒々としたものだった。
「各地方領への帝国の不介入は帝国建設以来の伝統だ。領主の要請か、領主自身が帝国へ反逆を企てていない限りは、帝国の武力を各地方領に介入させるつもりはない」
予想外の回答だった。マルトーの想定では自分の提案よりもさらに豪腕な策が既に練られているものだと思っていた。自然と声が大きくなる。
「何もしない、ということですか。それでは領主達の乱暴な徴税が収まりません。民心も帝国から離れてしまいます」
「そなたの懸念はもっともだがな」
アントンは一つ頷いた。
「何故、地方の領主貴族が揃いも揃って今、徴税の苛酷を極めているか、そなたは理由を知っているか?」
問われて、マルトーは旅の間に見聞した地方領主達の顔や生活ぶりを思い返した。巡察使隊が領主に対し徴税が厳しすぎるのではないかと訊ねた際、領主達は決まってこう言い訳をした。
「商人達が彼らの財産を奪うからだ、と地方領主は主張しておりました。帝国の改革によって商人達が有利になり、これまで以上に貴族の財産が搾取されている、と」
マルトーは口を動かしている内に、旅の間に何度も去来した、憤然とした怒りが込み上げてきた。
「でも、それは言い訳に過ぎませぬ。己の傲慢と怠惰を棚上げして帝国に異議を申し奉るなど、領主共の恥ずべき言動です。彼らには領民を護る義務があるのに、血が腐敗しているとしか思えません」
アントンは、昂然と憤る娘に手で自制を促し、目を瞑りながら首を振った。
「領主達の主張もあながち間違いではあるまい。確かに帝国は商人達を手駒とし、貴族から財産を略取しているのだからな」
最初、何を言われたのか、マルトーはその意図が理解できなかった。
不穏な揺らぎを含んだ声音だったことだけは聞き取れた。何を仰るのですか、と訝しんで父を見ると、その眼は蝋燭の光を反射させて赤くなり、机上を彷徨いながら闇の中に溶けて、頼りなく先細りしていた。全体が橙色に染まった顔の中で瞳と時折溢れる歯の白さが禍々しく見える。
父は薄く笑っていた。
「私なのだよ。民を迫害し、虐政を蔓延らせている元凶は、間違いなく私なのだ」
冷涼な水の流れにも似た、深く澄んだ声だった。信じられない気持ちでマルトーは目を凝らし、薄暗がりの中で椅子に腰掛ける父親の朧気な姿を見つめた。
「私の改革は特に商人達に大きな自由を与えた。結果、商人達は地方貴族や領民を相手に莫大な利益を得ることとなった。つまりはそういうことだ。今や貧困に苦しむのは領民だけでは無い。貴族でさえ、明日の朝を保証できぬほど貧しておるのだ」
「それは決してお父様の責任ではございません。過去の威光と血筋だけを頼りにして、己の才覚の研磨に怠けた、領主自身が負うべき責です」
「これまでの滞った時の変遷に身を任せていれば、領主達はこれまでと変わらない存在であれた。才覚は無くとも領主と領民の関係は穏やかなまま維持していた。彼らに変革を迫ったのは私だ。領主と領民の関係を破壊した要因は、紛れもなく私の決断にある」
「ここで変革を求めなければ、帝国は緩やかに滅びの道を邁進することになったでしょう。国庫の危機を曝いたのはお父様ご自身です」
「その通りだ。浪費が続き国庫は空も同然。帝国の窮乏が大陸全土の将来に与える影響は、地方領主のそれとは比較できぬ。民に対し真の安寧を付与するために、帝国が脆弱であってはならぬ」
「なればこそ、お父様の改革は必要だったのです。お父様の帝国の財政を立て直す施政は間違っているとは思えません。それは民心にだって理解できます」
「その考えこそ傲慢だ」
アントンの言葉に、一層の厳しさが重く増す。
「為政者には、民の苦しみを理解する不断の努力が必要だ。だが、民に理解されようと願ってはならぬ。民におもねり、民の本願を叶えることは、必ずしも帝国のためにはならぬ。また、民に許しを請うてもならぬのだ。政道の事情を説き伏せ、許しを求めても、結局は手を施すことなどできぬのだからな」
「ではお父様は、苦しむ領民達を見捨てるのですか」
肯定か、否定か。
マルトーは息を呑んで回答を待った。アントンもまた、身動ぎも無くマルトーを見返している。
何を訴えても、時を待て、の一点張りさ。
大元帥閣下は気怠そうにして、政治を語るのも倦み疲れたといったご様子でした。
ギムナス達から聞いたアントンを評した言葉が頭を過ぎる。
そんなはずは無い。父に限ってそんなはずは無い。ギムナスにも語らない、語ることの出来ない事情があるに違いない。父は常に巨大な壁を乗り越えられる、強い人だ。民のつらさが分かる優しい人だ。力強い目で、必ず答えてくれる。帝国を救い、民を救う、と。
マルトーはじっと父の目を見つめた。
その瞳は階段の踊り場に掲げられた母親の像と似ているようで、しかし違っている。
ミシェリを産んですぐに他界した母親は、今や彩色と筆の流れによってのみその存在を許されたかりそめの形となった。一方の父は今まさに目の前にいる。父は次の瞬間には椅子から立ち上がり、行動者として進むことができるはずだ。為政者としてではなく、娘の親として、人間として、血の通った暖かみを示し、闇を払拭することができるはずなのだ。
だが、父はマルトーの目の前で暗闇に浮かぶ絵画となった。言葉を紡ぎ出さないままの父の呼吸は、無言こそが答えであり、父の意志であることを雄弁に語っている。
身体を締め付ける空気に耐えられなくなったマルトーは、すうっと頭を下げた。
「身に不相応な問いでありました。失礼をお許し下さい」
目を瞑り、望んで闇が拡がることを選んだ。アントンは娘の謝罪には何ら感情を示さず、部屋の隅の蝋燭の明かりも届かない暗闇の深淵に視線を伸ばした。
「そなたは旅の間に、賊の討伐を経験しているか?」
不意の問いに、マルトーは反応が遅れた。返事を待たずにアントンは続ける。
「自ら耕すべき土地を離れた領民どもが群れをなし、蜂起を繰り返しておる。しかも月が進むにつれ数は多くなる一方だ」
「はい。幾度か賊と刃を交えることがありました。帰路の途中に、帝都のすぐ近郊でも遭遇したくらいです」
「帝都とて安穏とはしておれんな」
アントンは深く溜息を吐きながら、渋い顔で机の引き出しから幾重にも重なった書類を取り出した。
「各地の領主から近衛兵団を派兵するよう要請が断続的にきている。これはその報告の一例だ」
薄い紙が何枚も重ねられた文書を受け取った時、たかが数枚の紙切れが重くマルトーの腕にのし掛かった。読み進めるうちに、マルトーの顔は段々と渋みを増した。これは、と口にした後の言葉が続かなかった。
「無様であろう?」
そう問われてもマルトーは頷くことも、横に首を振ることも出来なかった。信じられない事件がその文書に記されていて、驚くよりも呆然としてしまった。
「それが今の帝国の実情だ。辺境とはいえ、近衛兵でさえ帝国に剣を逆立てる時勢なのだ」
「でも、この騎士達は民を護ろうとして」
「抗命罪は明らかだ。どのような理屈が背景にあったとしても、その行動は激情に駆られての独断に過ぎぬ」
「そして、同じ近衛兵が彼らを討った、と」
「命令無視を容認してしまえば、帝国は自らの軍事力を制御出来ないという失態を大陸全土に見せびらかす事となる。近衛兵への命令は、尊く遵守されなければならなんのだ」
アントンは微かな罪悪感の素振りさえ見せず、淡々とした佇まいを保っている。それは武人らしい重厚な振る舞いで、崇高な白亜の王城に住まう統治者としての目線から語っている。決して間違いではないし、マルトーには言い返す言葉が見当たらなかった。
口を開いては閉じ、それを二、三度繰り返した後、伏し目がちに俯いた。
「非常に、残念です」
マルトーは書類をアントンの大きな執務机の上に戻した。
「それだけか?」
父の問いかけの意図をくみ取れず、マルトーは下げた上半身を慌てて戻した。嘆息が期待に添わなかっただろうか。それとも無礼な物言いを叱責されるのだろうか、と身体に再び緊張が走った。
だが、アントンの意識は別のものに向いていた。
「報告すべきことはそれだけか?」
淡々とした問いかけに、マルトーは言葉をつまらせながらも、それだけです、とようやく答えた。
「東方辺境の印象も、領民への苛政ばかりであったか」
「はい。あ、いえ。他にもありました」
マルトーは父親の顔を見返した。
「極めて善良な統治姿勢で、民と共に栄えている貴族もありました。たしか、フランドル伯爵領といったか。当主殿はお父様とも面識があるそうで、丁寧なご挨拶を頂きました。是非にも宜しくお伝え下さい、と」
マルトーは東方辺境で唯一帝都に並ぶ程繁栄に満ちあふれていた街を思い返した。
石畳で綺麗に舗装されていた、縦横を緻密に走る街路。東方の屋根と呼ばれるオーゲン山地から切り下ろした白や、黒の大理石で飾られた建物。門前市にも負けない露天と品物の数々、翠原の部族の隊商が列をなし、夥しい人出が街中を埋め尽くしていた。
そして人々の顔に浮かぶ、自然な微笑み。貧困と飢餓が猛威を奮う東方辺境の漆黒の中に、一際輝きを見せた一粒の宝玉。
そうか、とアントンは物憂げに頷くだけで、興味を示しはしなかった。ただ、フランドル伯爵の名前を出したときの、一瞬の双眸の鈍い輝きが、娘の目には気味悪く残った。
「近衛兵団の第一師団であったな」
突然話題が変わった。
配属先の話だと理解はできたが、今の話の流れで何故自分の配属先が出てきたのかは理解できなかった。はい、とマルトーが頷くとアントンは改めて、マルトー・ラグラスよ、と娘に呼びかけた。
「大元帥としてそなたに本来の職責とは違う特務を与える。帝国騎士団、特に近衛兵団の内部に不埒な考えに身を委ねる叛徒共が潜んでいる。その者達の調査に協力せよ」
「私が、調査を、ですか」
「方法は任せる。報告は定期的に、指定された相手に伝達すること。不服か?」
「まさか。お父様のお役に立てるのであれば」
娘の言葉をアントンは満足げに受け止めた。
「もうよい。明日も早い」
マルトーは丁寧に辞去の挨拶を述べ、大人しく父親の執務室から去った。戸が閉まる瞬間にちらりと執務室の中を覗いた。隙間に見えた父親の姿は草臥れていて、その縒れた背中は窓の隙間から吹き荒ぶ風に震えているようにも見えた。
マルトーは自分の部屋へと足早に歩いた。
お父様のお役に立てるのであれば。
答えるのに躊躇はなかった。そう答えるしかマルトーに選択肢はなかった。
元々父の役に立つため、父の力になるために選んだ帝国騎士という道だ。叙任されたばかりで貢献できる機会が巡ってくるのであれば、その機会を逃がさないのが孝行というものだ。
何よりも、もし父からの頼みを断ったら、疑念の目を向けられるかも知れない。自分はギムナスに会っている。そして、父もまたギムナスに会っている。ギムナスが王党派であることを父は感づいているのではないだろうか。
いや、おそらく確信しているだろう。そして、親しかった私に調査を命じたのだろう。自分が引き受けなければ、別の誰かがこの任務を言い渡されていただろう。そして、その誰かは容赦なくギムナスを追い詰めていく。
それは避けたい。避けなければならない。彼を暴発させてはいけない。
しかし、どうすれば良いのか。自分がギムナスを庇えば、その分だけ父を裏切ることになる。ギムナスは帝国の事を、民の事を考えて行動しているだけだ。父も同じ目標のはずだ。二人をどうしても協力させたい。昔のように、父の背を二人の目標としていた、あの頃のように。
自室に入ると、まっすぐ寝台に倒れ込み、仰向けの姿勢で天井を見上げた。窓から差し込む夜空の明るさで、天井の木目模様が青白く浮かび上がる。濃淡の線で描かれた木目は、渓流のようにうねっている。
今日一日だけで、どれだけの奔流にのまれ、振り回されたのだろうか。体はくたくたに疲れ、もはや涙を掃き出す哀しみは無く、嘔吐感も消えていた。代わって全身を支配しているのは無力感だ。
自分はあまりに無力だ。
それは失望でもあり、自己嫌悪でもある。
自分には結局、覚悟が無かったのだ。はっきりと気がつかされた。
帝国は自分が思っていたよりも歪み、拗れている。
それを知っても、自分にはどうにかしようとする大志を抱く気になれず、ただただ、父がどうにかしてくれる、という身勝手な信奉しか至らなかった。
だから、幼馴染みの青年が憂国の騎士へと変貌していく姿を隣で見た時、動揺して、狼狽えて、困惑した。ギムナスの憤りを収めることも、共感することもできなかった。のこのこと彼の後に付き従い、結局、背中を向けて逃げ出した。全てが中途半端だ。
王党派の彼らは行動している。自分は命を賭して大志を叶えようとする彼らには敵わなかった。自分には地面に突き刺した剣を横に倒す勇気が無かった。相手の指先からは、自分の命を奪う覚悟がひしひしと伝わっていたのに。
それに比べて自分は何だ。自分が心の中で燻らせていたものは何だったのだ。我が身の愛しさに、耳当たりの良い言葉を求めて、飛びついているだけではないか。
きっと、そうだ
そう、できるはずだ
そんな甘い言葉に安易に手を伸ばして、自分の不安を誤魔化していた。
矜恃も誇りも消えた。己への過信が全て剥がれ落ちた。初めから無かったのかも知れない。あったのは泥だけ。美しいと思っていた覚悟が、泥で出来た出来損ないの偶像だと知った。
今日だけで随分と歳を重ねた気がする。だが、自分の中で何が変わったのか、自分では分からない。肩書きが変わった。騎士見習いから帝国騎士になった。それだけだ。中身は何も変わらない。身勝手で無力な小娘のままだ。
まるで道化ね。
マルトーは小声で呟いた。
肩が重い。頬の傷がひりひりと痛む。今はとにかく眠りたい。何もかも考えずに、窓も扉も閉め切って、暖かい毛布にくるまったままいつまでも寝ていたい。自分のことも、周囲のことも、未来のことも、全て暗闇に押し込めたい。
迫り来る睡魔に身を任せながら、ウェッタの最後の質問を思い返していた。
ギムナスが私に死を求めたら。
そして、それに対する沈黙の回答。
闇の中に浮かぶ父親の姿を思い出した。あの人もまた沈黙で娘の問いかけに応えた。
自分は父親に似ている?
嫌悪感が、頭にふわりと浮かんでは消えた。