「これ」 矢崎
矢崎は歩いてきたジジイにお辞儀した。近所に住む九十代の後期高齢者で、彼の亡きひい爺さんの同期だ。彼はひい爺さんの葬式のとき、そのジジイから戦争体験談を聞かされた。とはいえ、「これ」世界の日本は第二次世界大戦で勝利した側なので、ネガティブな話題はなく、勝ち戦の武勇伝がメインだ。
「奴も昨晩は、シベリア戦線にいたときのような寒さを感じたはずじゃ」
ジジイは思い返すようにそう言い、寂しげに話を締めくくったものだ。
「どうもな」
ジジイは矢崎にそう返すと、横断歩道を渡っていく。信号が赤に変わるギリギリで、ジジイは渡り終えることができた。日没まで近所の公園で黄昏るんだろう。
「まさか、今の爺さんが見えない上、言葉も聞こえなかったというのか?」
矢崎は田島に問いかけた。
「ウン、そんな人は見えないし、何も聞こえないけど」
田島はそう答えるしかない。
「ふーん、どうやらお互いに違う世界にいるみたいだな」
矢崎は田島が嘘を言っていないと確信した。
「ああそうだね。まるで異世界というか、平行世界っていうものかも。もしかして、誕生日は六月十五日だったりする?」
「……同じだ。なるほど、俺とお前が似ている点はそれで説明がつく」
ようやく察しがついてきた矢崎と田島。
とはいえ、完全には理解できていないし、一安心できたというわけじゃない。互いに敵意は抱いてはいないものの、不気味極まりない現象が自分の身に起きているのだ。
「ちなみに、今日は何年の何月何日? 明日は昭和の日でゴールデンウィークが始まるところなんだけど」
田島はそう話しながら、相手の矢崎も勉強で忙しい身だろうかと考える。もし中学受験を受けない世界線だとすれば、彼を羨ましく思うに違いない。
「日付も同じらしいな。今日は平成三十五年四月二十八日だ」
「ん? 平成?」
田島は耳を疑う。我々の世界と同じく、「それ」も平成は三十一年(令和元年)まで。
「……元号が違うのか? 西暦だと二○二三年だよな?」
「ウン、西暦は同じだけど元号が違う。今は平成じゃなくて令和なんだ。令和五年の四月二十八日」
田島は淡々と言ったつもりだが、矢崎は衝撃を受けた。口を開き、新元号が信じられないご様子。変な意味で受け取ったらしい。
「おい、何年も前に陛下が崩御されたというわけか?」
「……あっ、いや違うよ違う。実はその、天皇を退位なさってさ。今は上皇陛下として過ごされてるよ」
田島の言葉を聞き、矢崎はひとまず納得できた。「それ」側の皇室の御判断も尊重すべきだろうと。
二人ともT字交差点の横断歩道手前でずっと佇んでいるわけだが、気にかける者は一人もいない。買い物帰りの専業主婦がミニバン内から、一人で何やら喋る矢崎に目をやった程度だ。
「同じ日の日本でも多少の違いはあるようだな」
矢崎はそう言うと、田島が持つエコバッグの中を覗いてみる。
「買う物も違うらしい」
「君は何を買ったのさ?」
田島がそう尋ねると、矢崎はレジ袋を広げてみせた。
じゃがりこLサイズとメッツコーラ(個人的には、ペプシやコレよりもコカコーラのほうが好きだ)が入っている。ペットボトルの表面は結露でビショビショだ。田島のほうのペプシも同じだろう。
「確かに、同じようで違う点もあるみたいだね。……そっちの日本はどう? 景気が良くて暮らしやすかったりする?」
二〇一一年六月生まれの田島が矢崎に尋ねる。
「いいや、子供の俺でも大人たちが苦労してるのはわかる。景気は足踏み状態だし、俺が生まれる少し前には大地震が起きた」
矢崎はそう言うと、空を見上げる。青空に黄味が薄く混じり始めている。
「……そっちでも三月十一日に起きたんだね、東日本大震災がさ」
「ああそうだよ。その後で原発事故も起きたよな?」
「ウン、福島県でね。きっと、自然の暴力は変えられないのかも」
田島も空を見上げる。異世界同士だが、空の色調は変わらない。
この二人が、東日本大震災や原発事故を経験(リアルタイムという意味で)せずに済んだのは幸せだ。それらの後で起きた大混乱や就職難を思い返せば、ゆとり世代でアレらをまた経験したいヤツはいない。「それ」や「これ」でも多くの命が失われ、人生が狂った。
「三年前から流行った新型コロナにはかかった? ボクは去年かかっちゃってさ。咳が酷かったよ」
顔を少し歪める田島。彼はワクチン接種でつい慢心した結果、苦しむ羽目になったのだ。そのせいで勉強時間を無駄にし、母親に叱られた模様。
「……新型コロナ? 中国風邪のことか?」
どうやら「これ」世界では、物議を醸しそうな名称がつけられているらしい。
「ウン、たぶん同じ病気だね」
「俺はかからずに済んだ。日本製ワクチンは有能だからな」
矢崎は誇らしげでいる。「これ」世界の日本政府は、研究や教育への予算配分をまともに考えているらしい。
「へえ、そっちには日本のワクチンがあるんだ。ボクはアメリカのファイザーだよ」
「まあ米国のファイザーも悪くないが、俺は日本人らしく日本のを選んだわけだ」
「フーン、するとそっちの日本のほうが有能かもね」
「……逆に俺は、お前側の日本が心配になってきたぞ。治安や社会がさ」
「ハハッ、ありがと」
「俺に礼を言ってもな……」
矢崎は本気で心配になってきた。いくら平行世界とはいえ、自分によく似た田島や日本の運命が気になったのだ。彼はどちらかといえば愛国者だ。
「そっちでも時々、大きな事件は起きるでしょ? 例えば、去年の七月には政治家の暗殺が起きたんじゃない?」
田島は他のクラスメイトたちと同様、SNSに流れた事件の映像を観たものだ。
「はあ、暗殺?」
「そう、演説中に火炎瓶を投げつけられ殺されちゃった」
田島の話を聞いた矢崎は呆れた。
「やはり物騒だなそっちは。……いや待てよ、その時期に政治家が暴発で死ぬ事故は起きたな」
「えっと、暴発?」
「演説中にSPの拳銃が暴発したんだ。け、けど勘違いすんなよ! 事件と事故は違うからな!」
小学生ながら、メンツを気にした矢崎。
「なんか同じように思えちゃうけど……」
「事故だ事故!」
矢崎がムキになると、田島は戸惑った。自分が怒った際は、こんな表情になるとわかった点も含めて。
「ウ、ウン、わかったよわかった」
田島はそう言った後、カシオの腕時計へ目をやる。
コンビニで買い物を済ませてから一時間近く経っていた。時間をムダにしたわけではないにせよ、貴重なゴールデンウィーク(数時間分)を使ったには変わりない。平行世界の自分と話した件など、誰にも信じてもらえないだろう。
「ボク、そろそろ行くよ。もしまた会えたら、ゲームの話でもしよう」
田島はそう言い残すと、ちょうど青信号に変わった横断歩道を駆けていく。
「あっ、おい」
矢崎は彼の背中に向け声をかけたものの、追いかけはしなかった。矢崎自身も、この件は誰も信じてくれないとわかっている。親友に話しても物笑いに終わるだろうと。だから彼はその場で田島を見送ることにした。
横断歩道を渡り終えた直後、田島はスッと姿を消した。
「幻だと思いたいけど現実だよな」
矢崎はそう呟くと、レジ袋の中を覗く。ペットボトルから流れ落ちた滴が、袋の底に溜まっている。
「あいつも受験で、短いゴールデンウィークなんだろうな」
矢崎も明日から塾で勉強させられる身だ。
彼自身も田島同様、日々の勉強で疲れを覚えている。そのため、自分が今話していた相手は幻だったかもしれないと、まだ薄ら感じていた。しかし、幻だと自分を納得させたくはなかった。自分自身を裏切るような感覚を抱いている。
「よかった。まだいたんだね」
田島が再び現れ、横断歩道の向こうから歩いてくる。彼はほっと息を吐き、一安心した表情を浮かべていた。
矢崎はその瞬間、田島は幻じゃなく現実の存在だと確信した。同時に彼も、ほっと息を吐く。