「それ」 田島
亜実たちに爆発を喰らわせ、ベランダから避難ハシゴで逃げるなど一連の行動は、田島のような小学生には大仕事だ。オリジンにそこまで抵抗した子供は彼が初めてじゃないが、亜実たちには苦々しい話として刻まれる。
田島が実際に避難ハシゴをおろしたのは初めてのこと。そして、真下の住居を通り過ぎる展開は、予想すらしていなかったに違いない。
……そこは柏崎宅だ。一一〇三号の田島宅から一〇〇三号の柏崎宅への直接の訪問。そんな形で恋人が自宅にやってくるなど、柏崎本人は微塵も考えていなかった。彼女の自室は散らかり放題だが、幸い部屋のドアは閉まっている。
柏崎宅は当時も留守だったが、換気のためにリビングはガラス戸じゃなく、網戸が閉められていた。柏崎の許しを得て、植木鉢でガラス戸を割る手間を省けた。
「す、すごい一日になってきたね」
当然だが柏崎は、自分や自宅も巻きこまれた事に複雑な感情を抱いていた。田島が何やら危ない事柄に関係している事に、柏崎は当初興味を抱いていた。単なる好奇心からだが、その辺はマンション付近に集まった野次馬と大差ない。
ただ田島にも問題はある。柏崎にどのような事柄に関わっているかの一通りをまだ伝えていなかった。勉強時間を少々削れば、真剣に伝える時間は取れたろうに。
「さあ早く行こう」
そこが柏崎宅だという点は後で気にすることにした田島。これは緊急避難だし、柏崎からのクレームは後でいくらでも聞けるだろうと思い切って。
「う、うん」
さすがに彼女も、田島の抱える事情がかなり複雑だと理解できた。あまりの出来事にも関わらず、彼が落ち着けている点も含め、普段の田島とは異なると悟ったよう。賢明にも、後でまとめて指摘する事にしたらしい。
さて二人とも土足で上がりこみ、そそくさと柏崎宅を後にしかける。頭上の天井裏からは、田島宅での喧騒が漏れ聞こえてくる。玄関付近では早くも熱気を感じ取れた。田島は内心、招かれざる客の亜実たちが消火してくれるよう願った。財産目当てであれば、安全に探すために消火すると考えていた。
しかしながら、彼の考えはハズレだ。件のマイクロマシンはまだ、彼の後頭部の脳内に浅く埋めこまれたまま。
「ああっ、やっちゃった。スマホ、スマホを充電したまんまだ」
田島が言った。現代の子供なら、「財布を忘れて買い物に出かける」レベルの大きなミスといえる。だが、自宅へ取りには戻れない。天井裏での喧騒は続いていたし、避難ハシゴでワンフロア降りた点にはじきに気づかれる。
「ワタシのを使いなよ」
必死に動く田島に応え、柏崎はポーチからスマホを取り出す。彼女は得意げな表情だった。
彼が彼女からスマホを受け取ったのは、玄関ドアを開けた直後のこと。煙たさとガソリン臭がすでに漂ってきている。火災を知らせる報知器の音も上階から聞こえてくる。薄ら熱気も感じられただろう。
「ありがと、下まで降りたらすぐに。……って、バッテリーもう無いよ」
なんと、柏崎のスマホはバッテリーが無くなる寸前だ……。残量は十パーセント未満で、スマホ本体は低電力モードに移っていた。一一〇番通報をかけられても、現地警察に事の顛末を信じさせるまでバッテリーが持つ保証はない。イタズラ電話だと勘違いされ、自転車の警官一人寄こさない展開もありえる。まあ実際は爆発炎上した時点で、現地警察の注意を引いていた次第だが。
「やっちゃった。でもそうだ、ウチで充電すれば」
裏をかけそうなアイデアだが、田島はすぐさま却下した。先日に亜実たちがこの柏崎宅を訪れている。
「おーい。下から、あし、足音がした。聞こえたよー。下から、下から」
上の通路からそんな声が聞こえた以上、マンション内に潜む策はもう取れない。亜実たちが一軒一軒玄関ドアを破り迫る光景を、二人は想起しただろう。
自転車の鍵も自宅に置いたままで、二人は自分の足でそこを離れるしかない。田島や柏崎は足が速いわけじゃないが、とにかく頑張って逃げることにした。賑わう駅へ逃げこめば、さすがに派手な行動は取れないと見こんで……。
二人とも確信していた。亜実たちの狙いが金目当てでなく、心身に危害を与えようとしていると。確かに大ケガまではいかずとも、無理やり頭部からマイクロマシンを除去する工程を考えると、そう誤解されるのは最もか。
田島は自分のビーチサンダルを履き、柏崎は田島母のストラップ付きサンダルを履いていた。田島はいいが、柏崎は走りづらさを覚えていた。女性向けのサンダルだが、足の甲を締める部分が少し狭いらしい。玄関で履き替えている時間は取れなかった(おそらく田島が、柏崎が靴選びに迷うリスクを避けたのだろう)。
「あんまし遠くまで歩けないよ!」
マンション一階のロビーまで降りた時、柏崎が田島に訴えた。彼が彼女の手を引くも、それでも階段を駆け下りる際に何度も転びかけた。といっても、真夏の熱した路面をはだしで歩くのも危ない。
「駅までのガマンだから頑張って」
彼は彼女をそう諭した。そして彼女は、ロビーの自動ドア付近に散乱するガラス片を見るなり、渋々納得する。
管理室から鳴り響く火災報知器の警告音。通常はその音を聞いた管理人がひとまず該当の住居へ急ぐわけだが、そうもいかない。誰かが止めない限り、音が鳴り続けるだけ。また、ロビーの一角には血だまりが見える。人気の無さも絡み、田島や柏崎はとんでもない事が起きていると理解できた。
さらに、階段の方から駆け下りる足音が聞こえてきたため、二人はすぐさまマンションを後にする。柏崎も死の恐怖に直面し、生存本能を湧かせていた。少なくとも今は、余計なお喋りは不要だと。
ロビーへ降りてきたのは亜実たちではなく住民だ。あの爆発や火事を思えば、避難は遅いぐらい。一人分の足音に釣られたのか、住民が次々と避難してくる。たちまち群れに膨れ上がり、ロビーからエントランスへも人が溢れる。
避難してきた住民に紛れ、久保が一階に降りてきて、怪しまれずにロビーやエントランスを通り過ぎた。そして、マンション前で待機していた岡崎に声をかける。また、通りの方から救急車が近づいてきていた。それとは別に聞こえてくるサイレンは消防車だ。
リスクを承知で現地消防へ通報したのは亜実だ。豊川は肋骨を四本も折っており、やむを得ない選択肢ではある。そして、現地消防がレスキュー隊付きの消防車も寄こした点は、向こうが念のため取った選択肢だ。
「ケガ人は十一階の通路にいるので案内します」
岡崎はあの二人の尾行に入り、久保は救急隊員に対応した。
野次馬の出現はマンション付近の路上だけじゃない。隣りに建つマンションのベランダにも続々と現れた。言うまでもなく、それらの多くはスマホと共に。
田島と柏崎は、そんな野次馬の注目をできるだけ浴びないよう、足早にマンションから八王子駅へ立ち去った。記者がいれば別だが、野次馬の一番の注目は爆発が起きた箇所へ向けられている。おかげで、渦中のマンションから出てきた二人に向けられた眼差しは、十秒足らずだった。
さて、二人が岡崎の尾行に気づけたのは、八王子駅の駅舎まであと五十メートル足らずの位置だ。交差点(交信できる所じゃない)の横断歩道を渡る前に習慣から左右を見渡したのだが、そこに不自然な人影が視界に入った。
「変なのがついてきてる」
柏崎が田島にそっと言った。女の勘か、単に異物に敏感なのか。
「振り向かないで。刺激しちゃダメだ」
賢明な対応を取る田島と、賢明にも従う柏崎。
尾行はバレたものの、岡崎もバカじゃない。二人に自身が気づかた事は悟れた。ただ逃がすまいと下手に動けば、さらに面倒な展開を引き起こしかねない。仲間が近くまで追いついているなら別だが、その場で田島を捕らえられても、一人でそれを維持するのは困難だ。
そこで岡崎の方も相手に刺激を与えないよう、一定の距離を保っていた。二十メートル前後の距離で、信号待ちで接近したり離れたりしないように心掛けている。ただ岡崎には、二人の行き先は見当ついていた。駅あるいはその近くの交番だろうと。また、二人の内一人はスマホを持ちながらも、まだどこへも電話をかけていない点も把握している。後続の仲間が来るまで、二人の様子をただ伺えばいい。
岡崎および二人は共に平静を装い、八王子駅南口への横断歩道を順番に渡る。バスロータリーに並ぶ人々は日常を送っている。公衆トイレの近くには、大量の空き缶が詰まったゴミ袋を提げた自転車が止められ、人々はそれを避けて通る。
「アイツがいるだけでもいてくれたらな」
田島がぼそりと呟くなり、柏崎は怪訝そうに彼の顔を見る。アイツとはあの矢崎のことで、彼女の知らない人間だ。
「えっ、ああ、お巡りさんのことだよ。少しでも近くにいてくれたらいいなと」
彼はそう取り繕うと同時に、不運と焦りを覚えた。彼の視線は右方へ向けられている。
駅の人混み以上の頼りにした交番が、建設現場の囲いで覆われていたからだ。「耐震補強のため工事中」という断り書きの立て札が、囲いの壁に付けられている。その横には右矢印の立て札もあった。
「こ、交番、今はあっち、あっちだって」
柏崎は顎先で方向を示した。彼女の声は震えている。仮設の交番は確かにそこにあった。雑居ビルの一階に仮交番が入居していた。無人交番じゃなく、三人の警官が当時居合わせた。
しかしながら、渡ったばかりの横断歩道を引き返す必要がある。つまり、尾行してくる岡崎の横を通り過ぎねばならない。周囲に人はいるものの、岡崎や亜実たちが小学生の悪ガキとは違うことぐらい、彼女にも理解できていた。
「乗り越えて走れる?」
「……いや、ゴメン、正直怖いんだけど」
田島は柏崎に歩道沿いに伸びる柵を乗り越え、道路の反対側にある交番までダッシュする策を提案したが、危ないじゃないかと却下された。慣れない靴や往来のある交通量を勘案すれば、確かに危険な行動だ。無保険や外国人のドライバーに轢かれる事も含めて考えると、彼女が躊躇したのは無理もない。……しかしまあ、後の展開を引き合いに出せば、多少マシな結果に落ち着いたかもな。
現地の八王子駅にも、交番は南口だけでなく北口にもある。無論、駅舎内を通らねばならないが、尾行する謎の怪しい成人男性(つまり岡崎)の横を通り過ぎるよりかは現実的な選択肢だ。
しかし、柏崎が靴擦れまで起こしていた。足の甲に出血が見られる。言葉に出さないものの、わざとらしい表情で恋人田島に苦痛を訴えていた。亜実や望美とある意味変わらない、厄介な女である。
「ウン、なるほど。何とかするから、一緒に乗り切ろう。ねっ?」
田島は彼女にそう言い、路上で泣き喚き始めないように気を遣った。
「わかったよ」
柏崎はそう返した。……しかしながら、納得して発せられた本音の言葉じゃないのは明白だ。彼女がさらなる文句や催促を始めるまでに、彼は解決せねばならない。普段は受験勉強用の脳味噌を、彼は生き残るために活かしてみた。




