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「これ」 矢崎

 意味の無い時間で終わったが、矢崎は田島へ火炎瓶の作り方を伝授した経験から、ひとまず満足げでいた。自己満足に過ぎないが、もし田島が火炎瓶を実際に使い、亜実たちの誰かをBBQした場合、彼の満足感は生涯続いたかもしれない。

 なにせ、仮にそういった展開が起きても、田島が現地警察に補導される展開はまず起きない。確かにオリジンは、現地の警察や政府と接触し、必要な対応を求められる立場でいる。しかし、それにも限度がある。異世界にもよるが、オリジンは現地の連中との関係を公にされる事態を避けている。幸い、たいていの現地側もそこは同様だ。現状維持の方が無難だから。

 秘密主義も当然あるが、公式な関係を結べば、それを維持するだけでも相当のリソースが要求される。さらに、これまでの関係が現地メディアに裏表ともに暴露されれば、非常に都合が悪い。多かれ少なかれ邪魔者やレジスタンスが現れ、オリジンもそれらに対応しなければならなくなる。費やすリソースがさらに増える一方で、リターンはたいして増えない……。そんな事態は、古代ローマ帝国が滅んだ原因の一つだ。

 オリジンは経験則や歴史から、現地の連中と公式な関係を持つことはハイリスクだと捉えている。そのため、必要以上の関係までは求めていない。上記の事がもし起きていても、責任追及は田島本人までだっただろう。今にしても、矢崎への対応でわざわざ異世界NGY1150と公式な関係を結ぶのは、リスクの方が上回る。必要な対応はもう十分のはず。


 さて、矢崎は田島へのプレゼンの締めとして、次の交信までの宿題を彼に与えた。「火炎瓶を何本か作ってみろ」という、簡潔そうでまあ複雑な宿題だ。(学校だけでなく)塾から大量の宿題を出されている事ぐらい、察しがつくだろうに……。

 彼が教示した火炎瓶のレシピには、申し訳程度にガソリンの扱い方の注意文も添えられていた。その中には「ガソリンは専用の携行缶を使うこと」の旨があった。しかし、小さな文字だったせいで、田島のスマホ側では文字がボヤけていた。後に現地警察が彼のスマホ内を調べるも、小文字の存在にはとうとう気づくことなく終わる。

 当然だが、火炎瓶のレシピである画像がどこから来たのかも、現地警察のほぼ全員が知らないし知りようがない。知っている者はオリジンの協力者だけで、賢明にも口を閉ざしている。オリジンを裏切ろうにも、「火炎瓶のレシピは異世界から来た」などという話は、ほとんど誰の耳にも届かない。オリジンが協力者に金銭を送るのは、挨拶や今後の関係を続ける必要経費でしかないのだ。

 ある意味、矢崎が田島へ情報を提供した事と変わらない。何となくでも、目的のために取った行動である。いかに汚れたものを提供しようが、両側の感情や時間が行動を清めていく。

 矢崎は今頃やっと、田島へ火炎瓶のレシピを伝授した事を正当化できているだろう。「自分の身を自分で守らせる」という目的のために、アレは必要な行動だったと。

 とはいえ、そこの正当化に妥当性があるにはあった。矢崎および彼の一家は、現地警察に不信感を抱いていた。オリジンが圧力をかけているため、彼らの仕事は弱腰になっている。首都で起きた武装強盗事件にも関わらず、「なぜこれほど捜査に時間がかかっているのか」というわけだ。

 現地警察はやろうと思えば、監視カメラやNシステムなどの機器やネットワークを駆使し、望美たちを逮捕や妨害、おそらく殺傷もできたはず。また、身内の警官も含め、オリジンの協力者を逮捕する事だって、やろうと思えばできた。当然代償は高くつくが、当面メンツは保てるだろう。

 だが、現地警察は積極的に動かなかった。別に警察に限った話じゃないが、たいていの人間は自分ファーストだ。その異世界でも例外じゃない。

 こうして、数日経っても事件に進展が見られないため、矢崎家や現地民からは不満や不信感が募る。手近な矛先である現地の警察や政府には、「課金」によりガマンしてもらうしかなかった。「忍び難きを忍び、耐え難きを耐え」というわけだ。

 とはいえ、金頼みのガマンにも限界がある。そこでNGY1150の管理者は、望美に賢明な行動を求めた。「逃走犯」らしく、できるだけ目立たないように行動してくれという話だ。警察署へわざわざトイレを借りに行くなどはいけない……。

 管理者からの求めに望美は渋々受け入れたものの、打開策を近々提案させてもらうと返した。任務完了日に起きたあの顛末の事である。管理者は当時、望美から出されるであろう提案を甘く見積もっていたようだ。でなければ、提案を受ける日時の予定を早くも決めていない。それから、別の第三勢力が介入する事態も想定していなかった有り様だ。


 矢崎は田島への伝授で一段落つけたと思うなり、次は自分や家の安心安全を意識した。以上の経緯から警察に不信感があり、自らの側もいよいよ防衛手段を講じねばならないと。

 とはいえ、小学校における軍事教練は修了していた。猛暑を避けるため、四月と五月の間に必要な授業日数が前倒しされていたのだ。つまり、中学(私学も例外じゃない)に上がるまで、新たに学ぶ内容や日程が無いというわけだ。また、復習するにしても受験科目でないため、そこにやりがいを持てずにいた。学問の取捨選択として、子供ながら無意識が働いている。


 そこで彼は親友中野にまた、参考になりそうな本を尋ねた。今度はSF小説ではなく、実用的な本のタイトルだ。

「アメリカのでもいいか? 英語だけど」

中野からのラインメッセージを読み、ひとまず考える矢崎。

 「これ」世界ことNGY1150の日本は、西暦一九四〇年からずっとアメリカと同盟関係を続けている。元は共産主義に対抗するための同盟で、結んだ当時の名称は『日米防共条約』だ。そして、今では『日米安全保障条約』と呼ばれている。八十年以上続いており、我々の世界のそれより長く続いている。言うまでもなく、オリジンが核兵器の技術を日本へ提供したおかげだ。もし提供していなかったら、我々や「それ」世界ことNGY1180と同じく、日本は核を二発落とされ、無条件降伏に追いこまれている。

 しつこい話はここまでとして、矢崎は中野にその本のタイトルを尋ね読破するか、数分ほど自問した。英語は受験科目としてあり、矢崎は日常会話レベルの翻訳なら、アプリに頼ることなく日本語訳できる。しかし、洋書や英字新聞をスラスラと読み進めるレベルには達せていない。中野に以前紹介された小説『横たわるバッタ』もアメリカ発の本だが、日本語に翻訳されていた。今回紹介される本で相当の英語力が求められる事は明白だ。

 結局「せっかくだから」と、矢崎は中野に本のタイトルを尋ねる。

 それはアメリカ軍発行のサバイバルブックで、本格的な内容が載る。本に活かされた情報には、日本が一九四八年に行なった核攻撃から得られたものも含まれている。

 矢崎は躊躇うことなく、その本は小学校の図書室にも置いてあるだろうかと聞いた。中野は「図書館にならたぶんある」と返してきた。そして、彼はちょうど翌日の学校帰りに市立図書館へ寄る予定であり、その本をついでに借りてきてくれると言った。

 そこまでしてくれる事に矢崎は感謝し、おかげ庵でかき氷を奢ると言った。その年の七月も酷い暑さだった。親友であるかどうかに関わらず、それは相当の対価だ。


 そして、矢崎は翌々日の夕方に時間を確保し、おかげ庵で中野と落ち合った。矢崎の母親は渋々ながら、夏休みに出されるであろう宿題を二馬力で処理するためとして、彼らがお茶するのを許してくれた。……もし中野が団地住みでなければ、夏休みの宿題対策じゃなくても許したと思う。

 事前に述べておくが、彼らが入ったおかげ庵の店舗は、同じ時期に望美が入った所とは別の所だ。といっても、矢崎が田島と交信できる所と同じチェーン店なので、オリジンはこの光景に神経を尖らせたろうな。

「よし、おれはこの、抹茶氷にする!」

「俺も同じのでお願いします」

 中野と矢崎は店員に注文した。彼らがついた席は、矢崎と田島が交信できる範囲から少し外れている。どのみち、同じ時間帯にその地点に二人が落ち合う展開は起きなかった。

「ほいコレ、頼まれてた本だよ」

「ああっ、どうもありがとな」

矢崎は中野から本を受け取った。本の背表紙には英語が走り、終わりには管理用のICタグが付けられている。普段読まない洋書という気後れもあり、矢崎は本を重く感じたらしい。

 彼は本をそそくさとカバンへしまった。急いでしまったせいで、カバン内のクリアファイルの端が外側へ折れてしまう。

「大事に扱ってくれよ。もしもん時に怒られるのはおれだしさ」

「悪い、気をつけるよ」

 折れたクリアファイルを直し、カバンのチャックを閉じる矢崎。

「それ、少し読んだんだけどさ。その、なんだ、マニアックなこと書かれてるぜ?」

中野が苦笑を浮かべながら言う。彼は中学受験組じゃないものの、勉強を疎かにしていなかった。小学校レベル(悪口じゃない)の英語は話せるし読める。

「おかしくなったように見えるか?」

「いや、そこまでは……。六年になってから変わった感はあるけどさ」

取り繕う中野。彼は内心で少々、矢崎を恐れというか、近寄りづらさを覚えていた。それは矢崎が田島と何度も交信している事に起因している。矢崎と中野は男同士の友情で結ばれており、決して破綻しかかっているわけじゃない。それでも中野は、矢崎の立ち振舞いが妙に離れた様に感じていた。中野が二人の交信を察知できたわけではないが、矢崎が受験以外で面倒事を抱えているとは察せていた。

「そうかよ」

矢崎はそれだけ言うと、平静を装いつつ、夏休みの宿題について話し始める。

 とはいえ中野には、親友矢崎に面倒事をいつまでも引きずらせる気は無かった。友情という簡潔な思考回路を経たものだが、それがあの悲劇の一幕へとつながる……。

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