「それ」 亜実
おかしな事をおかしいと気づき、そこを指摘し動かせる者は有能だ。しかし、誤った行動を取られたままでいれば、見舞われたミスはミスでしかない。当時の一件もそうして起きた。当任務二回目の大きな判断ミスだ。そう、ミスでしかない。
「何か匂いませんか?」
豊川が言った。彼は通路の奥を見張りながら、異臭を鼻で嗅いでいた。狭苦しい都会のスモッグやペンキ塗りたての異臭じゃない点は、すぐ把握できた。重々しくツンッとする刺激臭だ。ガソリンスタンドで嫌でも嗅がされる悪臭だ。
「静かに」
彼女はそれだけ言うと、安藤に田島宅の開錠作業を促す。久保が安藤がポーチからワイヤーカメラを出し、作業を始めるのを見守る。同時に異臭が漂う理由を考えた。マンション付近にガソリンスタンドは無い。
安藤はマニュアルや先日の記憶を頼りに、ドアスコープの穴へワイヤーカメラを突っこむ。それを操り開錠に入った直後、久保が「ガソリンっぽい臭いがしますよ」と、亜実に伝えた。安藤の手が止まる。
「いいえ、揚げ物でしょう。続けてガンマ」
亜実はそう言うと、ガンマこと安藤に開錠を急かす。昼メシの時間帯だったがそれは誤り。久保の指摘が正しい。
……通路へ進み出た時から臭い始めたそれは、調理用のサラダ油ではなくガソリンだ。ハイオクや軽油じゃなくレギュラーガソリンだが、そこまではどうでもいい。とにかく揮発性が高く危ない化学物質が、田島宅の玄関辺りに存在しているわけだ。それも数滴程度じゃない。大雨に遭った直後、傘の滴を床に払い落したかの如く濡れている。灯油より危険な代物が、玄関ドアの裏表周辺に液体や気体として蔓延していた。
危険極まりない中、亜実は異臭の出所を、田島が誤ってこぼしたガソリンとは考えなかった。昨今の諸事情から小学生がガソリンを直で入手できるはずはなく、どこかの換気扇から流れる調理油の臭いか大気汚染の類だと、自分自身を納得させていた。
その筋の報告書によれば、豊川や安藤も異臭の元がガソリンである事を把握はできていたらしい。把握は。
今さらガソリンの危険性を長々と説く気は無い。簡潔に言えるのは、健常者でも障害者でも扱いを誤れば危険という事……。ガソリンは原料の石油も含め、現代の文化的生活には欠かせない存在だ。しかし時には、大小あれど人を危機へ追いやる。
……当時の亜実は、肝心の危機感を湧かせていなかった。その後、ガソリンの猛火の熱を感じた途端、ようやく湧いたよう。理系の久保は、当時の危険性を一番把握できていた。
「引火の恐れがありますよ?」
「換気する時間はありません」
久保の助言に対しても、亜実は動じなかった。後に引けない状況なのは確かだが、淡々とした彼女の振舞いは災いを招きがち……。
眼前の安藤は開錠作業を続けている。鼻につくガソリン臭に恐怖を覚えながらも、ワイヤーカメラを操っていた。玄関ドアはワンキーツーロック式で二ヶ所とも施錠されていた。そのため彼女は慣れない所作で、両方とも開錠せねばならない。前回の柏崎宅は片方だけの施錠だったので、ドアを開けるまでの時間が余計に長くかかる。
「気化してるから焦らず慎重にね」
安藤の耳元で、久保が小声で言った。亜実から受けるプレッシャーに対する、せめてものの抵抗だ。
ガソリンの危険性を詳しく知る彼は、アタッシュケースをそっと床に置き、それのロックを外した。言うまでもなく、気化したガソリンを引火させないよう注意を払いつつ。
「くるな! 入ってくるな!」
田島の大声が聞こえる。声には怒気がこもっているが、恐怖心も目立つ。まあ、玄関ドアを無理やり開けようとする亜実たちを、彼が温かく迎えるはずはない。
田島宅に当時いたのは、ターゲットの田島と彼の恋人柏崎の二人だけ。例のごとく、両親とも働きに出ていた。柏崎は邪魔な存在でしかなく、これまでの話から居合わせる展開も想定できたといえる。爆発はそれも重なり起きた。亜実の価値観からすれば、一括の想定外なんだろう。
彼女が判断ミスを自覚できたのは、田島宅の玄関ドアが吹き飛び、地に落ちた時……。開錠を務めた安藤や他の二人に落ち度はほぼ無い。任務遂行を急いでいただけでなく、油断していたに決まってる。
ガソリンに引火し爆発した原因は、ワイヤーカメラ絡みで起きた事じゃない。安藤が玄関のドアスコープを外し、ワイヤーを動かして開錠する間はまだ大丈夫だった。そこまでは運が味方したらしい。
しかし、ガソリン臭はドアスコープの向こう側からも漂ってきていた……。玄関内側の石床にもガソリンがこぼれていた。田島が故意に撒いたわけじゃないが、爆発は彼のせいだとも言える。そして、こぼした責任は柏崎にもある。その辺の詳細は、次の章で語ればいい。
そこまで狙ったのかは不明だが、爆発したタイミングは悪かった。無論、亜実たちにとってという意味で。その時というのは、安藤が二ヶ所とも開錠し、ワイヤーカメラを慎重に引き抜いた直後だ。豊川が先頭を取り、プッシュブル式の玄関ドアをゆっくり開けた瞬間。
……まず、飲みかけの炭酸水のペットボトルを開けたような、「プシュー」という音が鳴る。そして、軽い破裂音とほぼ同じくして、重い爆発音がドッと鳴り響いた。響きや震えがたちまちマンションを媒体として、周囲一帯へそれらをぶちまける。小洒落た雰囲気のカフェで、氷水入りの業務用ポリバケツを何本も蹴り倒すようなワンカット。
耳をつんざく衝撃音は、八王子市外へも届いたようだ。玄関でこぼれたガソリンはティーカップ半分ほどの量だが、それでも高威力だ。さすが、1トン以上の重さの自動車を動かすだけある。
少なからぬ爆風により、ドアは蝶番ごと外れ、通路より外側へ飛ばされた。ワイヤーカメラでのサムターン回しが滑稽に思えるほど、見事な吹き飛ばされ様だ。玄関ドアはただちに落下し、アスファルトの路面に叩きつけられる。重く響いた衝突音だが、爆発そのものと比べれば「屁」でしかなかった。
不幸中の幸いとして、アタッシュケースの中身である除去機は無事だった。それを出した後だったら、哀しくも故障しただろう。
「ああっ、負傷! ふ、負傷しました!」
悲痛な声がした。久保の発言だが、彼の視線は自身じゃない。
「と、とよか、ベータさん、ベータが負傷してます」
この震え声は安藤だ。尻餅をつく彼女の両膝の上に、豊川が仰向けで倒れこんでいる。彼は激痛を堪えながら、仲間の顔へ目を配っていた。爆発で重傷を負ったのは彼だけで、他の三人は家庭内診療で済む軽傷だ。耳鳴りはやがて鎮まった。
「じ、自分でその、自分でやれますんで、任務を、ターゲットのほう、ターゲットを、ゆ、優先してください」
豊川が言った。彼は左脇腹を左手で上から押さえつつ、右手で上着の内側から小袋を取り出す。それは支給品の救急セットで、自力での止血も可能だ。鎮痛剤などの薬も入っている。
「……入りましょう」
亜実はそう言うと、ピストルの銃口を室内へ突きつけながら、田島宅へ入る。玄関で燃えている靴を、彼女は通路へ蹴り出した。
彼女に続き、久保と安藤も中へ。安藤は重傷の豊川に気遣う顔を見せ、彼はそれに笑みで返す。激痛により作り笑いに見えたものの、安藤はひとまず安堵できた。
しかし、亜実は微塵も安堵できずにいた。爆発は玄関内側で起きたため、田島宅は小物や家具が酷く散乱している。玄関付近のドアは外れ、リビングの窓はどれも粉々だ。狭いベランダの床はガラス片や洗濯物で埋め尽くされている。窓外から吹きこむ風が、レールから外れかかったカーテンを虚しく揺らす。足の踏み場を気をつけながらの捜索となった。
「トイレクリア」
「お風呂場いません」
久保と安藤の報告を耳に挟みながら、亜実はある部屋へ踏みこむ。その一室は、柏崎宅なら柏崎萌恵の部屋に位置する所だ。今はすっかり警戒モードの亜実は、部屋の中が無人である事がわかるなり、深々とため息をつく。これは安堵じゃなく、任務がさらに面倒になりそうだと悟れたからだ。田島が家のどこかで家具の下敷きになっていたら、そこから引っ張り出さねばならない。時間のロスだけでなく、消防や警察、群衆などへの対応も避けられない状況だ。イナゴの群れを突っ切る事はできても、面倒なのは変えられない。
「おーい。下から、あし、足音がした。聞こえたよー。下から、下から」
それは豊川の声だった。彼は止血を済ませた時、階下の通路から二人分の早い足音を聞きつける。爆発で住民が避難し始めたのはその後のため、足音を立てた二人が田島と柏崎である事を推察できた。
「し、下にいる、その、デルタに、早く、早く伝えたほうが」
豊川は捜索中の三人へそう言うなり、鎮痛剤の錠剤を口内へ放りこむ。
彼も自分たちの任務がより面倒になった事はわかりつつも、激痛と比べれば小さな話に思えたらしい。とはいえ、立ち上がって田島たちを追いかけられる状態じゃない。後の診断で判明するが、彼は肋骨を四本も折っていた……。




