第四章 断髪文身もいいもんだ。
窓から爽やかな風が入り込み、俺の髪を揺らす。昨日まで降り注いでいた中途半端な雨もその姿をきれいに消していた。
先月末に席替えがあって、今は教室の一角、左から三番目、後ろから二番目に置かれた少し傾いた机が俺の席だ。そのすぐ前には燃代の席もある。
元来、成績も運動も顔の良ささえも中途半端な俺にとってこの席はコレと言って良いほど、似合っていた。
席替えをする前の席は、隣がキャピキャピしたイマドキ女子という名の魔物の巣窟だったので、五月蠅くて参っていたものだ。
ホント五月蠅いよな、あいつ等。何であんなどうでも良いことで楽しくお喋りが出来るんだよ。どいつもこいつも同じような顔して見分けがつかねぇし。
俺なんて人と話すとすぐ話題切れになって「えーと、天気いいっすね」とか言って微妙な空気になるのによ。あの空気って気まずいよなぁ。
そんな過去の中途半端な記憶を思い出してセンチメンタルな気持ちに浸っていた俺はチラリと前の席をみる。
燃代千夏───熱すぎる友情を持った我が委員会の最終破壊兵器である女の子だ。
燃代は黒板に書かれている三角関数の公式を自分のノートに写している。その姿は何処の学校にも居るようなちょっと可愛い普通の女子に見える。
コイツもこうしてれば可愛いんだけどなぁ。如何せん暴力的すぎる本性があるのは問題だ。
それにしても燃代がクラスではあの熱血キャラは隠している事には少し驚いた。そうゆう調整が出来る奴だとは思わなかった。
なんでも前にそれで嫌なことがあったらしい。まあ、嫌なことが何かは知らないし、余計な詮索をするのは性に合わないので、あまり気にしないことにした。俺には関係ないしな。
燃代の赤みがかった髪の毛がノートにペンを走らせる動きにつれて左右に揺れる。それを目で追って楽しんでいると後ろから声をかけられた。
「女子の髪の毛を追いかけるのは楽しいか、小長井。次は首だと言ったはずだが覚悟しているという事でいいのかな?」
あろう事か、そこには修羅の顔をした数学教師兼特殊委員会顧問の滝浪紫乃先生が仁王立ちしている。
さながらゴゴゴゴと言う効果音がついていそうだ。やべえ、スタンドとか使えんじゃね? この人。
爽やかな風が教室を包んでいるというのに、タラリ、と汗が額を流れ落ちるのを感じる。頭の中は必死に言い訳を考えて既にパンク寸前。
「や、違うんすよ。別に遊んでた訳じゃなくて……、そう! これは精神統一の一種なんですよ。揺れ動く髪の毛一本一本を目で追うことで気持ちを落ち着け、悟りの境地に達するというシステムになってます!」
「問答無用っ!!」
ガシッ、と俺の髪の毛は引き抜くような握力で引っ張られる。そのまま首ごと滝浪先生の前に出された。
何で俺のクラスには生徒といい教師といい暴力的な奴が多いんだ、畜生! 将来俺がハゲたらどうしてくれるんだ。せめて四十過ぎるまではフサフサでいたいのに。
逃げるように体をひねり、俺の毛根を絶滅の危機に晒している魔の手から離れる。
しかしそこに、ズドン、と巨大隕石が墜ちるように手刀が振り下ろされ、俺の首に直撃した。
「──‥‥‥~っ!!!」
声にならない悲鳴を上げ、床にうずくまる。ぐおおお、痛いというより既に神経が麻痺しそうだっ!
「後で職員室に来いよ、小長井」
そう言い残すと黒板の前まで戻り、何事もなかったかのように授業を再開する滝浪先生。周りの生徒たちも講義を聴くのに集中し始める。
くっ! 薄情者共め! 少しは心配してくれても良いじゃないか。
まあ、滝浪先生が暴力的なのは今に始まった事ではないので、皆慣れてしまっているのだろう。慣れって恐いね。改めてそう思いました。
俺が首に残る強烈な痛みの残滓をなんとか耐え、自分の席に戻ると燃代がこっちを見て可笑しそうに笑っていた。
「たははっ、ドンマイ! 小長井君」
「へっ、うるせぇよ」
「紫乃ちゃん怒らせたら怖いからね~。アタシの髪が見たいなら後でいくらでも見せて上げるよ」
「いい、俺は髪の毛フェチじゃないから。強いていうなら匂いフェチだ」
「へ、変態だ……」
性癖を暴露した俺に退いた様子の燃代は板書をノートに写す作業に戻る。
アレだよね。運動した後の女子の汗の匂いとか良いよね。何かこう酸っぱい匂いが鼻をつくのがたまらないというか。……あれ? 俺がおかしいんじゃないよね。みんなも良いと思うよね?
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
首の痛みが気にならなくなったと思ったら、既に放課後だった。
あまりに早く感じたので一瞬、時間操作能力に目覚めたのかと思った。
クラスの連中はそれぞれの目的地に移動するため教室を後にしていく。ある人は部活に、またある人は自宅に、そしてある人は委員会へと足を運ぶ。
教室を出かけている燃代を見つけ声をかける。
「燃代、委員会行くのか?」
「ん、小長井君か。そうだよ~、ミッちゃんも待ってるだろうから急がないと。」
「ミッちゃんミッちゃんって、そんなに深暗沢の事が好きなのか? あれか。百合とかいう奴なのか」
「違うよ~。ミッちゃんの事は好きだけとそーゆーのじゃないよ。ただ、ミッちゃんにはお世話になったからね。恩返しがしたいだけかな?」
「あ? 恩返し?」
「そ。恩返し」
何だろう? 深暗沢との間に何かあったのだろうか。まあ、俺には分からないことだ。考えても仕方ない。
燃代の後について特殊委員会の教室に向かう俺。廊下を歩きながらたわいもない会話を続ける。
委員会に入ってからもう一週間か。最近は委員会に行くのが習慣になりつつある。やっぱり慣れは恐い、恐い。
窓か流れ込む涼しげな風と共に運動部の練習する声が聞こえてくる。夏を間近に控えた彼らにとって、今の時期は一番の頑張りどころなのだろう。
そこで、俺は一週間前の燃代のせりふを思い出した。
「そう言えば、お前何か部活やってんだよな?」
「えっ? あぁ“部活”ね………」
「遅れてきた理由で部活がどうとか言ってたよな」
「うん、まあ。そうなんだけど……」
そこで言葉を詰まらせる燃代。あれ、俺いけないこと言っちまったのか? コイツが黙っちまうなんて相当のことだ。
少しの間、頭を抱え込むように悩んでいた燃代はいつもと違い少しテンションを低くして、たはは、と笑う
「アタシね、部活やめたんだ」
「えっ─────?」
突然の告白に今度は俺が口をつぐんでしまう。
委員会に居るときはいつもいつも前向きで、スーパーポジティブシンキングで、なんにでも熱く振る舞う燃代の姿を見ていたので、やめた、と言う後ろ向きな言葉が出てきたことに驚いたのだ。
燃代でも何かを途中でやめてしまうのか? あのバカみたいに熱い燃代が? そんな馬鹿な。
俺は軽くショックを受けながら、それでも声を絞り出す。
「何でやめたんだよ? お前みたいな奴なら運動部から引っ張りだこだろ?」
「いや、ミッちゃんのお世話とかあるし、……それに…」
「それに?」
深暗沢を理由に頑張っていることを投げ出すような奴ではないだろう。コイツはどんな時でも全力なハズだ。一週間もコイツ等を近くで見てきたんだ。それくらい分かる。
そう思いながら燃代が言い掛けた言葉の続きを探る。
燃代は悲しげな表情で少し考えた後、呟くように言った。
微かな、些細な音でかき消されてしまうほど小さく、普段の燃代からは想像できない弱気な声だった。それでも俺の耳にはちゃんと届いた。
燃代は俺に、
───小長井君には関係無いから。
と、言ったのだ。
曲がり角を曲がると目的地と言うところまで来ていた。
燃代は逃げるように走っていった。
窓から爽やかな風が吹き込んで俺と燃代の間に出来た空間を静かに流れる。その風が燃代の髪を揺らす。ひらり、ひらりと舞うその髪は力強く、美しく、燃えるように熱く───────どうしようもなく儚く見えた。
俺は、はぁ、と溜め息を着く。
いいんだ、これで。
俺達は無視するわけではないが、互いに干渉せず互いになれ合うわけでもない、知り合いではあるが友達ではない様な中途半端な関係なのだから。
いつの間にか慣れ親しんでしまった黒髪の社会不適合者の待つ教室に向かい俺は、一歩ずつ歩を進めた。