第1章 「黙殺」 第2話 宮田洋司という男
午前九時。目黒署・強行犯係の会議室には、コーヒーの香りと紙の擦れる音が混ざっていた。
秋月は資料をめくりながら、隣の刀根にぼそりとつぶやく。
「……朝から重いな、これ」
「お前、朝から軽い事件なんて期待してんのか?」
「期待はしてませんけど、希望はあります」
「希望で事件は軽くならねぇよ」
そこへ、魚沼が静かに入ってきた。手には監察医・藤原からの初期報告書。
「監察医から。死亡推定時刻は“二週間前後”。
死因は高所からの転落による全身打撲と内臓損傷。
外傷は転落由来のみ。争った痕跡はなし」
「二週間前後か……」刀根が腕を組む。「誰も気づかないもんかね」
「気づかれなかった、というより“見られてなかった”んでしょうね」秋月が言う。
「見られてなかった?」
「はい。あの工場、誰も近づかないじゃないですか。住民も“見てもスルー”って証言してますし」
「……そういう意味の“見られてない”か」
そこへ片桐係長が資料を抱えて入ってきた。
「よし、始めるぞ。宮田洋司について、ざっと洗った」
スクリーンに映し出されたのは、笑顔の宮田洋司。しかし、その笑顔はどこか貼りついたようだった。
「宮田工業は十年前に操業停止。理由は……まあ、簡単に言うと経営の失敗だ」
「簡単に言いすぎじゃないですか?」秋月が突っ込む。
「細かく言うと長くなる。設備投資の失敗、取引先とのトラブル、従業員の大量離職……」
「離職?」刀根が眉を上げる。
「パワハラ、長時間労働、給与未払い。三拍子揃ってる」
「うわぁ……」秋月が顔をしかめる。
「つまり、恨まれる理由は山ほどあるってことですね」魚沼が淡々とまとめる。
「そうだ。恨まれすぎて、逆に誰が犯人でもおかしくないレベルだ」
「逆に困るパターンですね」秋月が肩をすくめた。
片桐がホワイトボードに書き出す。
・死後二週間前後
・死因は転落
・争った痕跡なし
・階段の手すりは“最近折れた”
・足跡は少ない
・スマホのSIMカードが抜かれている
・宮田が工場に来ていた形跡はない
「……で、問題はここからだ」片桐が言う。
「自殺か、事故か、他殺か」刀根が腕を組む。
「自殺にしては準備が雑です」魚沼。
「事故にしては場所が不自然です」秋月。
「他殺にしては痕跡が少なすぎる」刀根。
「おい、全部に“しては”が付くのかよ!」
「はい。どれも決め手に欠けます」魚沼が淡々と返す。
そこへ、鑑識の高倉が会議室に入ってきた。
「遺体の服の繊維、階段の破断面、全部調べた。手すりは“外力で折れた”可能性が高い」
「外力?」刀根が身を乗り出す。
「宮田が自分で掴んで折ったにしては、破断面が綺麗すぎる。工具か、何かで負荷をかけた跡がある」
「つまり……誰かが“落ちる準備”をした?」秋月が言う。
「断定はできんが、自然に折れたとは思えん」
空気が少しだけ重くなる。
そのとき、会議室のドアがノックもなく開いた。
「失礼します。警視庁捜査一課・宮本班、入ります」
秋月と刀根が同時に顔を上げる。
この声を聞けば、誰でも背筋が伸びる。
先頭に立つのは宮本班長。
四十代後半、黒髪を後ろでまとめ、スーツの襟元まで一切の乱れがない。
目だけが鋭く、状況を一瞬で把握する“切れ味”を持つ女性だ。
その後ろに、金崎と杉下。
金崎は無表情で、何を考えているのか読めない。
杉下はにこにこしているが、笑っているときほど危ないと噂されている。
「元社長の転落死か……で、どうなの?」宮本班長がホワイトボードを一瞥する。
「自殺か、事故か、他殺か……全部“しては”が付いて決め手に欠けます」秋月が答える。
「便利な言い方ね」宮本が皮肉っぽく笑う。
「便利じゃないですよ。困ってるんです」刀根がぼやく。
「困ってるなら、動きなさい。うちは後ろから見てるから」
それは“任せた”という意味でもあり、“失敗するなよ”という意味でもある。
宮本班はいつもそうだ。派手に手を出さないが、事件の核心には必ず近づいてくる。
「必要になったら呼んで。……必要にならないのが一番いいけど」
宮本は軽く手を振り、班員を連れて出ていった。
「……あの人、相変わらずだな」刀根がため息をつく。
「でも、あれで“期待してる”って意味ですよ」秋月が言う。
「期待されても困るんだよなぁ……」
そこへ再び高倉が戻ってきた。今度はタブレットを手にしている。
「宮田のスマホ、解析が進んだ。最後に使われたアプリがわかった」
「何だ?」片桐が身を乗り出す。
「動画配信アプリだ。しかも──
“宮田工業の元従業員が会社の闇を暴露するチャンネル”を頻繁に見ていた」
「……うわ、現代的な火種きたな」秋月がつぶやく。
「炎上系かよ……」刀根が顔をしかめる。
「宮田は、これを見ていた?」片桐が確認する。
「かなりの頻度でな」
秋月が腕を組む。
「つまり──宮田は“誰かの声”を見ていたわけです」
「声を見てた?」刀根が首をかしげる。
「はい。そして、その声を“消したい人間”がいた可能性があります」
会議室の空気が、少しだけ変わった。
宮田洋司の死は、ただの転落ではない。
“誰かの声”と“誰かの沈黙”が絡み合う、奇妙な事件の幕が上がったばかりだった。




