第1章 「黙殺」 第1話 沈黙の落下
廃工場の敷地に春の風が吹き抜けた。錆びた鉄骨が軋み、割れた窓ガラスが揺れる。
人の気配が途絶えた場所に、突然、中学生の叫び声が響いた。
「おい、これ……人じゃね?」
通報を受け、目黒署のパトカーが砂利道を跳ね上げながら入ってくる。
先頭から降り立ったのは強行犯係長・片桐。白髪混じりの眉をひそめ、現場を見渡した。
「……また厄介な場所で見つかったもんだな」
遺体は工場裏の排水溝のそばに倒れていた。死後数週間。
腐敗は進んでいるが、転落死であることは明らかだった。
鑑識の高倉哲平が、手袋をはめながら片桐に声をかける。
「身元、確認できました。宮田洋司、五十六歳。ここの元社長です」
「元、ね……」
片桐は廃工場の巨大な影を見上げた。倒産して三年。
従業員は散り散りになり、宮田は姿を消した。その男が、誰にも気づかれず、ここで倒れていた。
そこへ砂利を蹴散らしながら二つの影が走ってくる。
「遅れてすみません!」
秋月優作が息を整えながら現れた。黒いコートの襟を立て、髪をかき上げる仕草が妙に芝居がかっている。
「朝っぱらから廃工場かよ。湿気で靴がベタつくんだよな」
刀根真司が顔をしかめる。
「靴より現場の心配をしてくださいよ、刀根さん」
「お前は朝から真面目すぎるんだよ」
軽口を交わしながらも二人の動きは早い。
強行犯係の三人――秋月、刀根、魚沼――は署内で“目黒署の秋刀魚”と呼ばれている。
名字の頭文字を取ると、秋・刀・魚。
係長がメモの分類で使ったのが始まりだったが、いつの間にか署内の呼び名になり、
さらに縮まって“目黒の秋刀魚”になった。
「魚沼は?」片桐が尋ねる。
「……屋上に先回りしてます」
刀根が指差すと、工場の屋上の縁に小さな影がしゃがみ込んでいた。
魚沼美咲。風に揺れる髪を押さえながら、転落地点を見下ろしている。
「おはよう。朝から重いぞ、これは」
高倉が声をかける。
「落下角度、距離、着地姿勢……自殺の線は薄いですね」
魚沼は淡々とつぶやいた。
「いやいや、魚沼さん。まだ何もわかってないでしょ。まずは観察から始めないと」
「観察してますよ」
「あ、そう」
利根が苦笑する。
片桐が三人を集め、短く告げた。
「ここから落ちたってわけか。自殺か、事故か、他殺か」
「三択ですね」
「お前、そういう言い方するとクイズ番組みたいだぞ」
遺体の身元を聞いた刀根が眉をひそめる。
「元社長が、わざわざ自分の会社跡地で転落死か…」
「象徴的ではありますね。心理的に」
「朝から重い分析すんなよ」
三人は散開し、それぞれの視点で現場を調べ始めた。
秋月は工場の事務所跡に足を踏み入れる。散乱した書類、割れたパソコン、埃をかぶったホワイトボード。
その隅に、ひときわ新しい“足跡”があった。
「……誰か、最近ここに来てるな」
秋月はスマホで写真を撮りながらつぶやく。
刀根は工場の外で近所の住民に聞き込みをしていた。
「宮田さん?ああ……あの人ねぇ……」
「関わりたくないっていうか……」
「見かけても、みんなスルーしてたよ」
刀根は眉をひそめる。
「……扱いがひどいな」
魚沼は屋上の縁にしゃがみ、落下地点を見下ろしていた。風が強く、髪が頬に当たる。
「……この角度。自分で飛んだなら、もっと手前に落ちるはず」
彼女は小さく首をかしげた。
「自殺にしては準備が雑です。事故にしては場所が不自然です。他殺にしては痕跡が少なすぎます」
「全部に“しては”が付くのかよ!」
階下から刀根の声が飛ぶ。
「はい。どれも決め手に欠けます」
そのとき、遺体のポケットから古びたスマホが見つかった。電源は入らない。
しかし、SIMカードだけが抜かれていた。
高倉が片桐に報告する。
「係長、これ……誰かが意図的に抜いてますね」
片桐の表情が険しくなる。
「……これは、ただの転落じゃないな」
秋月がニヤリと笑う。
「じゃあ、始めますか。俺たちの出番ですね」
刀根が呆れ、魚沼が無表情で頷く。
目黒の秋刀魚――三人が、ひっそりと事件に火をつけた瞬間だった。




