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二十二時三十一分二十八秒、死神より

作者: 三輪哲夫

 死神が現れた。

 死神と言っても、ボロボロのコートに身を隠し、身の丈を越す大きな鎌をかついだ骸骨というわけではなく、その容貌は一見して、くたびれた三十半ばのサラリーマンという印象を私に与えた。年季を感じさせるスーツを、右手に持つ擦り切れた革の鞄にかけ、左手にはどこぞの中華企業が出している缶コーヒーを持ち、白いYシャツの袖を二の腕までまくった、陰気そうな、丸眼鏡の男。体型は普通、身長はやや小さく、肩幅は広い。死神は、中小企業に良いように使われている、恋愛経験の一切がない、一人暮らしの寂しい中年独身男性のような雰囲気をまとって、私の前に現れた。

 その時、時刻は二十二時半を過ぎていた。自宅の最寄駅で電車を降りた、会社帰りの私を、死神は恐らく待っていた。そんな風に思われる。なにせ、誰もいない駅のホーム、客を失い悲しみに暮れる吊り下げられた蛍光板、人々に宝石を隠された夜空、身体に絡みつく熱気、虚しく響き渡る電車の発車ベル、遠くに鳴く蝉の声ーーいつも通りの光景に、ぽつんと、死神は異質な雰囲気を放ちながら、夜空を見上げて立っていたのだから。

「月が綺麗ですね」

 立ち尽くす私に、死神は顔を上げたまま、月だけが浮かんだ夜空に魅了されたように、視線も寄越さずに、言った。死神は年相応の声をしていた。低く太い、重厚感のある男の声。動く喉仏に、汗が伝うのが見えた。私は戸惑い、返答を考えているそのうちに、死神は、しまった、というような顔をして、不気味な笑顔を浮かべながら、言葉をつなげた。

「あーいや、そういえば夏目漱石が告白の意で月が綺麗ですねと言った話がありましたね、語弊がありました、これは別に告白というわけではないですよ、ただ、あなたに共感を求めただけで、別にそのような意図はありませんでした」

「あ………はい」

「まあ、私もそろそろ結婚して子の一人でもこさえたいと思っているので、そちらが求めてくれるというのであれば、また話は別なのですが………ええ、これはセクハラというやつでしたね、やはり忘れてください、それに、無駄話をしている時間はあまりないのです」

 もはや異常者としか思えなかった。そりゃ、死神なんだから当然と言えば当然………しかし当時の私に、目の前の男が死神だと見当できるわけがなく、ひたすらに内心で恐れ慄き、泣きそうになりながら、私はその場から動けずにいた。死神の、ぎょっとするような歪んだ笑顔がこちらに向く。レンズ越しの目は、私ではなく、私の奥にある何かを覗いているかのように。私は己という存在を鷲掴みにされている錯覚を覚えた。蝉の声が遠のく、視界の端の錆びたフェンスの向う側、ちかちかと街灯が点滅する、点字ブロックの目が私を見つめ、大きな口が笑う。

「あまり緊張しないでください、はは、人間の感情というものは分かり易いけれど、その感情に至るまでの過程はすこぶる分からなくて、私はいつも苦労しているんですよ、ねえ。せっかくだし、あなたが恐怖を私に抱き、緊張に全身を縛っている理由を教えてはくださいませんか?」

「…………………………」

「教えてくださいませんか、まあ仕方ないですね、さて、いやいや私としたことが、早く本題に入らなければなりません。ははは、なに、そんなに大層なことではありませんよ、神崎佳奈さん」

「! え、なんでわた、私の名前、」

「同志の情報収集は、当然ですよ。それで、申し遅れましたが、私は死神、生物の死を司る、人間で言うところの、神のようなそうでないような、ははは、曖昧なのですが、あまり詳しくは言えないのです、なので、実際には違うのですが、神として認識してくださっても構いません、まあ、どうせ言語でのコミュニケーションでは伝えられぬ概念ですので、さらに言えば、ははは、いや、これはやめておこう………あまり気にせずに、どうぞ、」

 ごくり、と、死神は缶コーヒーを飲んだ。口の端から黒い液体が溢れて、顎を伝い首を通って襟に染み込んだ。

 普段ならくだらないと一蹴する話が、今この時だけは、一切の疑いの余地がない話だと、信じ込んでしまっていた。背中が冷や汗でびしょびしょで、身体を打つ夜風に苦痛を覚えるも、死神がこちらに歩みを進め始めると、恐怖ですぐにそれどころではなくなった。

「別に、乱暴しようとかいうわけじゃなくて、これは使命なのですよ、使命、私に課せられた、存在の意義………私が私たる所以………それを守るために、ふふ、申し訳なく思うのですが、あなたには、少し苦労をしてもらいたい、なに、死ぬことはないですよ、死ぬことは」

 私と死神の距離は数メートル。

 不可解なことに気がつく。

 死神の足元に影がなかった。

 蛍光板の影だけが、冷え切ったコンクリートの地面に浮かぶ。

 死神はそれでも歩く。

 私は動けない。

「あなたは、選ばれた、そう、世界の意志に! はははは、これがどんなに光栄なことか、ぜひとも羨ましく思い、どうやら私にも嫉妬という感情が残っていたようですよ、はははははは! 私にもまだ人間の感情が、ねえ、ははは、死神はねえ、この世に生まれ落ちた時から死神だというわけではないのですよ、ふふふ、完全に無から生まれた、そう、時間と空間の、つまり世界の歪みより生じた人間にだけ与えられる権限………果たして、それは使命とも呼ばなくてはならない………はははははは、少し分かりづらいようですが、いや、これは矛盾なのでは? ………意味不明? いえいえ! あなたにもじきに理解できる、気にせず気にせず、私達死神にとっての永劫な幸せとは、誇りを穢す、貴方達で言うならば中年男の痰であり、不幸せで、ええ、地獄とはつまり楽園なわけで………理解できるでしょ、ねえ、できないわけがないんですよ、あなたは選ばれた………あなたはたった今誕生した一人の、悍ましい化け物なのだから………」

 私の存在は、

「ええ、ええ、お察しの通り、ちょうど今日の二十二時三十一分二十八秒、この八坂駅に停車した電車から、貴方は誕生したのですよ、ええ、ええ、あなたの始まりは、存在の根源とはつまり、私達死神なのです、ええ、ええ、しかし、羨ましく思いますよ、私は貴方に嫉妬しますよ! はははは、嫉妬ですよ、嫉妬! 私の場合、こんなごみみたいな人間に産まれてしまったばかりに、けれどもあなたは充実された人生を送っているようで………ははは、体感時間はさておき、私の年齢はまだ生後三ヶ月目なわけで、あなたは生後五分といったところでしょうか、ふふふ、私はあなたのセンパイです、これから共に頑張りましょう、あなたと私は一つ、死神とは個であり集合体、ええ、ははは、そうですねぇ、私はあなたを愛しますよ、私が私を愛するように、あなたが私を愛し、あなたがあなたを愛し、私とあなたが愛し合い、世界に愛されるように!」

 下を向くと、ははは、私の影はなくなっていた。

 そして、夜空を見上げると、なるほど、これは傑作だ。

 ーー月が美しい!

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