「それ」 亜実
ビジネスホテルの十二階の一室で、亜実の女部下である安藤は、窓からニコンの双眼鏡を覗いている。彼女が壁とカーテンの隙間から見つめる先は、田島のマンションの一部分だ。
約二百メートル南方に建つ分譲マンションは十三階建てで、田島宅は十一階だ。ホテルとマンションとの間にはJRの線路や大小の建物があり、窓から見えるのは八階以上のエレベーター付近だけだ。それでも、田島の出入りを確認するには十分な位置である。
安藤は双眼鏡から目を外し、ベッド付属のデジタル時計を見る。時計は午後三時三十四分を表示している。彼女は再び双眼鏡に目を戻した。覗きながら彼女は右手で、ロングスカートのポケットからスマホを取り出し、仲間に電話をかける。覗いたまま器用にスマホを扱い、右耳にそれを当てた。
「どうも豊川さん、ターゲットは見かけました?」
彼女はマンション付近をカムリで巡回中の男に呼びかけた。
「さっきそれらしき少年を見つけたよ。ただやはり集団下校で、ターゲットのいる一団は六人だ。中学年と高学年の一団で仲良さげに固まってるから、車を彼一人だけにぶつけるのは正直難しいな」
走行音と共に豊川から返答がくる。
「そうですか。ぶつけなくて済むなら、それに越したことはないですね。……あっ、亜実さんには内緒ですよ」
安藤は声を潜ませ、そっと背後を見る。誰もいないが、三点ユニットバスのドアから水音が聞こえてくる。
ここは元々亜実が借りた部屋で、彼女は今入浴中だ。バスタイムの間の監視を、安藤は任された形だった。
「ああ了解。……正直言うと、僕もそれで良かったと思う」
豊川の言葉に安藤は微笑んだ。
ベッド上のアタッシュケースは開いており、非接触式体温計に太い針を取り付けたような小型機械が見える。今回の任務をこなす上での必需品だ。針先を田島の後頭部に当て、問題のマイクロマシンを除去する。そのためには、本人に接触する必要がある。しかも秘密裏に進めなくてはならない……。
道中でベトナム人から偽造ナンバープレートを買った後、亜実は部下たちに、田島に車をぶつける案を示した。彼に車(レンタカー会社提携の保険には加入済み)を衝突させ、皆で救護しながら除去する作戦だ。そして救急車の到着後、どさくさに紛れ逃げて終わり。
もちろん、死なない程度に軽くぶつけるだけだ。猛スピードで彼に衝突し、いわゆる「頭を強く打った」状態にしてしまうと、皆で地を這ってマイクロマシンを探す羽目になる……。またいくら異世界とはいえ、大人がむやみに子供を殺すのは許されない。
しかし、田島は集団で登下校しており、同じマンション繋がりだけでも四人いる。特に田島のクラスメイトで恋人の女子は、彼のそばを離れない。田島一人だけに車をぶつけるには無理があった。複数ひけばその分騒ぎが大きくなり、逃走に支障をきたす。最終的に泣かされるのは保険会社だろうが。
これで亜実は提案を取り下げるだろう。安藤と豊川は胸をなでおろしていた。
「あの二人とは連絡取れました? サボって寝てはしませんか?」
安藤が豊川に尋ねる。
「大丈夫、さっき取ったばかり。今のところ少しも怪しまれずに済んでるって」
プリウスに乗った部下二人が、田島のマンション付近で張りこんでいる。田島の帰宅を観察するためだ。
彼らは半袖ワイシャツに着替え、外回り営業の会社員がサボってるように見せかけていた。二人ともイスを倒し、眠るフリをしながら薄目で見張っている。子供の見守りボランティア(昨今は彼らも危険だが)に声をかけられた場合に備え、名刺(電話代行サービス導入のペーパーカンパニー)を用意していた。また、レンタカーだと怪しまれるため、ナンバープレートはすでに交換済みだ。
「それは何よりです。では、また連絡しますね」
「了解」
安藤は通話を切り、スマホをポケットへ滑りこませた。
「ふぅ、狭い風呂でした」
そこへ亜実が、三点ユニットバスのドアを開けて出てくる。こもった湯気が部屋へ流れてきた。
「……ええっと、亜実さん。下着しか持たずに入ってたんですね」
ブラとショーツ姿の亜実に、安藤は気まずかった。バックパックから服を探す亜実から目を背け、双眼鏡に集中を向ける。
「トイレに真っ新のシャツなんて置けませんよ。スペース的にも下着しか無理でした」
亜実はバックパックから、白いシャツブラウスと黒いスラックスを丁寧に取り出した。そばのハンガーラックには、灰色の夏ジャケットがかかっている。
彼女はアラサーながらスタイルは抜群だ。そのため少しでも目立たないよう、落ち着いたビジネスウーマンの服装を用意してきた。入浴前に着ていたハイキング風の服装は、あくまでも仮装だ。
「それで報告はありますか?」
シャツのボタンをとめながら、安藤に尋ねる亜実。
「豊川さんがターゲットの少年田島を発見してます。ただ、集団で下校してるらしく、彼一人だけに車をぶつけるのは難しいとの話です」
安藤がそう答えると、亜実は「そうですか」と言い、最後のボタンをとめた。巨乳によるシワがシャツに大きく走り、そのままでは目立ってしまう。人口密集地域で隠密性を重視するこの任務では、その体はジャマでしかない。
「誘拐も考えなくてはいけませんね」
「えっ? その場で除去でなく誘拐してからですか?」
亜実の新たな提案を聞き、双眼鏡から思わず目を離す安藤。
「ええ、その通りです。おとなしくしてもらっておかないと、除去に時間がかかりそうですから」
亜実はそう言うと、マイクロマシン除去機が入ったアタッシュケースを顎先で示す。機械の下には説明書も見える。
「けど、あの少年は集団で登下校してるんですよ? 最近は男の子まで防犯ブザーを付けてるそうですし、簡単にはいかないかと……」
安藤はうるさく喚き立てる子供たちを想像した。いくら高齢化社会とはいえ、自力で歩ける年寄りはまだ大勢いる。田島を車に押しこめたとしても、車の前に立ちはだかる大人が現れてもおかしくない。まあ轢いても何とかなる話だが。
「まったく最近は、子供の頃から誰かに頼るよう教えられてるみたいですね。集団登下校も防犯ブザーも過保護としか言いようがない。小学生のときに不審者に声をかけられた事はあるけど、自分の足で走り去ってみせました!」
得意げに語る亜実。
「……確か、グラサンかけて折れた杖を持った男の話ですよね?」
「その通り! 自分の力で解決したというわけですよ!」
亜実は武勇伝みたく語るが事の真相は、困っていたメクラから悲鳴を上げながら逃げたというのが正しい……。
二つのベッドの間にあるサイドテーブルで、亜実のスマホが鳴り始める。亜実は即座に駆け寄り、電話に出た。
「亜美さん、対象の田島君がマンションへ入っていきますよ。同じマンションの小学生三人と一緒に」
プリウスで張りこむ部下からの連絡だった。
「あなたから見て、ガードは固そう?」
「ええっと、そうですね。……田島君には彼女がいるらしく、その子は彼のそばを離れようとしない感じです」
その部下は恐る恐る亜実に答えた。
「まったく! 最近の女の子はきっと、子供の頃から男に甘えるよう躾けられているんだわ!」
亜実はヒステリックに叫んだ。両隣りの客室に人がいれば、フロントに苦情を入れたかもしれない。
「あの、あの落ち着いてください」
安藤が宥めると、亜実は深呼吸を繰り返す。アンガーマネジメントの基本だ。
彼女は落ち着くと、部下にそろそろ戻るよう伝えた。安藤は双眼鏡での観察にすぐさま戻り、田島がエレベーターから降りるところを見ようとした。
「あれ? 十階?」
安藤は呟いた。田島が十一階ではなく十階でおりたからだ。彼女は自分の勘違いかと思い、最上階から順に階数を数え直す。……しかし、彼女の勘違いではない。確かに田島はエレベーターを十階でおり、廊下の先を進んでいった。彼の姿は隠れてもう見えない。
「どうかしたの?」
彼女は近づいてくる亜実の足音を聞きながら、この任務は思った以上に困難だと悟る。