ep.1 アシェル
爽やかな風が部屋を駆け抜け、少年の頬を撫でた。
心地よい眠りの底から引き上げられ、重たい瞼をゆっくりと開く。
「目を覚まされましたか?」
声のした方へ目を向けると、そこには癖のある黒髪を下ろした優しい乳母が立っていた。
「ああ……マナもういたの?」
「今日はよく眠っていらしたわね。さぁ、支度をしてご挨拶に行きましょう」
「うん……」
ベッドから体を起こし、乳母マナのもとへ向かった。
マナに手伝ってもらいながら、少年は身支度を済ませると部屋の外へと出た。
ゆっくりと長い階段を下りると、六人の老人が立っていた。
聖域の守人――
聖導師を支え、導き、護る六つの影。
長年この聖域を見守り続けてきた存在である。
「おはようございます、聖導師様」
「よくお休みになって」
「本日もお祈りを」
「真の聖導師となるためにも、日頃の怠惰は許されません」
「祈りを怠るべからず、理に背くべからず」
「世界のためにも我々には休む暇はないのです」
守人たちは口々に聖域の教えを口にする。
言っていることは、この聖域では当たり前のこと。
少年にとってはすでに慣れたことだった。
小さく一礼し、無言でその前を通り抜けた。
外に出ると仕事中の森の精たちが一斉に振り向く。
そして仕事の手を止め、少年に対し挨拶をする。
少年が軽く挨拶を返すまでが流れである。
少年の名はアシェル。
聖導師として生を受け、聖域で育った。
ここではアシェルという名を口にできるのはごく限られた人である。
この聖域には、聖導師に名はいらないという考えがあるからだ。
そのため、この名前は形ばかりのものにすぎなかった。
しかし、アシェルにとってはこの名は家族と自分をつなぐ大切なものであった。
名は父と母がつけた戯れだと守人たちからは聞いていた。
それでも顔の知らない親との唯一のつながりを感じるものであり、それだけで孤独なアシェルの心は満たされるのだった。
アシェルの母は前の聖導師。
母親が魔王に攫われてから、大樹に祈りを捧げる者がおらず、小さき頃からアシェルは“本物”の聖導師にならねばならなかった。
聖導師が本来持つ祝福の力。
アシェルは大樹から“生まれ”たのではない。
“腹から生まれた”例外であり、祝福の力は宿していながら、その扱いを知らなかった。
周りの期待を背負い、ゼロからその力の扱い方を習う修行は、終わりのない砂漠の旅路とも言える。
いつものように大樹へ祈る。
風の音と、葉擦れだけが世界の音になり、胸の奥がほんの少しだけ冷える。
(祈りは、どこへ届くんだろう)
守人は言う――
「大樹の声を聞け」と。
アシェルは、胸の奥に焦りを抱えたまま、両手をほどいた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
昼食ののち、しばらくは部屋で一人であった。
このあと、守人による魔法の特訓が待っている。
最近、アシェルは考えていた。
この日々は自分の意思か、それとも終わりなき運命の糸なのか。
「アシェルお疲れ様」
ドアをノックする音とともに乳母マナの娘ネリーがやってきた。
「ネリー……何か用?」
「冷たいわね。さっきお母さんから今日のアシェルは元気がないって話を聞いたから、お話相手になってあげようと思って来たのよ」
「別にいいよ」
口ではそう言いながら、胸の奥の緊張の糸が緩む。
マナとネリーは森の精である。
森の精はこの聖域を守る役目と聖導師を育てる使命がある。
マナはアシェルを育てることを守人から命じられている。
幼いアシェルを気にかけていたマナは、遊び相手に娘のネリーをアシェルに紹介した。
ネリーは森の精の中では幼いため、自身の使命に気づいていない。
そのためアシェルのよき遊び相手となっていた。
共に成長し、十五年ほど経ったがお互いの関係は昔のままである。
アシェルにとってネリーは唯一、本音で話せる姉のような存在であった。
乳母であるマナは確かに愛情を注いで育ててくれたが、聖導師であるアシェルに対して家族のように深くは接してこない。
それに対し、ネリーはアシェルには遠慮がない。
「なによ、冷たいわね。……冗談よ。今日は来客があるそうなのよ。私はアシェルを呼びに来たの」
「来客?聖域に人が入るなんて珍しいね」
「うん。勇者の仲間だった賢者らしいわ。珍しく守人様が許可したらしいわよ」
(勇者?その名を口にする人がまだいたのか)
一瞬、胸の奥がざわめいた。
「ふーん。わかった、行こうか」
アシェルは椅子から重い腰を持ち上げた。
「もう行くの?もう少し休んでもいいのよ」
「もう大丈夫だよ」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
魔王との決戦を終え、勇者を残し帰ってきた賢者がなぜ今になってアシェルに会いに来たのかはどうにも気になった。
応接の間にたどり着き、目の前の大きな扉が軋みながら徐々に開き始めた。
中には長い青髪を流した男が窓際に立っていた。
男はアシェルに気づくと深くお辞儀をした。
「お初にお目にかかります。聖導師様。私はエルヴァレンの賢者イゼルです」
エルヴァレンは賢者たちが住まう聖なる地。
イゼルはゆっくりと顔を上げた。
二十代後半ぐらいの顔立ちである。
年齢以上に、静かな落ち着きがあった。
室内にいるのは、アシェルとネリー、そしてイゼルだけだ。
守人の気配は一切ない。
この異例の状況に、アシェルの胸が小さくざわめいた。




